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2011年10月17日
Ravenna (イタリア旅行記 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~)
時代の中で人生が大きく翻弄される女性たちがいる。
織田信長の妹であるお市の方や、その子であるお茶々の運命は、日本人でなくても悲哀を感じるだろう。
そして、ヨーロッパでは5世紀という時代を生きたガッラ・プラチディアもその一人であろう。
ガッラ・プラチディアはテオドシウス帝の子として生まれた。兄はアルカディウスとホノリウスである。テオドシウス帝は亡くなる前に、軍総司令官のスティリコにこの二人の兄弟を託した。18歳のアルカディウスはローマ帝国の東側を、10歳のホノリウスはローマ帝国の西側を治めることになった。
しかし、23歳になったホノリウスは嫌気が差して軍総司令官のスティリコを処刑してしまう。無防備となった西ローマ帝国を西ゴート族のアラリックが攻める。そして、ローマ劫掠が行われた。そのときに、ガッラ・プラチディアは捕囚されたのである。
そして、アラリックの後継であるアタウルフと結婚することになった。得意満面であったアタウルフだが、イベリア半島に移ってから他の諸部族と対立し窮してしまった。これを打開しようと次の族長となるヴァリアはローマと関係改善を謀った。その条件とはアタウルフの殺害、ガッラ・プラチディアの返還、そして、食糧援助である。こうやって、北アフリカから送られた大量の小麦と引き換えに、ガッラ・プラチディアは5年ぶりにイタリアへ戻って来たのだった。
間も無く、ガッラ・プラチディアはホノリウス帝の承認の下に、貧農の生まれの将軍コンスタンティウスと結婚させられた。この二人の間にヴァレンティニアヌスという男子が生まれる。
2年後、子のいないホノリウス帝が亡くなると、ヴァレンティニアヌスが後継となった。まだ6歳のヴァレンティニアヌス帝は母であるガッラ・プラチディアの後見を必要とした。ここに来て、ガッラ・プラチディアは西ローマ帝国を統治することになったのだ。このとき彼女は30歳代の半ばであったという。
何という波乱の人生!!
現在、ガッラ・プラチディアの廟に彼女の亡骸はなく、他に埋葬されていると聞いた。コンスタンティウスと一緒に埋葬されることは、彼女の中にあるテオドシウス帝の娘としてのプライドが許さなかったのだろう。
ガッラ・プラチディアの廟 | サンタポッリナーレ・ ヌオーヴォ聖堂 | ネオニアーニ洗礼堂 キリストの洗礼と十二使徒 |
投稿者 sue_originalcv : 2011年10月17日 06:11
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