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歴史の底流(日本古代史)


1.周防灘(すおうなだ)

 九州へ帰って来て、父の書斎にある本を読んだり、北九州にまつわる伝記、神話を聴いたりしていると日本の古代について、物凄く興味が湧いて来ました。日本の古代については星の数ほどの文献がありますし、学者が語り、教科書が語る歴史があります。それをここで披露しても何の面白みもありません。

 まだまだ勉強不足で浅い歴史の知識しかない私ですが、ギリシャ、ローマを実際に歩き回り見て来た視点から、日本の古代を見たらどのように映るのか、それを話してみたいと思います。「また、馬鹿なことを言っている」という程度に聴いていただければ結構です。しかし、私の話から歴史に興味を持つ方が増えたとしたら、これほど嬉しいことはありません。

 紀元前10世紀から6世紀にかけて、エーゲ海、地中海は海の民としてのギリシャ人、フェニキア人が活躍し、各地に植民都市を作りました。一方、日本海、東シナ海、黄海は文献がほとんどないので、海の民としてどれほどの活躍があったのかは何もわかりません。

 そこで、最初の私の視点ですが、古代より日本海、東シナ海、黄海においても、エーゲ海や地中海と同じように海の民が活躍していたのではないかというところから始まります。

 では、ここで東アジアの地図を広げて見てみましょう。海の民の拠点として利用できる理想的な場所はどこでしょうか。内には守りやすく、外には交易をしやすいところ。

 ズバリ、瀬戸内海にある周防灘です。そして、さらに伊予灘までを含めるとすればこれほど完ぺきな場所はありません。北西には穴門と言われた下関のある関門海峡、南には関サバで有名な速吸瀬戸と呼ばれる豊予海峡、西には伊予・松山の先にある釣島海峡、この狭い難所と言われる3つを抑えれば、その内海の安全は完全に保証されます。

 守りやすいということは大変重要なことです。

 今、税金というと社会保障費、教育費、国防費・・・など大変に複雑な用途に使われていますが、古代ローマにおいて、税金とは国防費だと言っても過言ではありません。ですから、守りやすいというのは防衛に人出をさかなくてよいので国防費が安くなり、税金が低くなります。よって、その地域の生産活動が活発になり、その地域が富むということに繋がっていくのです。

 では、日本の古代において、この地域をどのように見ていたのかを探ってみましょう。

 古事記の中に書かれている大八島国の生成です。イザナギノミコトとイザナミノミコトによって島が作られていくわけですが、これを大和から朝鮮半島を含む大陸との交易ルートと考えて聞いて下さい。

 まず、淡路島が作られ、次に伊予を含む四国、隠岐、筑紫を含む九州、壱岐、対馬、佐渡、そして、最後に畿内の大和。

 さらに、「然(しか)ありて後、還(かえ)ります時・・・」と続き、吉備の児島、小豆島、そして、周防大島、姫島と産んで行きます。数多ある瀬戸内海の島で、なぜ、この四つの島が選ばれたのでしょうか。もちろん、この四つの島は戦略的に重要な島だからこそ名前を残しているに違いありません。

 児島、小豆島を含む吉備は日本で四番目に大きい造山古墳があります。ここに吉備水軍があったとみてよいでしょう。次に、周防大島、姫島ですが、姫島は国東半島の先端にある小さな島です。この周防大島と姫島を線で結ぶと、その線の北西は周防灘、南東は伊予灘なのです。

 ここにも吉備水軍と同じような水軍があったと見ても差し支えないのでははいでしょうか。そして、その中心地として宇佐があるのです。

2.宇佐

 宇佐と言えば、伊勢神宮につぐ第二の宗廟として知られる宇佐神宮でしょう。

 ここに古事記に隠されたトリックを解く第一の鍵があるのですが、それを語る前にいくつかの準備をしておかなければなりません。

 宇佐を含む周防灘沿岸の豊前地域には3-7世紀にかけて多くの渡来人が住んでいたと考えられています。

 奈良東大寺の正倉院に残っている戸籍の断簡から、豊前地域の各地区では「秦部(はたべ)」、「・・・勝(すぐり)」を名乗る渡来人の人口比率が7割から9割を占めていることがわかります。圧倒的な数字です。

 また、遣隋使小野妹子に従って倭国に派遣された使者裴世清は「隋書倭国伝」で次のように記しています。

 ・・・又東して一支国(壱岐国)に至り、又竹斯国(筑紫国)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ、・・・。

 筑紫の東にあるのは豊前のことですから、それを秦王国と呼んでいるのです。周防灘は秦王灘をうつしたという説もありますから。そして、華夏というのは中国のことですから、そこに住んでいたのは中国人と同じだったと言っているわけです。

 ここで古代日本に渡って来た人々について考えてみましょう。それはその時々の東アジアの情勢を抜きにして考えることは出来ません。

 人類の歴史は小国への分裂と大国への統一を繰り返して発展して来ました。この大国へ統一する直前に大量の難民が発生します。東アジアでのその第一期は紀元前3世紀前後。中国では春秋戦国の分裂が終わり、秦が統一を果たし、その後に前漢へと続いていく時代。揚子江河口辺りから大量の難民が発生し東シナ海を渡って、朝鮮半島南岸や九州北部の博多湾沿いや遠賀川河口辺りに住み着きました。それらの人々を慣習的に弥生人と呼び、日本では縄文時代から弥生時代に変わる転機となりました。

 その後、前漢、後漢と約400年間の統一された大国としての安定期が続きますが、紀元3世紀から三国時代、五胡十六国、南北朝を経て隋、唐が統一を果たす7世紀まで再び分裂の時代が続きます。その分裂の時期、朝鮮半島では楽浪郡、帯方郡の滅亡。高句麗、百済、新羅、加羅の領土争い後、加羅、百済が滅亡し、新羅が統一を果たします。その期間も大量の難民が発生し古代日本に渡って来ました。これが第二期であり、それらの人々を慣習的に渡来人と呼んでいるのです。

 この頃の古代日本は17-19世紀にかけての新大陸アメリカと同じだったのではないかと思います。つまり、未開の肥沃な地。大陸ではなく島ですので、言うなれば新島日本ですが・・・。宗教戦争、皇位継承戦争が各地で続くヨーロッパ人が目指す新大陸アメリカと、領土争いが続く中国、朝鮮半島の人々が目指す新島日本は希望が叶えられる夢の地という意味で同じだったのではないでしょうか。

 第二期の朝鮮半島から渡って来た渡来人はすでに第一期の弥生人が定着している博多湾沿いや遠賀川河口での争いを避けて、関門海峡を回り、まだあまり人の住んでいなかった宇佐に上陸。渡来人は新しい技術をもった工人が多く、各地から引手数多であったと考えられますので、宇佐から北九州、瀬戸内海沿岸、大和へと移住していったのではないでしょうか。宇佐は新大陸アメリカにおけるニューヨークと同じような位置付けだったと思います。

3.不可解な古事記

 1620年 メイフラワー号でピルグリムファーザーズが新大陸アメリカに上陸してから、1776年 アメリカ合衆国が独立するまで156年かかっています。

 そして一方、266年 倭女王壱与が西晋に朝貢して以降、147年間中国との国交、史書に倭の記録は見つかりません。俗に「謎の4世紀」と言われ、教科書には大和朝廷による統一が進んでいると書かれています。私はこの頃から続々と渡来人が日本に渡って来ているのではないかと考えています。

 この双方の約150年という期間が新大陸アメリカの独立と新島日本の統一するスパンとしてマッチしているように見えるのです。

 アメリカ合衆国が独立した後も続々と移民が上陸しているので、その移民達にとっては不安と希望が混ざり、今日オリンピックで見られるような「ユー、エス、エー! ユー、エス、エー!」と大合唱するようなアメリカ人としての愛国心を持つ余裕はまだなかったでしょう。

 同じように、新島日本が統一した後も、続々と渡って来た渡来人においても「ニッポン、チャチャチャ! ニッポン、チャチャチャ!」というような日本人としての愛国心を持つ余裕はなかったと思います。そこにあるのはあえて言うならば、秦系日本人、漢系日本人、呉系日本人、新羅系日本人、百済系日本人、加羅系日本人、高句麗系日本人・・・。

 その人々が同じ日本人としての意識を持ち始めるにはかなりの時間が必要であったと思いますし、そして、同じ日本人としての意識を持ち始める手段として、日本最古の歴史書である古事記、或いは日本書紀が果たした役割は計り知れないほど大きいと思います。

 では、その古事記とはどのような書物であるのかを見ていきましょう。

 古事記は上つ巻、中つ巻、下つ巻の3部で構成されています。上つ巻は高天原の神の話で、イザナギノミコト、イザナミノミコトの国造りからニニギノミコトが葦原の中つ国に天孫降臨する辺りまで。中つ巻はニニギノミコトの末裔である神武天皇の東征、ヤマトタケルノミコトによる全国平定後、仲哀天皇の后である神功皇后の新羅征討、そして、応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇まで。

 つまり、上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。

 この中つ巻の中で、私は何度読んでも腑に落ちない、奥歯に物が挟まったような感じがする所があります。それは仲哀天皇の出だしです。

 「帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」

 中つ巻の天皇の中で、神武天皇は日向から大和に東征するので別として、その他の天皇は仲哀天皇以外すべて大和、或いは大和の近くの宮に

 「**宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」

となっているのです。

 なぜ、仲哀天皇だけは大和近辺ではなく、突如として山口県の豊浦宮、或いは、福岡県の香椎宮に来たのでしょうか。そして、香椎宮にて突然崩御、神功皇后がピンチヒッターに立って新羅遠征となります。あまりの話の急展開で付いていけないばかりでなく、古事記全体のストーリーの中でも前後の繋がりがなく浮き上がってしまっています。

 この仲哀記を省いてしまった方が古事記のストーリー性としては完ぺきなのです。なぜ、古事記の編纂者はこの仲哀記を無理に挿し込んだのでしょうか。

 私にはこれを挿し込むことによって、白村江の戦いの敗北によって、すでに朝鮮半島から勢力を駆逐されているにも関わらず、未だに朝鮮半島の中にその勢力は存在するのだということを内外に誇示しておきたいがための脚色であったとしか考えられないのです。

4.宇佐と古事記

 古事記の中で宇佐が登場するのは神武天皇の東征においてです。

 「・・・日向より発たして筑紫に行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、その土人、名は宇沙都比古、宇沙都比めの二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその國より上りいでまして、阿岐國の多け理宮に七年坐しき。またその國より遷り上りいでまして、吉備の高島宮に八年坐しき。・・・」

 宇佐でのみ大御饗が行われ、他の地では滞在をしているだけ。ということは宇佐で軍の結団式、つまり、旗揚げをしているように見えます。旗揚げで行われるのは古今東西変わりなく、戦勝祈願です。兵士の士気を高めるために行います。もちろん、士気が低い軍団では勝てるわけがありません。東征するには大軍団でしょうから、戦勝祈願する神社もそれなりに大きいところと考えると、それは宇佐神宮の他には考えられません。

 では、宇佐神宮に祀られている八幡大神は、現在、応神天皇とされていますが、神武天皇の頃にはまだ生まれていません。他に、比売大神(宗像三女神)、神功皇后も祀られていますが、応神天皇が祀られて以降です。ここら辺りは政治的な臭いがプンプンとするところです。

 神武天皇の頃の宇佐神宮に祀られている八幡大神とは一体どのような神だったのでしょうか。

 『八幡宇佐宮御託宣集』(略称『宇佐託宣集』)巻六によれば、豊前国の宇佐宮に鎮座する八幡大神は、聖武天皇の天平二十年(748)九月一日、みずから託宣して「古ヘ吾レハ震旦国ノ霊神、今ハ日域(日本国)鎮守ノ大神ナリ」と告げられたといいます。震旦国とは古代のインドや西域の人々が東方の中国を呼ぶ言葉でした。

 つまり、八幡大神とは中国の霊神だったということになりますが、中国の霊神って何?

 中国の南北朝時代、道教、儒教、仏教が三つ巴の抗争をしていたと言われています。しかし、私は今の時代においても中国の民間信仰の中で、これらは共存しているように思えるのです。

 一枚の有名な絵があって、老人になった老子に、青年の孔子が赤ん坊の仏陀を手渡してるところがあります。

 万物(自然)の道を説いたのが老子。
 人の生きる道を説いたのが孔子。
 人の死後の世界を説いたのが仏陀。

 これらはそれぞれ説いている世界が違うのであって相反するものではありませんから、すべてを大きな心で包容してもいいのだと中国の民間信仰の中では言っているように思えるのです。

 そのような目で八幡大神を見ると、なんだか大きく見えます。

 宇佐の地に鎮座する八幡大神。少し仏の方に力点を置くと、東の国東半島の石仏になり、そして、少し神の方に力点を置くと西の英彦山、求菩提山の修験道になるといった具合です。

 大分、話がそれてしまいました。ここでは宇佐が大和への東征の旗揚げになった地であるということだけを覚えておいてください。

5.海にまつわる神と水軍

 古代日本において、交通手段の主役は日本が海に囲まれているという環境を考えても船だったに違いありません。

 電話やインターネットもない中で、情報伝達手段の主役もまた船だったとすれば、水軍をもっている氏族が政治や経済においても圧倒的な優位に立っていただろうことは容易に想像出来ます。

 そこで古事記の中で有力な水軍の手がかりになるのは海にまつわる神だと考えました。

 「禊祓いと神々の化生」の段を読むと

 「・・・次に水の底にすすぐ時に、成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒之男命。中にすすぐ時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒之男命。水の上にすすぐ時に、成れる神の名は、上津綿津見神。次に上筒之男命。この三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ちいつく神なり。・・・その底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は月読命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は建速須佐之男命。・・・」

 底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神は綿津見三神と呼ばれ、福岡県福岡市東区志賀島にある志賀海神社に祀られています。ここを拠点とする水軍を安曇水軍、或いは安曇氏と呼ぶことにしておきましょう。

 底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命は住吉三神と呼ばれ、ここでは摂津ではなく、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社を考えています。ここを拠点とする水軍を住吉水軍、或いは住吉氏と呼ぶことにしておきましょう。そして、この住吉神社には神功皇后も合祀されています。

 この綿津見三神と住吉三神は天照大御神、須佐之男命と同世代の神になります。

 次に「天の安の河の誓約」の段を読むと

 「ここに天の安の河を中に置きて誓ふ時に、天照大御神、まづ建速須佐之男命の佩ける十拳剱を乞ひ度して、三段に打ち折りて、瓊音ももゆらに、天の眞名井に振りすすぎて、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、多紀理毘売命。亦の御名は奥津島比売命と謂ふ。次に市寸島比売命。亦の御名は狭依毘売命と謂ふ。次に多岐都比売命。・・・」

 多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命は宗像三神と呼ばれ、福岡県宗像市にある宗像大社に祀られています。天照大御神から生まれていますから、天照大御神の次の世代の神になります。

 以上の世代間のことと、地理的な関係から考えますと、魏志倭人伝に書かれている朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦半島の交易ルートがあった時代は安曇氏と住吉氏が先行してこのルートを牛耳っていたと考えられます。安曇氏のいる志賀島からは「漢倭奴国王」の金印が出土していますし、住吉氏のバックにある春日市の須玖岡本遺跡一帯は北部九州における青銅器鋳造センターですので、その実力とも随一であったに違いありません。

 次の新興勢力である宗像氏は利潤の大きいこの朝鮮半島との交易ルートに割り込みたいと考えていますが、まだ成しえていないという状況だったのではないでしょうか。

 では前回、大和東征の旗揚げの地とした宇佐にある宇佐神宮の主祭神を見てみましょう。

 一之御殿 八幡大神(応神天皇)
 二之御殿 比売大神(多岐都姫命、市寸島姫命、多紀理姫命・・・・宗像三女神)
 三之御殿 神功皇后

 これを見て、あっと思わないでしょうか。

 宇佐氏は宗像三女神を取り込むことによって直接的に宗像氏と繋がっており、神功皇后を媒介することによって間接的に住吉氏と繋がっていると。

 もう私の意図するところはおわかりでしょう。

 大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと。安曇水軍はこの東征に関わっていません。

 これだけではないのです。大和東征はもっと用意周到で入念に計画されています。

6.宇佐氏による大和東征計画

 前回、大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと書きました。

 この遠征の主力部隊は水軍です。しかし、大和というのは奈良盆地にあるわけですから、ここを攻めるには水軍だけでは不十分です。

 今風に言うならば、自衛隊は専守防衛なので上陸作戦に力を入れていないと思いますが、在日米軍で例えれば、「すでに宇佐水軍と宗像水軍を持っているから、横須賀のネイヴィはいらない。今、最も必要なのは沖縄のマリーンだ。」ということになるでしょう。

 古代において、マリーンなんてないですから、それに対応するにはやはり馬を使った騎馬軍だと思います。さて、古代日本の中で優れた馬なんていうのはあるの?

 そのヒントになるものがないかを記紀の中で探してみたら、ありました。

 推古二十年(613)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があり、蘇我馬子の作った歌に和して推古女帝は蘇我をたたえる歌を作りました。

 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき (『日本書紀』)

 私はこの歌に非常に興味があります。日向 ・・・ 呉 ・・・ 大君の側近としての蘇我氏 を結びつけるものだからです。蘇我馬子の墓は奈良県明日香村にある石舞台古墳とされていますが、周囲に土塁をめぐらした珍しいもので日本に4つしかありません。その内の2つが宮崎県の西都原古墳群の中にあるということは先の結びつきを深めているように思います。また、宮崎県串間市から直径33cm、厚さ6mm、重さ1600gというとんでもない超大型の壁が出土しており、呉との関係を窺わせます。

 そこで次の仮設を立てます。

 ”中国南朝の呉の末裔である大君は日向に渡って来て、その側近に蘇我氏がいる”

 ここでは、日向の蘇我氏、或いは、蘇我騎馬軍と呼ぶことにしておきましょう。

 話は戻って、宇佐氏はこの蘇我騎馬軍を上陸部隊として抱き込んだと考えられます。宇佐神宮の境内の西参道に日本百名橋のひとつである屋根付きの木造橋があり、呉橋と呼んでいます。これも宇佐氏と、呉(橋)を通じて、蘇我氏と繋がっていることの証とはならないでしょうか。

 いよいよ大和東征の主力の陣容が固まりました。宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍。

 「・・・、吉備の高島宮に八年坐しき。」(古事記) ここで吉備水軍も合流。その後、

 「故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ打ち羽拳き来る人、速吸門に遇いき。ここに呼び寄せて、『汝は誰ぞ。』と問ひたまへば、『僕は国つ神ぞ。』と答へ日しき。また、『汝は海道を知れりや。』と問ひたまへば、『能く知れり。』と答へ日しき。・・・」

 ここでいう速吸門とは鳴門海峡のことだと考えられます。古事記ではここを通り、難波の渡りを過ぎて楯津で合戦後、痛手を負って引き下がり、南を回って熊野から侵入し成功したことになっていますが、実際の作戦はそのような直線的なものではないように思います。

 淡路島手前の播磨灘で、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍、そして、別働隊として吉備水軍の船に乗り換えた蘇我騎馬軍に分かれます。

 まず、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍は堂々と明石海峡を通って、大阪湾に入り、そして、古代に存在した河内湖に入って敵の大和の軍隊を引き付けます。

 一方、蘇我騎馬軍を乗せ、水先案内人を付けた吉備水軍は少し時間を置いて、難所の鳴門海峡を渡り、手薄の紀の川河口に入ります。蘇我騎馬軍はここで上陸。ここから紀の川を遡行して東にさかのぼり、吉野の手前の奈良盆地の南端から盆地内に突入。

 これが理に適った作戦ではないでしょうか。

 と、ここまで大和東征がどのように行われたかを見て来ましたが、皆さん、不思議に思うことはないでしょうか。それは淡路島に至る西側で一度も戦いがないということ。つまり、淡路島以西を政治的にまとめ上げていることです。

 卑弥呼の時代、倭国は乱れて、ようやく卑弥呼を共立することによって、国を治めていたのですから、それから時が経っているとはいえ、これだけの政治力を発揮できる実力者が従来の国の中から突然変異的に現れたとは考えにくいのです。

 やはり、4世紀以降、渡来人としてわたって来た宇佐氏の中にその実力者がいたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

7.宇佐氏の卓越した政治力

 前回、大和東征において、淡路島以西で一度も戦いがなく、政治的にまとめ上げていることが不思議だと書きました。

 裏を返せば、それほど、宇佐氏は卓越した政治力を持っていたということになります。その理由として次の3点を挙げてみましょう。

(1)情報収集力

 以前、ヨーロッパから大西洋を渡った移民者の受け入れ先が新大陸アメリカのニューヨークであったのと同じように、宇佐は朝鮮半島から渡って来た渡来人の新島日本における受け入れ先だと書きました。そして、彼ら渡来人は新しい技術を持った工人が多く、この宇佐から引く手あまたの状態で古代日本の各地に送られ、住み着いていったと考えられます。宇佐はまさに渡来人のリクルートセンターだったわけです。

 ここで重要なことは、各地に送られた渡来人が送られた先の現地の情報を再び、宇佐に返していたのではないかと思われることです。新しい技術を持った工人としての渡来人は各地の産業基盤の中枢に速やかに入っていったと考えられるわけで、その各地で収集した情報も極めて正確で詳細だったことでしょう。ここに、宇佐を中心とした渡来人ネットワークが構築されたと考えます。

 すでに弥生時代に古代日本に渡って来て住み着いている弥生人の各氏族もまた、各地に密偵を送って情報の収集を行っているとは思いますが、情報の質は渡来人ネットワークに比べて格段に劣っていたに違いありません。

 そのように考える物証が何か残っているのかと問われれば、何も残っていないと答えるしかないのですが、あえて答えるとすれば、宇佐に大規模な古墳群がなく、大和東征が成就した後、河内に誉田山古墳(伝応神天皇陵)を含む古市古墳群、そして、大山古墳(伝仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群が造られたことです。

 宇佐氏は当初から、古代日本を統一した後、統治する場所として古代日本のほぼ中央にある大和附近を考えていたわけです。九州の宇佐では西に寄り過ぎて、統治の場所として相応しくないと思っていたのでしょう。いわば、宇佐という地は宇佐氏にとっては持ち家ではなく賃貸のような借りの地だったということになります。

(2)地理的優位性

 宇佐氏の支配する周防灘、伊予灘を中心に見ると、東に吉備氏、南に日向の蘇我氏、北西に宗像氏が隣接しています。彼らをまとめ上げるには最適の位置にあります。淡路島以西を政治的にまとめ上げた要因もこの地理的な優位性にあります。そして、当時、最も勢力の大きかった博多湾岸の勢力、そして、大和の勢力の間にありますので、双方からの情報をいち早く入手出来たに違いありません。情報収集のスピードという点においても各氏族より優っていたわけです。

(3)兵法『六韜』の熟知

 中大兄皇子の腹心である中臣鎌足は蘇我氏を分裂させ、大化の改新(645年)で蘇我氏を滅亡へと追い込んだ、その政治的手腕は空恐ろしいものがあります。その中臣鎌足は兵法『六韜』を丸暗記するほど熟知していたと伝えられています。

 私は、その中臣氏が宇佐氏から派生した一氏族だと考えています。故に、中臣氏の前身である宇佐氏の中で、すでに兵法『六韜』を入手し、中臣鎌足と同じように、それを熟知した政治的実力者がいたとも考えられないでしょうか。

 政治、及び、軍事のノウハウを知っているか否かの差は非情に大きな違いです。

 その兵法『六韜』の第一巻「文韜」の中に次のような文章があります。

「・・・魚はその餌を食うので釣り糸で引き上げることが出来るのですが、人間も同じことで、その碌によって君に服するものです。士大夫の地位を餌に賢士を集めるならば諸侯の国が釣れるでしょうし、諸侯の地位を餌ににして人材を集めたならば天下を手にすることができるでありましょう。・・・」

 具体的に、宇佐氏は宗像氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。

 以前、アマテラスと同世代の神である綿津見三神を奉じる安曇氏、そして、住吉三神を奉じる住吉氏はアマテラスの次の世代である宗像三女神を奉じる宗像氏よりも朝鮮半島の交易で先行していたと書きました。つまり、宗像氏も利潤の大きい朝鮮半島の交易に参加したかったのですが出来ていなかったのです。

 宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には、朝鮮半島の交易権を宗像氏の独占にしてもよいという密約を交わしたのではないでしょうか。宗像氏はその餌に食いついたのです。このことが後に、古代最大の内戦と言われる磐井の乱(527年)へと繋がっていくことになります。

 そして、もう一方で、宇佐氏は日向の蘇我氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。

 蘇我氏は日向に渡って来た中国南朝呉の末裔に使える近臣です。とすれば、蘇我氏は何よりも中国南朝呉の復興を古代日本の中で起こそうと考えるはずです。宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には呉の末裔を大王の座に付けてもよいと確約したのではないでしょうか。蘇我氏はその餌に食いついたのです。

 古代日本を統一する上で、この効果は非常に大きなものがあったと思います。どんなに実力があってもどこの馬の骨かわからない人物に人は付いて行きません。中国南朝呉の末裔という血筋の良さは錦の御旗になります。故に、統一する過程で帰属する氏族には、呉の技術者にデザインさせた三角縁神獣鏡を下賜し、勢力を広げていったと考えます。

 しかし、後に、蘇我氏の勢力が強くなり過ぎたことが大化の改新(645年)を引き起こすことになります。

 宇佐氏は大王の座や海外との交易権を与えても、摂政・関白(中国で言うと宰相)という実権さえ手に入れればよいと考えていたのではないでしょうか。

8.古事記のトリックの解明

 さて、いよいよ古事記のトリックの解明に入ります。

 以前、『上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。』と書きました。

 この中つ巻にメスを入れていきますが、私の考え方のベースは古事記といえども同じ人間が作りあげたもの。考え方のベースは変わらないだろうというところから入ります。

 まず、骨子を作り、そして、肉付けに入るということです。

 古事記の中での骨子とは、『天皇が何をしたか』ということだけ。それ以外は後から肉付けしたものだと考えます。そして、骨子を作る場合でも、まるまる空想から作り上げるということは不可能なので、実際に起こった事柄にトリックを入れて書き換えたと考えます。そのトリックの条件はシンプル、かつ、大胆であるということ。複雑なトリックを入れると前後の辻褄合わせの書き換えが大変な作業になるので行わないと考えます。

 そして、私がたどり着いた結論は次の3つのシンプル、かつ、大胆なトリックが行われたということ。

(1)第一のトリック 主人公の入れ替え

 実在の天皇が行ったことを、架空の天皇を作り上げて、その架空の天皇が行ったように見せかけること。

(2)第二のトリック 時系列の入れ替え

 架空の天皇が行ったことを、実際に起こった事柄よりも時系列で古く見せかけること。

(3)第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え

 どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。

 そのトリック解明の突破口はやはり宇佐です。宇佐神宮のホームページには次のように紹介されています。

 『八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。』

 この文章をご覧になって、「へぇー、すごいね。」だけで終わっていませんか。約4割の神社を支配しているのです。古くから長きにわたって、八幡大神こそがこの日本を支配して来たと言えるのではないでしょうか。この単純な事実を見逃してはなりません。

 そして、725年、八幡大神とは応神天皇だとして、現在の地に創建されたのです。710年に古事記が、そして、720年に日本書紀が編纂されていますので、その直後ということになります。

 ところがこれらの記紀の『応神天皇』の記述の中に『宇佐』の一言の文字も入っていませんし、応神天皇が英雄視されるようなことは一切書かれていません。これはまことにおかしい。

 第一の宗廟である伊勢神宮が高天原のヒロインである天照大御神を祀っているのならば、第二の宗廟である宇佐神宮には葦原中国のヒーローを祀っているのが筋。当時の政府はそこに応神天皇が相応しいと言っているのです。ところが記紀の中にはそこのところの何の記述もない。

 これは当時の政府がこの矛盾を知っていながら、放置している感があります。

 では、記紀の中で葦原中国のヒーローと言えば、大和東征を行った神武天皇に違いありません。

 ここで応神天皇と神武天皇は同一人物ではないかと思えてくるのです。言い方を換えれば、神武天皇とは架空の天皇で、応神天皇が行ったことを神武天皇が行ったように見せかけているということです。

 これを断定するには清水の舞台から飛び降りるようなものですが、一度、飛び降りてしまえば後はとんとん拍子で進みます。

 古事記の中で『崇神天皇』は『初国知らしし天皇』とありますので、これも応神天皇のことではないかと考えられます。よって、中つ巻の神武天皇から崇神天皇までは応神天皇と同一人物。つまり、応神天皇が行ったことを架空の天皇である神武天皇から崇神天皇に置き換えたと考えられます。

 そして、次の垂仁天皇から成務天皇も架空の天皇で、仁徳天皇が行ったことを置き換えていると思われます。そうすれば倭建命の全国統一は仁徳天皇のときに行われたことになり、「世界三大墳墓」と言われる大山古墳が仁徳天皇陵と伝えられる通説にも合致することになります。

 前述した第一のトリックと第二のトリックは神武天皇から成務天皇までを対象としたということ。そして、実際は応神天皇と仁徳天皇が行ったことだと考えたわけです。

 このように考えると、私には嬉しいことがあります。私たちの古事記の中つ巻のトップバッターとして登場するのは仲哀天皇になります。以前、不可解な古事記と称して書いた仲哀天皇の出だし部分が不可解でなくなってくるのです。

 「帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」

 大和東征を行ったのは応神天皇なので、仲哀天皇が豊浦宮や香椎宮に坐してもまったくおかしくないのです。そして、さらに言えることはこの仲哀記こそは大和東征前の九州の情勢を知る貴重な題材になるということ。ここでも最大のトリックを解かなければなりませんが、古代史の謎の核心部に触れていくことになります。

 そして、ここで事件が起こるのです。

9.仲哀記の真相!?

 具体的に仲哀記を見ていく前に、これまで述べて来たことから、九州の情勢について整理しておきましょう。

 大和東征の旗揚げの地となった宇佐に宇佐水軍があり、この宇佐氏を中心として、宗像水軍と呉の末裔がいる日向の蘇我騎馬軍がこの遠征に参加します。

 一方、北部九州には博多湾岸に朝鮮半島との交易があり、九州随一の実力を持っている住吉水軍、そして、安曇水軍がいます。

 宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍の連合軍が大和東征を行うならば、その背後の守りを抑えておくことが絶対条件となります。つまり、住吉水軍と安曇水軍に「動かない」ということの確約を取っておく必要があります。

 さて、この確約を簡単に取ることは出来るでしょうか。

 新興勢力の宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍の連合軍よりも、既存勢力の住吉水軍、安曇水軍の方がはるかに実力が優っているのです。また、もともと住吉氏と安曇氏は中国北朝の魏と関係があり、蘇我氏が側近にいる中国南朝の呉の末裔といっても、「何する者ぞ」というぐらいの気位の高さはあったと思います。

 極端な話をすれば、魏の曹操と呉の孫権を同じテーブルの席に着かせようとしていることと代わりありません。犬猿の仲なのです。

 まずは両者を同じテーブルに着かせること。宇佐氏はこれを実現させるために、妙案を考え出しました。その妙案とは、

 『加羅国から皇女を迎え入れ、呉の末裔に嫁がせること。これには付帯条件があり、加羅国からの依頼として、皇女の後見人を住吉氏とすること。』

 これは一石二鳥の妙案で、加羅国と軍事同盟を結ぶことが出来ると共に、住吉氏を同じテーブルに着かせることができます。つまり、加羅国と交易の関係をもつ住吉氏にとっては加羅国の依頼を断ることは出来ませんし、皇女の後見人となったならば、皇女が出席する会議に「皇女の後見人として出席して欲しい」と言えば住吉氏は断ることは出来ません。

 このような状況下で行われたことが、『仲哀記』の中に描かれていることではないでしょうか。

 先に、私が考えている古事記のトリックの解明をしておきましょう。

 第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え ・・・ どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。

 仲哀天皇は「熊襲」征伐に行くのではなく、「熊襲」方面である「日向」から来たということ。
 そして、神功皇后は「新羅」征伐に行くのではなく、「新羅」方面である「加羅」から来たということ。

 どうして、そのように考えるのかは後日、詳述しますが、ここは先へ進みましょう。

 これを考慮して、私が考えている『仲哀記』に登場する人物は次の通り。

 仲哀天皇 ・・・ 日向の蘇我氏が側近にいる呉の末裔
 神功皇后 ・・・ 加羅国の皇女
 建内宿禰 ・・・ 宇佐氏
 神(住吉三神) ・・・ 住吉氏

 古事記に書かれている仲哀記の言動部分を記します。

神功皇后 「西の方に國有り。金銀をはじめとして、目のかがやく種々の珍しき宝、多にその國にあり。吾今その國をよせたまはむ。」

仲哀天皇 「高きところに登りて西の方を見れば、國土は見えず。ただ大海のみあり。」よって、「いつわりをなす神」と謂う。

神 大く怒りて、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず。汝は一道(死の国)に向ひたまへ。」

建内宿禰 「恐し、我が天皇、なほその大御琴あそばせ。」

 仲哀天皇は御琴の音をさせず、そのまま崩御。

神 「およそこの國は、汝命(神功皇后)の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。」

建内宿禰 「恐し、我が大神、その神(神功皇后)の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」

神 「男子ぞ。」

建内宿禰 「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまく欲し。」

神 「こは天照大神の御心ぞ。また底筒男、中筒男、上筒男の三柱(住吉三神)の大神ぞ。・・・」

 まず、神功皇后の述べた「西の方に國有り。」の『西』を『東』に置き換えて解釈すれば、新羅征伐ではなく、大和東征の話になります。造作もありません。

 その後、仲哀天皇(呉の末裔)と神(住吉氏)との間で口論となりますが、何について口論しているのでしょうか。仲哀天皇の「高きところに登りて・・・國土は見えず。」に着目します。

 『高きところに登りても國土は見えず。』

 ここで『國土』を『先』という文字に代えてみます。

 『高きところに登りても先は見えず。』

 意味としては何も変わらないように見えますが、主語が省略されているので、その主語が「私が」ではなく「あなたが」に代えてみます。

 『(あなたが)高きところに登りても先は見えず。』 → 『あなたが総大将になっても未来は見えない。』 → 『あなたに総大将の能力はない。』

 つまり、仲哀天皇{呉の末裔)と神(住吉氏)との間で、大和東征の総大将の地位について口論になったのではないかと思います。そして、突然、仲哀天皇は崩御します。心臓発作なのか、殺められたのか、何の記述もないのでわかりませんが、一番驚いたのが、建内宿禰(宇佐氏)であったことは容易に想像出来ます。

 これまで準備をして来たことが、すべて水の泡になってしまいます。仲哀天皇(呉の末裔)の崩御が蘇我氏に知られる前に対策を講じなければなりません。その対策とは仲哀天皇と神功皇后の子である応神天皇を大和東征の総大将にするという妥協案ではなかったでしょうか。

 そうすれば、蘇我氏にも住吉氏にも双方の面子を立てることが出来ます。この応神天皇を総大将にするということで、九州はひとつにまとまったと言えます。宇佐氏においてはこの瞬間、大和東征の八割は成功したと確信したのではないでしょうか。

10.軍事基地 洞海湾

 前回は、古事記の中の「仲哀記」を詳しく見ていきました。

 そこには、仲哀天皇と神(住吉三神)である住吉氏との間の口論、そして、結末の妥協案として、応神天皇を大和東征の総大将にし、初めて九州がひとつにまとまったことを論じました。 

 今回は、日本書紀の中の「仲哀紀」を詳しく見ていきます。ここに、手を組んだ宇佐氏と宗像氏との間に、日向の蘇我氏を側近とし、呉の末裔である仲哀天皇がどのように迎えられるかということが書かれています。そして、この三者が集結する洞海湾が軍事基地となり、大和東征への軍事訓練を行ったであろうことを伝承から推察していきます。

 日本書紀は宮澤豊穂氏による現代語訳から抜粋します。

「八年の正月四日に、筑紫に行幸された。その時、岡(福岡県遠賀郡芦屋町附近)県主の祖熊鰐は、天皇の行幸を承り、あらかじめ多くの枝の賢木を根から抜き取り、九尋の船の舳に立て、上の枝には白銅鏡、中の枝には十握剣、下の枝には八坂瓊を掛け、周芳の沙麼浦にお迎えに参った。そして、魚や塩をとる地を献上し、奏上して、
『穴門から向津野大済(大分県杵築市の港)までを東門とし、名護屋大済(福岡県北九州市戸畑区北部)を西門とし、没理島(山口県下関市北西の海上)、阿閉島(六連島の北西)だけを御筥(穀物提供地)とし、柴島(洞海湾中の中島・葛島)を割いて御へ(魚菜提供地)とし、逆見島(福岡県北九州市若松区遠見ノ鼻附近)を塩の地といたしましょう。』
と申し上げた。」

 岡県主の熊鰐はいわゆる三種の神器を賢木にぶら下げて、仲哀天皇を迎えます。

 本来、記紀に書かれているように、神武天皇が大和東征し、景行天皇が全国統一を行ったのならばこの国の統治の証としてすでに、仲哀天皇は三種の神器を賜っているはずです。ですから、熊鰐がいわゆる三種の神器を賢木にぶらさげて、仲哀天皇を迎えるということは天皇に対して非礼とも言える行動です。

 しかし、私が論じたように、大和東征は仲哀天皇の子である応神天皇が行ったとするのならば、仲哀天皇はまだ、神から三種の神器を賜っているわけではありません。よって、熊鰐の行為は仲哀天皇に対して、「あなたこそが三種の神器を治めるに相応しい方です」ということを意味しているので理に適ったことだと言えます。

 次に、『穴門から向津野大済(大分県杵築市の港)までを東門とし、名護屋大済(福岡県北九州市戸畑区北部)を西門とし、・・・』は正確に豊前の海岸線を示しています。つまり、宇佐氏の勢力範囲です。また、熊鰐が県主である遠賀川河口は宗像氏の勢力範囲ですので、仲哀天皇が率いる蘇我騎馬軍は宇佐氏と宗像氏の間に迎え入れられたことになります。

 具体的な場所は後の明治時代に官営八幡製鉄所の本事務所が置かれた「枝光」という地です。

 「枝光」の地名の由来は仲哀天皇が熊襲征伐の折、地元の豪族・熊鰐が真榊の枝に剣・玉・鏡の3種の宝物を下げて迎えたことから「枝三つ」=「枝光」と称するようになったと伝承されています。

 私はこの枝光に、仲哀天皇が率いる日向の蘇我騎馬軍が上陸したと考えています。

 この枝光の北に隣り合わせて、荒手、そして、その北に牧山という地名があります。牧山というからにはこの地に馬が放牧されたに違いありません。この牧山から南西の椎の木台にかけてはゆるやかな丘陵地となっており、馬を飼うには最適な場所です。椎の木台の最も高い所からは関門海峡、洞海湾、そして、宗像の山々までが一望できます。

 先程の荒手という地名も、蘇我騎馬軍が大和東征の際に別動隊として行動したことを考えれば、「別動隊」→「新手」→「荒手」に変化したと考えられないこともなく、蘇我騎馬軍の幕営地ではなかったのでしょうか。

 一方、神功皇后は日本書紀の中で次のように書かれています。

「一方、皇后は別の御船で洞海(洞海湾)からお入りになった。ところが、潮が引いてしまい、進むことができなかった。その時、熊鰐はまた引き返し、洞海から皇后をお迎え申し上げた。しかし御船が進まないのを見て、恐れ畏まり、すぐに魚地・鳥池を作り、魚鳥を集めた。皇后はこれらの魚鳥の群れ遊ぶのをご覧になり、怒りの心がようやくおさまった。潮が満ちてくるとちょうど、岡津にお泊りになった。」

 仲哀天皇と神功皇后はこの洞海湾の地で初めて対面したのではないでしょうか。前回、私が書いたように神功皇后は加羅の国から送られた皇女とするならば、遠い国のこの地に来て不安だったに違いなく、上記の日本書紀に書かれていることも頷けます。

 また、神功皇后の伝承の中に、洞海湾の南にある帆柱山から、船の帆柱となる木を切り出したということも残っていますので、この洞海湾の沿岸で、大和東征のための船の建造も行われたと考えます。

 私の論点で言えば、蘇我騎馬軍は枝光、荒手、牧山で戦のための馬を育て、宇佐水軍、宗像水軍は洞海湾の南岸で大和東征のための船の建造を行ったということです。

 この大和東征の準備期間中、母としての神功皇后、子としての応神天皇にとっては二人が睦まじく暮らすわずかに平穏な時間だったのではないでしょうか。八幡東区大蔵にある乳山八幡神社の境内案内板には次のように書かれています。

「この地は、1700有余年の往昔御祭神神功皇后が更暮山にて国見し給いし後、乳山の山麓にて皇子(後の応神天皇)に御乳を与え給いし聖地を産土神様御創建の佳き地と選びて創建し今日に至る。」

11.書き換えられた神功皇后

 『神功皇后』。

 古代日本史において最も重要な人物でありながら、最もわからない人物と評してよいかと思います。

 と言いますのも、学会では応神天皇以降を実在した人物と考える説が強いのですが、仲哀天皇や神功皇后となると架空の人物と考えている見解が多いからです。よって、現在、記紀に書かれている仲哀天皇や神功皇后の話はすべて神話として片付けられてしまっています。

 確かに、記紀に書かれている通り、神功皇后が神がかって仲哀天皇の崩御後、三韓征伐に出向くということを真に受けるわけにはいきません。
 しかし、応神天皇が実在するならば、その父となり、母となる人物も当然実在するわけで、記紀に書かれている仲哀天皇と神功皇后の記述をどこまで信じるに値するのかが問題となってきます。

 私の論点で言えば、記紀に書かれている内容をそのまま信じるわけにはいかないが、古事記にかけられた第3のトリックとして、『FROM』と『TO』の入れ替えを行い、仲哀天皇は「熊襲」征伐に行くのではなく、「熊襲」方面である日向から来たとし、神功皇后は「新羅」征伐に行くのではなく、「新羅」方面である「加羅」から来たということにすれば、そのロジックの一部は成り立つと考えたわけです。

 私としては、神功皇后を神話の世界から、実在の世界へとどうしても引きずり込みたいのです。そうすることによって、古代日本の起点がわかるからです。初代天皇となる応神天皇ですが、そのためには様々な勢力の力のバランスが必要でした。そこに神功皇后が深く関わって来たのです。いや、神功皇后無くして、この力のバランスは成り立たなかったといってもよいぐらいです。

 前々回の「仲哀記の真相!?」で書いた通り、新興勢力である宇佐氏・宗像氏・蘇我氏連合と既存勢力である住吉氏の橋渡しをしたのは他ならぬ神功皇后であるからです。

 前置きが長くなりましたが、では、神功皇后が加羅国から来たという根拠を紹介しましょう。

 炭坑節の2番の歌詞に「ひとや~ま~、ふたや~ま~、みやま~越え~、ヨイヨイ」という部分があります。これは福岡県田川郡香春町にある香春岳(かわらだけ)の一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳を示します。延喜式神名帳にはそれぞれの山頂に神社が三座あったことになっています。(現在はのこの三座がまとめられて香春神社となっています。)

 延喜式神名帳に記載されている豊前国の残りの三座は宇佐神宮内にありますから、香春神社は宇佐神宮と共に古く、古い資料の中には豊前国の一宮を宇佐神宮ではなく、香春神社としているものもあります。

 また、香春町採銅所と宇佐神宮には深い繋がりがあります。

 『三代実録』の陽成天皇元慶二年(878)三月五日辛丑の詔によれば、「豊前国規矩(企救)郡―現在の福岡県田川郡香春町採銅所―で採掘した銅を潔清斎戒して八幡大菩薩に申奏する」とあります。また、『応永二十七年(1420)宇佐宮造営日記』「放生会」の条には、豊前国香春の採銅所から宇佐八幡宮に宝鏡が献納されることを載せていますし、さらにまた、江戸末期の渡辺重春撰『豊前志』仲津郡「豊日別国魂宮」の条に引く『長光家文書』には、その宝鏡が香春の採銅所から仲津郡草場村の豊日別宮に移され、さらに京都郡の総社八幡宮→築城郡の湊八幡宮→上毛郡山田邑の宗像宮→下毛郡高瀬村の矢幡八幡宮を経て宇佐八幡の本宮に到着する日程と経路とが詳細に記録されています。<古代中国の「宇宙」最高神と日本 福永光司著より抜粋>

 つまり、香春町採銅所には先進の銅技術をもった渡来人が移り住んでいたと考えられます。

 この先進の銅技術をもった渡来人が祀る香春神社の主祭神が辛国息長大姫大目命なのです。古事記の中で神功皇后は息長帯比売命と書かれていますので、香春神社の主祭神と同一人物ではないかと考えられるのです。香春神社の主祭神の頭にははっきりと『辛国』と書かれているところに着目して下さい。

 私は横浜から北九州に戻って来て2年半が経ちますが、豊前、筑前、筑後の神社を訪れるたびに、神功皇后、応神天皇がいかに多くの神社で祀られているかに驚かされます。神功皇后、応神天皇だらけという表現が適切かどうかはわかりませんが、そのような印象を持ちます。

 社格の高い大きな神社が神功皇后を祀っている場合は三韓征伐に出向くジャンヌ・ダルクのような勇ましい女性を想像しないでもないですが、村社のような小さな神社が神功皇后と応神天皇を祀っている場合は初代天皇である応神天皇の国母として、親しみ、慈しみ深い女性を連想します。それはヨーロッパにおけるイエス・キリストを見守る聖母マリアのように見えるのです。

 私が論じたように、神功皇后が加羅国から来た皇女とすれば、どのような人生を送ったと想像出来るでしょうか。政略結婚が決まり、加羅国から海を渡って、仲哀天皇が滞在している北九州の洞海湾に上陸。住吉氏を後見人にしているとはいえ、見知らぬ地で不安であったに違いありません。そして、嫁いだ後、すぐに仲哀天皇は崩御。そして、仲哀天皇との間に出来た子供である応神天皇は生まれた時から、大和東征の総大将になることを宿命づけられます。

 神功皇后が危険な大和東征に同行したとは考えられませんから、成長していく応神天皇と過ごした日々はわずかであったに違いありません。そして、応神天皇が大和東征に出発することを見届けて以降は香春岳の麓の小さな村で、応神天皇が無事であることを母として毎日祈り続けていたのではないでしょうか。

 私が想像する神功皇后は時代に翻弄された一人の哀しい女性に写ります。それを記紀の中では三韓征伐をするジャンヌ・ダルクのような勇ましい女性に書き換えてしまったのです。

 次回は「朝鮮半島への進出!?」について語ります。