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古事記の中つ巻、或いは、日本書紀の蘇我氏記述部分における不可解な点を切り口とし、同時に、各祭神を祀る神社の広がりを見つめながら、日本古代史の底にある流れを考察していきます。
<資料> 各祭神を祀る神社の広がり (『延喜式神名帳』、『明治神社誌料』を参照)
- <目次>
- 第一話 周防灘(すおうなだ)
- 第二話 宇佐
- 第三話 不可解な古事記
- 第四話 宇佐と古事記
- 第五話 海にまつわる神と水軍
- 第六話 宇佐氏による大和東征計画
- 第七話 宇佐氏の卓越した政治力
- 第八話 古事記のトリックの解明
- 第九話 仲哀記の真相!?
- 第十話 軍事基地 洞海湾
- 第十一話 書き換えられた神功皇后
- 第十二話 朝鮮半島への進出!?
- 第十三話 日本書紀の役割
- 第十四話 葛城氏(住吉氏)優勢の時代
- 第十五話 葛城氏(住吉氏)打倒への準備
- 第十六話 国譲り神話と東国平定
- 第十七話 騎兵の威力
- 第十八話 三輪山伝説?
- 第十九話 大伴金村登場!
- 第二十話 磐井の乱
- 第二十一話 安曇氏追放
- 第二十二話 仏教伝来
- 第二十三話 中国南朝、高句麗、蘇我氏の関係
- 第二十四話 漢民族王朝復興への期待
- 第二十五話 冠位十二階、憲法十七条、国記編纂
- 第二十六話 遣隋使派遣
- 第二十七話 隋滅亡
- 第二十八話 蘇我氏の反対勢力
- 第二十九話 鍵を握る三輪氏
- 第三十話 微妙で根深い確執
- 第三十一話 支配の道具としての宗教
- 第三十二話 蘇我氏分裂工作
- 第三十三話 大化の改新
- 第三十四話 白村江の戦い
- 第三十五話 朝倉宮と大宰府
- 第三十六話 壬申の乱
- 第三十七話(最終回) 東アジア国家体制確立と新生日本の第一歩
第一話 周防灘(すおうなだ)
九州へ帰って来て、父の書斎にある本を読んだり、北九州にまつわる伝記、神話を聴いたりしていると日本の古代について、物凄く興味が湧いて来ました。日本の古代については星の数ほどの文献がありますし、学者が語り、教科書が語る歴史があります。それをここで披露しても何の面白みもありません。
まだまだ勉強不足で浅い歴史の知識しかない私ですが、ギリシャ、ローマを実際に歩き回り見て来た視点から、日本の古代を見たらどのように映るのか、それを話してみたいと思います。「また、馬鹿なことを言っている」という程度に聴いていただければ結構です。しかし、私の話から歴史に興味を持つ方が増えたとしたら、これほど嬉しいことはありません。
紀元前10世紀から6世紀にかけて、エーゲ海、地中海は海の民としてのギリシャ人、フェニキア人が活躍し、各地に植民都市を作りました。一方、日本海、東シナ海、黄海は文献がほとんどないので、海の民としてどれほどの活躍があったのかは何もわかりません。
そこで、最初の私の視点ですが、古代より日本海、東シナ海、黄海においても、エーゲ海や地中海と同じように海の民が活躍していたのではないかというところから始まります。
では、ここで東アジアの地図を広げて見てみましょう。海の民の拠点として利用できる理想的な場所はどこでしょうか。内には守りやすく、外には交易をしやすいところ。
ズバリ、瀬戸内海にある周防灘です。そして、さらに伊予灘までを含めるとすればこれほど完ぺきな場所はありません。北西には穴門(あなど)と言われた下関のある関門海峡、南には関サバで有名な速吸瀬戸(はやすいのせと)と呼ばれる豊予海峡、西には伊予・松山の先にある釣島海峡(つるしまかいきょう)、この狭い難所と言われる3つを抑えれば、その内海の安全は完全に保証されます。
守りやすいということは大変重要なことです。
今、税金というと社会保障費、教育費、国防費・・・など大変に複雑な用途に使われていますが、古代ローマにおいて、税金とは国防費だと言っても過言ではありません。ですから、守りやすいというのは防衛に人出をさかなくてよいので国防費が安くなり、税金が低くなります。よって、その地域の生産活動が活発になり、その地域が富むということに繋がっていくのです。
では、日本の古代において、この地域をどのように見ていたのかを探ってみましょう。
古事記の中に書かれている大八島国(おおやしまくに)の生成です。伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)によって島が作られていくわけですが、これを大和から朝鮮半島を含む大陸との交易ルートと考えて聞いて下さい。
まず、淡路島が作られ、次に伊予を含む四国、隠岐、筑紫を含む九州、壱岐、対馬、佐渡、そして、最後に畿内の大和。
さらに、「然(しか)ありて後、還(かえ)ります時・・・」と続き、吉備の児島、小豆島、そして、周防大島、姫島と産んで行きます。数多ある瀬戸内海の島で、なぜ、この四つの島が選ばれたのでしょうか。もちろん、この四つの島は戦略的に重要な島だからこそ名前を残しているに違いありません。
児島、小豆島を含む吉備は日本で四番目に大きい造山古墳(つくりやまこふん)があります。ここに吉備水軍があったとみてよいでしょう。次に、周防大島、姫島ですが、姫島は国東半島の先端にある小さな島です。この周防大島と姫島を線で結ぶと、その線の北西は周防灘、南東は伊予灘なのです。
ここにも吉備水軍と同じような水軍があったと見ても差し支えないのでははいでしょうか。そして、その中心地として宇佐があるのです。
第二話 宇佐
宇佐と言えば、伊勢神宮につぐ第二の宗廟として知られる宇佐神宮でしょう。
ここに古事記に隠されたトリックを解く第一の鍵があるのですが、それを語る前にいくつかの準備をしておかなければなりません。
宇佐を含む周防灘沿岸の豊前地域には3-7世紀にかけて多くの渡来人が住んでいたと考えられています。
奈良東大寺の正倉院に残っている戸籍の断簡から、豊前地域の各地区では「秦部(はたべ)」、「・・・勝(すぐり)」を名乗る渡来人の人口比率が7割から9割を占めていることがわかります。圧倒的な数字です。
また、遣隋使 小野妹子(おののいもこ)に従って倭国に派遣された使者 裴世清(はいせいせい)は「隋書倭国伝」で次のように記しています。
・・・又東して一支国(壱岐国)に至り、又竹斯国(筑紫国)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ、・・・。
筑紫の東にあるのは豊前のことですから、それを秦王国と呼んでいるのです。周防灘は秦王灘をうつしたという説もありますから。そして、華夏というのは中国のことですから、そこに住んでいたのは中国人と同じだったと言っているわけです。
ここで古代日本に渡って来た人々について考えてみましょう。それはその時々の東アジアの情勢を抜きにして考えることは出来ません。
人類の歴史は小国への分裂と大国への統一を繰り返して発展して来ました。この大国へ統一する直前に大量の難民が発生します。東アジアでのその第一期は紀元前3世紀前後。中国では春秋戦国の分裂が終わり、秦が統一を果たし、その後に前漢へと続いていく時代。揚子江河口辺りから大量の難民が発生し東シナ海を渡って、朝鮮半島南岸や九州北部の博多湾沿いや遠賀川河口辺りに住み着きました。それらの人々を慣習的に弥生人と呼び、日本では縄文時代から弥生時代に変わる転機となりました。
その後、前漢、後漢と約400年間の統一された大国としての安定期が続きますが、紀元3世紀から三国時代、五胡十六国、南北朝を経て隋、唐が統一を果たす7世紀まで再び分裂の時代が続きます。その分裂の時期、朝鮮半島では楽浪郡、帯方郡の滅亡。高句麗、百済、新羅、加羅の領土争い後、加羅、百済が滅亡し、新羅が統一を果たします。その期間も大量の難民が発生し古代日本に渡って来ました。これが第二期であり、それらの人々を慣習的に渡来人と呼んでいるのです。
この頃の古代日本は17-19世紀にかけての新大陸アメリカと同じだったのではないかと思います。つまり、未開の肥沃な地。大陸ではなく島ですので、言うなれば新島日本ですが・・・。宗教戦争、皇位継承戦争が各地で続くヨーロッパ人が目指す新大陸アメリカと、領土争いが続く中国、朝鮮半島の人々が目指す新島日本は希望が叶えられる夢の地という意味で同じだったのではないでしょうか。
第二期の朝鮮半島から渡って来た渡来人はすでに第一期の弥生人が定着している博多湾沿いや遠賀川河口での争いを避けて、関門海峡を回り、まだあまり人の住んでいなかった宇佐に上陸。渡来人は新しい技術をもった工人が多く、各地から引手数多であったと考えられますので、宇佐から北九州、瀬戸内海沿岸、大和へと移住していったのではないでしょうか。宇佐は新大陸アメリカにおけるニューヨークと同じような位置付けだったと思います。
第三話 不可解な古事記
1620年 メイフラワー号でピルグリムファーザーズが新大陸アメリカに上陸してから、1776年 アメリカ合衆国が独立するまで156年かかっています。
そして一方、266年 倭女王 壱与(いよ)が西晋に朝貢して以降、147年間中国との国交、史書に倭の記録は見つかりません。俗に「謎の4世紀」と言われ、教科書には大和朝廷による統一が進んでいると書かれています。私はこの頃から続々と渡来人が日本に渡って来ているのではないかと考えています。
この双方の約150年という期間が新大陸アメリカの独立と新島日本の統一するスパンとしてマッチしているように見えるのです。
アメリカ合衆国が独立した後も続々と移民が上陸しているので、その移民達にとっては不安と希望が混ざり、今日オリンピックで見られるような「ユー、エス、エー! ユー、エス、エー!」と大合唱するようなアメリカ人としての愛国心を持つ余裕はまだなかったでしょう。
同じように、新島日本が統一した後も、続々と渡って来た渡来人においても「ニッポン、チャチャチャ! ニッポン、チャチャチャ!」というような日本人としての愛国心を持つ余裕はなかったと思います。そこにあるのはあえて言うならば、秦系日本人、漢系日本人、呉系日本人、新羅系日本人、百済系日本人、加羅系日本人、高句麗系日本人・・・。
その人々が同じ日本人としての意識を持ち始めるにはかなりの時間が必要であったと思いますし、そして、同じ日本人としての意識を持ち始める手段として、日本最古の歴史書である古事記、或いは日本書紀が果たした役割は計り知れないほど大きいと思います。
では、その古事記とはどのような書物であるのかを見ていきましょう。
古事記は上つ巻、中つ巻、下つ巻の3部で構成されています。上つ巻は高天原(たかまがはら)の神の話で、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の国造りから邇邇芸命(ニニギノミコト)が葦原の中つ国に天孫降臨する辺りまで。中つ巻は邇邇芸命(ニニギノミコト)の末裔である神武天皇の東征、倭建命(ヤマトタケルノミコト)による全国平定後、仲哀天皇の后である神功皇后の新羅征討、そして、応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇まで。
つまり、上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。
この中つ巻の中で、私は何度読んでも腑に落ちない、奥歯に物が挟まったような感じがする所があります。それは仲哀天皇の出だしです。
「帯中日子天皇[たらしなかつひこのすめらみこと](仲哀天皇)、穴門(あなど)の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐(ま)しまして、天の下(あめのした)治(し)らしめしき。・・・」
中つ巻の天皇の中で、神武天皇は日向から大和に東征するので別として、その他の天皇は仲哀天皇以外すべて大和、或いは大和の近くの宮に
「**宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」
となっているのです。
なぜ、仲哀天皇だけは大和近辺ではなく、突如として山口県の豊浦宮、或いは、福岡県の香椎宮に来たのでしょうか。そして、香椎宮にて突然崩御、神功皇后がピンチヒッターに立って新羅遠征となります。あまりの話の急展開で付いていけないばかりでなく、古事記全体のストーリーの中でも前後の繋がりがなく浮き上がってしまっています。
この仲哀記を省いてしまった方が古事記のストーリー性としては完ぺきなのです。なぜ、古事記の編纂者はこの仲哀記を無理に挿し込んだのでしょうか。
私にはこれを挿し込むことによって、白村江の戦いの敗北によって、すでに朝鮮半島から勢力を駆逐されているにも関わらず、未だに朝鮮半島の中にその勢力は存在するのだということを内外に誇示しておきたいがための脚色であったとしか考えられないのです。
第四話 宇佐と古事記
古事記の中で宇佐が登場するのは神武天皇の東征においてです。
「・・・日向より発たして筑紫に行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、その土人、名は宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売(うさつひめ)の二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて、大御饗(おほみあへ)献りき。其地より遷移(うつ)りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその國より上りいでまして、阿岐國の多祁理宮(たけりのみや)に七年坐しき。またその國より遷り上りいでまして、吉備の高島宮に八年坐しき。・・・」
宇佐でのみ大御饗が行われ、他の地では滞在をしているだけ。ということは宇佐で軍の結団式、つまり、旗揚げをしているように見えます。旗揚げで行われるのは古今東西変わりなく、戦勝祈願です。兵士の士気を高めるために行います。もちろん、士気が低い軍団では勝てるわけがありません。東征するには大軍団でしょうから、戦勝祈願する神社もそれなりに大きいところと考えると、それは宇佐神宮の他には考えられません。
では、宇佐神宮に祀られている八幡大神は、現在、応神天皇とされていますが、神武天皇の頃にはまだ生まれていません。他に、比売大神(宗像三女神)、神功皇后も祀られていますが、応神天皇が祀られて以降です。ここら辺りは政治的な臭いがプンプンとするところです。
神武天皇の頃の宇佐神宮に祀られている八幡大神とは一体どのような神だったのでしょうか。
『八幡宇佐宮御託宣集』(略称『宇佐託宣集』)巻六によれば、豊前国の宇佐宮に鎮座する八幡大神は、聖武天皇の天平二十年(748)九月一日、みずから託宣して「古ヘ吾レハ震旦国ノ霊神、今ハ日域(日本国)鎮守ノ大神ナリ」と告げられたといいます。震旦国とは古代のインドや西域の人々が東方の中国を呼ぶ言葉でした。
つまり、八幡大神とは中国の霊神だったということになりますが、中国の霊神って何?
中国の南北朝時代、道教、儒教、仏教が三つ巴の抗争をしていたと言われています。しかし、私は今の時代においても中国の民間信仰の中で、これらは共存しているように思えるのです。
一枚の有名な絵があって、老人になった老子に、青年の孔子が赤ん坊の仏陀を手渡してるところがあります。
万物(自然)の道を説いたのが老子。
人の生きる道を説いたのが孔子。
人の死後の世界を説いたのが仏陀。
これらはそれぞれ説いている世界が違うのであって相反するものではありませんから、すべてを大きな心で包容してもいいのだと中国の民間信仰の中では言っているように思えるのです。
そのような目で八幡大神を見ると、なんだか大きく見えます。
宇佐の地に鎮座する八幡大神。少し仏の方に力点を置くと、東の国東半島の石仏になり、そして、少し神の方に力点を置くと西の英彦山、求菩提山の修験道になるといった具合です。
大分、話がそれてしまいました。ここでは宇佐が大和への東征の旗揚げになった地であるということだけを覚えておいてください。
第五話 海にまつわる神と水軍
古代日本において、交通手段の主役は日本が海に囲まれているという環境を考えても船だったに違いありません。
電話やインターネットもない中で、情報伝達手段の主役もまた船だったとすれば、水軍をもっている氏族が政治や経済においても圧倒的な優位に立っていただろうことは容易に想像出来ます。
そこで古事記の中で有力な水軍の手がかりになるのは海にまつわる神だと考えました。
「禊祓(みそぎはらひ)と神々の化生」の段を読むと
「・・・次に水の底にすすぐ時に、成れる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみの)神。次に底筒之男(そこつつのをの)命。中にすすぐ時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒之男命。水の上にすすぐ時に、成れる神の名は、上津綿津見神。次に上筒之男命。この三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ちいつく神なり。・・・その底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は月読(つくよみの)命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は建速須佐之男(たけはやすさのをの)命。・・・」
底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神は綿津見三神と呼ばれ、福岡県福岡市東区志賀島にある志賀海(しかうみ)神社に祀られています。ここを拠点とする水軍を安曇水軍、或いは安曇氏と呼ぶことにしておきましょう。
底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命は住吉三神と呼ばれ、ここでは摂津ではなく、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社を考えています。ここを拠点とする水軍を住吉水軍、或いは住吉氏と呼ぶことにしておきましょう。そして、この住吉神社には神功皇后も合祀されています。
この綿津見三神と住吉三神は天照大御神、須佐之男命と同世代の神になります。
次に「天の安の河の誓約」の段を読むと
「ここに天の安の河を中に置きて誓(うけ)ふ時に、天照大御神、まづ建速須佐之男命の佩(は)ける十拳剱(とつかのつるぎ)を乞ひ度(わた)して、三段に打ち折りて、瓊音(ぬなと)ももゆらに、天(あめ)の眞名井(まない)に振りすすぎて、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、多紀理毘売(たきりびめの)命。亦の御名は奥津島比売(おきつしまひめの)命と謂ふ。次に市寸島比売(いちきしまひめの)命。亦の御名は狭依毘売(さよりびめの)命と謂ふ。次に多岐都比売(たきつひめの)命。・・・」
多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命は宗像三神と呼ばれ、福岡県宗像市にある宗像大社に祀られています。天照大御神から生まれていますから、天照大御神の次の世代の神になります。
以上の世代間のことと、地理的な関係から考えますと、魏志倭人伝に書かれている朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦半島の交易ルートがあった時代は安曇氏と住吉氏が先行してこのルートを牛耳っていたと考えられます。安曇氏のいる志賀島からは「漢倭奴国王」の金印が出土していますし、住吉氏のバックにある春日市の須玖岡本遺跡一帯は北部九州における青銅器鋳造センターですので、その実力とも随一であったに違いありません。
次の新興勢力である宗像氏は利潤の大きいこの朝鮮半島との交易ルートに割り込みたいと考えていますが、まだ成しえていないという状況だったのではないでしょうか。
では前回、大和東征の旗揚げの地とした宇佐にある宇佐神宮の主祭神を見てみましょう。
一之御殿 八幡大神(応神天皇)
二之御殿 比売大神(多岐都姫命、市寸島姫命、多紀理姫命・・・・宗像三女神)
三之御殿 神功皇后
これを見て、あっと思わないでしょうか。
宇佐氏は宗像三女神を取り込むことによって直接的に宗像氏と繋がっており、神功皇后を媒介することによって間接的に住吉氏と繋がっていると・・・。
もう私の意図するところはおわかりでしょう。
大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと。安曇水軍はこの東征に関わっていません。
これだけではないのです。大和東征はもっと用意周到で入念に計画されています。
第六話 宇佐氏による大和東征計画
前回、大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと書きました。
この遠征の主力部隊は水軍です。しかし、大和というのは奈良盆地にあるわけですから、ここを攻めるには水軍だけでは不十分です。
今風に言うならば、自衛隊は専守防衛なので上陸作戦に力を入れていないと思いますが、在日米軍で例えれば、「すでに宇佐水軍と宗像水軍を持っているから、横須賀のネイヴィはいらない。今、最も必要なのは沖縄のマリーンだ。」ということになるでしょう。
古代において、マリーンなんてないですから、それに対応するにはやはり馬を使った騎馬軍だと思います。さて、古代日本の中で優れた馬なんていうのはあるの?
そのヒントになるものがないかを記紀の中で探してみたら、ありました。
推古二十年(613)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があり、蘇我馬子の作った歌に和して推古女帝は蘇我をたたえる歌を作りました。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき (『日本書紀』)
私はこの歌に非常に興味があります。日向 ・・・ 呉 ・・・ 大君の側近としての蘇我氏 を結びつけるものだからです。蘇我馬子の墓は奈良県明日香村にある石舞台古墳とされていますが、周囲に土塁をめぐらした珍しいもので日本に4つしかありません。その内の2つが宮崎県の西都原古墳群の中にあるということは先の結びつきを深めているように思います。また、宮崎県串間市から直径33cm、厚さ6mm、重さ1600gというとんでもない超大型の壁が出土しており、呉との関係を窺わせます。
そこで次の仮設を立てます。
”中国南朝の呉の末裔である大君は日向に渡って来て、その側近に蘇我氏がいる”
ここでは、日向の蘇我氏、或いは、蘇我騎馬軍と呼ぶことにしておきましょう。
話は戻って、宇佐氏はこの蘇我騎馬軍を上陸部隊として抱き込んだと考えられます。宇佐神宮の境内の西参道に日本百名橋のひとつである屋根付きの木造橋があり、呉橋と呼んでいます。これも宇佐氏と、呉(橋)を通じて、蘇我氏と繋がっていることの証とはならないでしょうか。
いよいよ大和東征の主力の陣容が固まりました。宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍。
「・・・、吉備の高島宮に八年坐しき。」(古事記) ここで吉備水軍も合流。その後、
「故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ打ち羽拳(はぶ)き来る人、速吸門(はやすひのと)に遇いき。ここに呼び寄せて、『汝は誰ぞ。』と問ひたまへば、『僕は国つ神ぞ。』と答へ日(まを)しき。また、『汝は海道(うみつじ)を知れりや。』と問ひたまへば、『能く知れり。』と答へ日しき。・・・」
ここでいう速吸門とは鳴門海峡のことだと考えられます。古事記ではここを通り、難波の渡りを過ぎて楯津で合戦後、痛手を負って引き下がり、南を回って熊野から侵入し成功したことになっていますが、実際の作戦はそのような直線的なものではないように思います。
淡路島手前の播磨灘で、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍、そして、別働隊として吉備水軍の船に乗り換えた蘇我騎馬軍に分かれます。
まず、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍は堂々と明石海峡を通って、大阪湾に入り、そして、古代に存在した河内湖に入って敵の大和の軍隊を引き付けます。
一方、蘇我騎馬軍を乗せ、水先案内人を付けた吉備水軍は少し時間を置いて、難所の鳴門海峡を渡り、手薄の紀の川河口に入ります。蘇我騎馬軍はここで上陸。ここから紀の川を遡行して東にさかのぼり、吉野の手前の奈良盆地の南端から盆地内に突入。
これが理に適った作戦ではないでしょうか。
と、ここまで大和東征がどのように行われたかを見て来ましたが、皆さん、不思議に思うことはないでしょうか。それは淡路島に至る西側で一度も戦いがないということ。つまり、淡路島以西を政治的にまとめ上げていることです。
卑弥呼の時代、倭国は乱れて、ようやく卑弥呼を共立することによって、国を治めていたのですから、それから時が経っているとはいえ、これだけの政治力を発揮できる実力者が従来の国の中から突然変異的に現れたとは考えにくいのです。
やはり、4世紀以降、渡来人としてわたって来た宇佐氏の中にその実力者がいたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
第七話 宇佐氏の卓越した政治力
前回、大和東征において、淡路島以西で一度も戦いがなく、政治的にまとめ上げていることが不思議だと書きました。
裏を返せば、それほど、宇佐氏は卓越した政治力を持っていたということになります。その理由として次の3点を挙げてみましょう。
(1)情報収集力
以前、ヨーロッパから大西洋を渡った移民者の受け入れ先が新大陸アメリカのニューヨークであったのと同じように、宇佐は朝鮮半島から渡って来た渡来人の新島日本における受け入れ先だと書きました。そして、彼ら渡来人は新しい技術を持った工人が多く、この宇佐から引く手あまたの状態で古代日本の各地に送られ、住み着いていったと考えられます。宇佐はまさに渡来人のリクルートセンターだったわけです。
ここで重要なことは、各地に送られた渡来人が送られた先の現地の情報を再び、宇佐に返していたのではないかと思われることです。新しい技術を持った工人としての渡来人は各地の産業基盤の中枢に速やかに入っていったと考えられるわけで、その各地で収集した情報も極めて正確で詳細だったことでしょう。ここに、宇佐を中心とした渡来人ネットワークが構築されたと考えます。
すでに弥生時代に古代日本に渡って来て住み着いている弥生人の各氏族もまた、各地に密偵を送って情報の収集を行っているとは思いますが、情報の質は渡来人ネットワークに比べて格段に劣っていたに違いありません。
そのように考える物証が何か残っているのかと問われれば、何も残っていないと答えるしかないのですが、あえて答えるとすれば、宇佐に大規模な古墳群がなく、大和東征が成就した後、河内に誉田山古墳[こんだやまこふん](伝応神天皇陵)を含む古市古墳群[ふるいちこふんぐん]、そして、大山古墳[だいせんこふん](伝仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群[もずこふんぐん]が造られたことです。
宇佐氏は当初から、古代日本を統一した後、統治する場所として古代日本のほぼ中央にある大和附近を考えていたわけです。九州の宇佐では西に寄り過ぎて、統治の場所として相応しくないと思っていたのでしょう。いわば、宇佐という地は宇佐氏にとっては持ち家ではなく賃貸のような借りの地だったということになります。
(2)地理的優位性
宇佐氏の支配する周防灘、伊予灘を中心に見ると、東に吉備氏、南に日向の蘇我氏、北西に宗像氏が隣接しています。彼らをまとめ上げるには最適の位置にあります。淡路島以西を政治的にまとめ上げた要因もこの地理的な優位性にあります。そして、当時、最も勢力の大きかった博多湾岸の勢力、そして、大和の勢力の間にありますので、双方からの情報をいち早く入手出来たに違いありません。情報収集のスピードという点においても各氏族より優っていたわけです。
(3)兵法『六韜』(りくとう)の熟知
中大兄皇子の腹心である中臣鎌足は蘇我氏を分裂させ、大化の改新(645年)で蘇我氏を滅亡へと追い込んだ、その政治的手腕は空恐ろしいものがあります。その中臣鎌足は兵法『六韜』(りくとう)を丸暗記するほど熟知していたと伝えられています。
私は、その中臣氏が宇佐氏から派生した一氏族だと考えています。故に、中臣氏の前身である宇佐氏の中で、すでに兵法『六韜』を入手し、中臣鎌足と同じように、それを熟知した政治的実力者がいたとも考えられないでしょうか。
政治、及び、軍事のノウハウを知っているか否かの差は非情に大きな違いです。
その兵法『六韜』の第一巻「文韜」の中に次のような文章があります。
「・・・魚はその餌を食うので釣り糸で引き上げることが出来るのですが、人間も同じことで、その碌によって君に服するものです。士大夫の地位を餌に賢士を集めるならば諸侯の国が釣れるでしょうし、諸侯の地位を餌ににして人材を集めたならば天下を手にすることができるでありましょう。・・・」
具体的に、宇佐氏は宗像氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。
以前、アマテラスと同世代の神である綿津見三神を奉じる安曇氏、及び、住吉三神を奉じる住吉氏は、アマテラスの次の世代である宗像三女神を奉じる宗像氏よりも朝鮮半島の交易で先行していたと書きました。つまり、宗像氏も利潤の大きい朝鮮半島の交易に参加したかったのですが出来ていなかったのです。
宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には、朝鮮半島の交易権を宗像氏の独占にしてもよいという密約を交わしたのではないでしょうか。宗像氏はその餌に食いついたのです。このことが後に、古代最大の内戦と言われる磐井の乱(527年)へと繋がっていくことになります。
そして、もう一方で、宇佐氏は日向の蘇我氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。
蘇我氏は日向に渡って来た中国南朝呉の末裔に使える近臣です。とすれば、蘇我氏は何よりも中国南朝呉の復興を古代日本の中で起こそうと考えるはずです。宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には呉の末裔を大王の座に付けてもよいと確約したのではないでしょうか。蘇我氏はその餌に食いついたのです。
古代日本を統一する上で、この効果は非常に大きなものがあったと思います。どんなに実力があってもどこの馬の骨かわからない人物に人は付いて行きません。中国南朝呉の末裔という血筋の良さは錦の御旗になります。故に、統一する過程で帰属する氏族には、呉の技術者にデザインさせた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を下賜し、勢力を広げていったと考えます。
しかし、後に、蘇我氏の勢力が強くなり過ぎたことが大化の改新(645年)を引き起こすことになります。
宇佐氏は大王の座や海外との交易権を与えても、摂政・関白(中国で言うと宰相)という実権さえ手に入れればよいと考えていたのではないでしょうか。
第八話 古事記のトリックの解明
さて、いよいよ古事記のトリックの解明に入ります。
以前、『上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。』と書きました。
この中つ巻にメスを入れていきますが、私の考え方のベースは古事記といえども同じ人間が作りあげたもの。考え方のベースは変わらないだろうというところから入ります。
まず、骨子を作り、そして、肉付けに入るということです。
古事記の中での骨子とは、『天皇が何をしたか』ということだけ。それ以外は後から肉付けしたものだと考えます。そして、骨子を作る場合でも、まるまる空想から作り上げるということは不可能なので、実際に起こった事柄にトリックを入れて書き換えたと考えます。そのトリックの条件はシンプル、かつ、大胆であるということ。複雑なトリックを入れると前後の辻褄合わせの書き換えが大変な作業になるので行わないと考えます。
そして、私がたどり着いた結論は次の3つのシンプル、かつ、大胆なトリックが行われたということ。
(1)第一のトリック 主人公の入れ替え
実在の天皇が行ったことを、架空の天皇を作り上げて、その架空の天皇が行ったように見せかけること。
(2)第二のトリック 時系列の入れ替え
架空の天皇が行ったことを、実際に起こった事柄よりも時系列で古く見せかけること。
(3)第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え
どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。
そのトリック解明の突破口はやはり宇佐です。宇佐神宮のホームページには次のように紹介されています。
『八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。』
この文章をご覧になって、「へぇー、すごいね。」だけで終わっていませんか。約4割の神社を支配しているのです。古くから長きにわたって、八幡大神こそがこの日本を支配して来たと言えるのではないでしょうか。この単純な事実を見逃してはなりません。
そして、725年、八幡大神とは応神天皇だとして、現在の地に創建されたのです。712年に古事記が、そして、720年に日本書紀が編纂されていますので、その直後ということになります。
ところがこれらの記紀の『応神天皇』の記述の中に『宇佐』の一言の文字も入っていませんし、応神天皇が英雄視されるようなことは一切書かれていません。これはまことにおかしい。
第一の宗廟である伊勢神宮が高天原のヒロインである天照大御神を祀っているのならば、第二の宗廟である宇佐神宮には葦原中国のヒーローを祀っているのが筋。当時の政府はそこに応神天皇が相応しいと言っているのです。ところが記紀の中にはそこのところの何の記述もない。
これは当時の政府がこの矛盾を知っていながら、放置している感があります。
では、記紀の中で葦原中国のヒーローと言えば、大和東征を行った神武天皇に違いありません。
ここで応神天皇と神武天皇は同一人物ではないかと思えてくるのです。言い方を換えれば、神武天皇とは架空の天皇で、応神天皇が行ったことを神武天皇が行ったように見せかけているということです。
これを断定するには清水の舞台から飛び降りるようなものですが、一度、飛び降りてしまえば後はとんとん拍子で進みます。
古事記の中で『崇神天皇』は『初国知らしし天皇』とありますので、これも応神天皇のことではないかと考えられます。よって、中つ巻の神武天皇から崇神天皇までは応神天皇と同一人物。つまり、応神天皇が行ったことを架空の天皇である神武天皇から崇神天皇に置き換えたと考えられます。
そして、次の垂仁天皇から成務天皇も架空の天皇で、仁徳天皇が行ったことを置き換えていると思われます。そうすれば倭建命の全国統一は仁徳天皇のときに行われたことになり、クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ「世界三大墳墓」と言われる大山古墳が仁徳天皇陵と伝えられる通説にも合致することになります。
前述した第一のトリックと第二のトリックは神武天皇から成務天皇までを対象としたということ。そして、実際は応神天皇と仁徳天皇が行ったことだと考えたわけです。
このように考えると、私には嬉しいことがあります。私たちの古事記の中つ巻のトップバッターとして登場するのは仲哀天皇になります。以前、不可解な古事記と称して書いた仲哀天皇の出だし部分が不可解でなくなってくるのです。
「帯中日子天皇[たらしなかつひこのすめらみこと](仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐(ま)しまして、天の下(あめのした)治(し)らしめしき。・・・」
大和東征を行ったのは応神天皇なので、仲哀天皇が豊浦宮や香椎宮に坐してもまったくおかしくないのです。そして、さらに言えることはこの仲哀記こそは大和東征前の九州の情勢を知る貴重な題材になるということ。ここでも最大のトリックを解かなければなりませんが、古代史の謎の核心部に触れていくことになります。
そして、ここで事件が起こるのです。
第九話 仲哀記の真相!?
具体的に仲哀記を見ていく前に、これまで述べて来たことから、九州の情勢について整理しておきましょう。
大和東征の旗揚げの地となった宇佐に宇佐水軍があり、この宇佐氏を中心として、宗像水軍と呉の末裔がいる日向の蘇我騎馬軍がこの遠征に参加します。
一方、北部九州には博多湾岸に朝鮮半島との交易があり、九州随一の実力を持っている住吉水軍、そして、安曇水軍がいます。
宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍の連合軍が大和東征を行うならば、その背後の守りを抑えておくことが絶対条件となります。つまり、住吉水軍と安曇水軍に「動かない」ということの確約を取っておく必要があります。
さて、この確約を簡単に取ることは出来るでしょうか。
新興勢力の宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍の連合軍よりも、既存勢力の住吉水軍、安曇水軍の方がはるかに実力が優っているのです。また、もともと住吉氏と安曇氏は中国北朝の魏と関係があり、蘇我氏が側近にいる中国南朝の呉の末裔といっても、「何する者ぞ」というぐらいの気位の高さはあったと思います。
極端な話をすれば、魏の曹操と呉の孫権を同じテーブルの席に着かせようとしていることと代わりありません。犬猿の仲なのです。
まずは両者を同じテーブルに着かせること。宇佐氏はこれを実現させるために、妙案を考え出しました。その妙案とは、
『加羅国から皇女を迎え入れ、呉の末裔に嫁がせること。これには付帯条件があり、加羅国からの依頼として、皇女の後見人を住吉氏とすること。』
これは一石二鳥の妙案で、加羅国と軍事同盟を結ぶことが出来ると共に、住吉氏を同じテーブルに着かせることができます。つまり、加羅国と交易の関係をもつ住吉氏にとっては加羅国の依頼を断ることは出来ませんし、皇女の後見人となったならば、皇女が出席する会議に「皇女の後見人として出席して欲しい」と言えば住吉氏は断ることは出来ません。
このような状況下で行われたことが、『仲哀記』の中に描かれていることではないでしょうか。
先に、私が考えている古事記のトリックの解明をしておきましょう。
第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え ・・・ どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。
仲哀天皇は「熊襲」征伐に行くのではなく、「熊襲」方面である「日向」から来たということ。
そして、神功皇后は「新羅」征伐に行くのではなく、「新羅」方面である「加羅」から来たということ。
どうして、そのように考えるのかは後日、詳述しますが、ここは先へ進みましょう。
これを考慮して、私が考えている『仲哀記』に登場する人物は次の通り。
仲哀天皇 ・・・ 日向の蘇我氏が側近にいる呉の末裔
神功皇后 ・・・ 加羅国の皇女
建内宿禰 ・・・ 宇佐氏
神(住吉三神) ・・・ 住吉氏
古事記に書かれている仲哀記の言動部分を記します。
神功皇后 「西の方に國有り。金銀をはじめとして、目のかがやく種々の珍しき宝、多にその國にあり。吾今その國をよせたまはむ。」
仲哀天皇 「高きところに登りて西の方を見れば、國土は見えず。ただ大海のみあり。」よって、「いつわりをなす神」と謂う。
神 大く怒りて、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず。汝は一道[ひとみち](死の国)に向ひたまへ。」
建内宿禰 「恐[かしこ]し、我が天皇、なほその大御琴あそばせ。」
仲哀天皇は御琴の音をさせず、そのまま崩御。
神 「およそこの國は、汝命(神功皇后)の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。」
建内宿禰 「恐[かしこ]し、我が大神、その神(神功皇后)の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」
神 「男子ぞ。」
建内宿禰 「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまく欲し。」
神 「こは天照大神の御心ぞ。また底筒男、中筒男、上筒男の三柱(住吉三神)の大神ぞ。・・・」
まず、神功皇后の述べた「西の方に國有り。」の『西』を『東』に置き換えて解釈すれば、新羅征伐ではなく、大和東征の話になります。造作もありません。
その後、仲哀天皇(呉の末裔)と神(住吉氏)との間で口論となりますが、何について口論しているのでしょうか。仲哀天皇の「高きところに登りて・・・國土は見えず。」に着目します。
『高きところに登りても國土は見えず。』
ここで『國土』を『先』という文字に代えてみます。
『高きところに登りても先は見えず。』
意味としては何も変わらないように見えますが、主語が省略されているので、その主語が「私が」ではなく「あなたが」に代えてみます。
『(あなたが)高きところに登りても先は見えず。』 → 『あなたが総大将になっても未来は見えない。』 → 『あなたに総大将の能力はない。』
つまり、仲哀天皇{呉の末裔)と神(住吉氏)との間で、大和東征の総大将の地位について口論になったのではないかと思います。そして、突然、仲哀天皇は崩御します。心臓発作なのか、殺められたのか、何の記述もないのでわかりませんが、一番驚いたのが、建内宿禰(宇佐氏)であったことは容易に想像出来ます。
これまで準備をして来たことが、すべて水の泡になってしまいます。仲哀天皇(呉の末裔)の崩御が蘇我氏に知られる前に対策を講じなければなりません。その対策とは仲哀天皇と神功皇后の子である応神天皇を大和東征の総大将にするという妥協案ではなかったでしょうか。
そうすれば、蘇我氏にも住吉氏にも双方の面子を立てることが出来ます。この応神天皇を総大将にするということで、九州はひとつにまとまったと言えます。宇佐氏においてはこの瞬間、大和東征の八割は成功したと確信したのではないでしょうか。
第十話 軍事基地 洞海湾
前回は、古事記の中の「仲哀記」を詳しく見ていきました。
そこには、仲哀天皇と神(住吉三神)である住吉氏との間の口論、そして、結末の妥協案として、応神天皇を大和東征の総大将にし、初めて九州がひとつにまとまったことを論じました。
今回は、日本書紀の中の「仲哀紀」を詳しく見ていきます。ここに、手を組んだ宇佐氏と宗像氏との間に、日向の蘇我氏を側近とし、呉の末裔である仲哀天皇がどのように迎えられるかということが書かれています。そして、この三者が集結する洞海湾が軍事基地となり、大和東征への軍事訓練を行ったであろうことを伝承から推察していきます。
日本書紀は宮澤豊穂氏による現代語訳から抜粋します。
「八年の正月四日に、筑紫に行幸された。その時、岡[おかの](福岡県遠賀郡芦屋町附近)県主[あがたぬし]の祖熊鰐[わに]は、天皇の行幸を承り、あらかじめ多くの枝の賢木[さかき]を根から抜き取り、九尋[ひろ]の船の舳に立て、上の枝には白銅鏡[ますみのかがみ]、中の枝には十握剣[とつかつるぎ]、下の枝には八坂瓊[やさかに]を掛け、周芳[すわ]の沙麼浦[さばのうら]にお迎えに参った。そして、魚や塩をとる地を献上し、奏上して、
『穴門から向津野大済[むかつのおおわたり](大分県杵築市の港)までを東門とし、名護屋大済[なごやのおおわたり](福岡県北九州市戸畑区北部)を西門とし、没理島[もどりしま](山口県下関市北西の海上)、阿閉島[あへしま](六連島の北西)だけを御筥[みはこ](穀物提供地)とし、柴島(洞海湾中の中島・葛島)を割いて御へ(魚菜提供地)とし、逆見海[さかみのうみ](福岡県北九州市若松区遠見ノ鼻附近)を塩の地といたしましょう。』
と申し上げた。」
岡県主の熊鰐はいわゆる三種の神器を賢木にぶら下げて、仲哀天皇を迎えます。
本来、記紀に書かれているように、神武天皇が大和東征し、景行天皇が全国統一を行ったのならばこの国の統治の証としてすでに、仲哀天皇は三種の神器を賜っているはずです。ですから、熊鰐がいわゆる三種の神器を賢木にぶらさげて、仲哀天皇を迎えるということは天皇に対して非礼とも言える行動です。
しかし、私が論じたように、大和東征は仲哀天皇の子である応神天皇が行ったとするのならば、仲哀天皇はまだ、神から三種の神器を賜っているわけではありません。よって、熊鰐の行為は仲哀天皇に対して、「あなたこそが三種の神器を治めるに相応しい方です」ということを意味しているので理に適ったことだと言えます。
次に、『穴門から向津野大済[むかつのおおわたり](大分県杵築市の港)までを東門とし、名護屋大済[なごやのおおわたり](福岡県北九州市戸畑区北部)を西門とし、・・・』は正確に豊前の海岸線を示しています。つまり、宇佐氏の勢力範囲です。また、熊鰐が県主である遠賀川河口は宗像氏の勢力範囲ですので、仲哀天皇が率いる蘇我騎馬軍は宇佐氏と宗像氏の間に迎え入れられたことになります。
具体的な場所は後の明治時代に官営八幡製鉄所の本事務所が置かれた「枝光」という地です。
「枝光」の地名の由来は仲哀天皇が熊襲征伐の折、地元の豪族・熊鰐が真榊の枝に剣・玉・鏡の3種の宝物を下げて迎えたことから「枝三つ」=「枝光」と称するようになったと伝承されています。
私はこの枝光に、仲哀天皇が率いる日向の蘇我騎馬軍が上陸したと考えています。
この枝光の北に隣り合わせて、荒手、そして、その北に牧山という地名があります。牧山というからにはこの地に馬が放牧されたに違いありません。この牧山から南西の椎の木台にかけてはゆるやかな丘陵地となっており、馬を飼うには最適な場所です。椎の木台の最も高い所からは関門海峡、洞海湾、そして、宗像の山々までが一望できます。
先程の荒手という地名も、蘇我騎馬軍が大和東征の際に別動隊として行動したことを考えれば、「別動隊」→「新手」→「荒手」に変化したと考えられないこともなく、蘇我騎馬軍の幕営地ではなかったのでしょうか。
一方、神功皇后は日本書紀の中で次のように書かれています。
「一方、皇后は別の御船で洞海(洞海湾)からお入りになった。ところが、潮が引いてしまい、進むことができなかった。その時、熊鰐はまた引き返し、洞海から皇后をお迎え申し上げた。しかし御船が進まないのを見て、恐れ畏まり、すぐに魚地・鳥池を作り、魚鳥を集めた。皇后はこれらの魚鳥の群れ遊ぶのをご覧になり、怒りの心がようやくおさまった。潮が満ちてくるとちょうど、岡津にお泊りになった。」
仲哀天皇と神功皇后はこの洞海湾の地で初めて対面したのではないでしょうか。前回、私が書いたように神功皇后は加羅の国から送られた皇女とするならば、遠い国のこの地に来て不安だったに違いなく、上記の日本書紀に書かれていることも頷けます。
また、神功皇后の伝承の中に、洞海湾の南にある帆柱山から、船の帆柱となる木を切り出したということも残っていますので、この洞海湾の沿岸で、大和東征のための船の建造も行われたと考えます。
私の論点で言えば、蘇我騎馬軍は枝光、荒手、牧山で戦のための馬を育て、宇佐水軍、宗像水軍は洞海湾の南岸で大和東征のための船の建造を行ったということです。
この大和東征の準備期間中、母としての神功皇后、子としての応神天皇にとっては二人が睦まじく暮らすわずかに平穏な時間だったのではないでしょうか。北九州市八幡東区大蔵にある乳山八幡神社の境内案内板には次のように書かれています。
「この地は、1700有余年の往昔御祭神神功皇后が更暮山にて国見し給いし後、乳山の山麓にて皇子(後の応神天皇)に御乳を与え給いし聖地を産土神様御創建の佳き地と選びて創建し今日に至る。」
第十一話 書き換えられた神功皇后
『神功皇后』。
古代日本史において最も重要な人物でありながら、最もわからない人物と評してよいかと思います。
と言いますのも、学会では応神天皇以降を実在した人物と考える説が強いのですが、仲哀天皇や神功皇后となると架空の人物と考えている見解が多いからです。よって、現在、記紀に書かれている仲哀天皇や神功皇后の話はすべて神話として片付けられてしまっています。
確かに、記紀に書かれている通り、神功皇后が神がかって仲哀天皇の崩御後、三韓征伐に出向くということを真に受けるわけにはいきません。
しかし、応神天皇が実在するならば、その父となり、母となる人物も当然実在するわけで、記紀に書かれている仲哀天皇と神功皇后の記述をどこまで信じるに値するのかが問題となってきます。
私の論点で言えば、記紀に書かれている内容をそのまま信じるわけにはいかないが、古事記にかけられた第3のトリックとして、『FROM』と『TO』の入れ替えを行い、仲哀天皇は「熊襲」征伐に行くのではなく、「熊襲」方面である日向から来たとし、神功皇后は「新羅」征伐に行くのではなく、「新羅」方面である「加羅」から来たということにすれば、そのロジックの一部は成り立つと考えたわけです。
私としては、神功皇后を神話の世界から、実在の世界へとどうしても引きずり込みたいのです。そうすることによって、古代日本の起点がわかるからです。初代天皇となる応神天皇ですが、そのためには様々な勢力の力のバランスが必要でした。そこに神功皇后が深く関わって来たのです。いや、神功皇后無くして、この力のバランスは成り立たなかったといってもよいぐらいです。
前々回の「仲哀記の真相!?」で書いた通り、新興勢力である宇佐氏・宗像氏・蘇我氏連合と既存勢力である住吉氏の橋渡しをしたのは他ならぬ神功皇后であるからです。
前置きが長くなりましたが、では、神功皇后が加羅国から来たという根拠を紹介しましょう。
炭坑節の2番の歌詞に「ひとや~ま~、ふたや~ま~、みやま~越え~、ヨイヨイ」という部分があります。これは福岡県田川郡香春町にある香春岳(かわらだけ)の一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳を示します。延喜式神名帳にはそれぞれの山頂に神社が三座あったことになっています。(現在はのこの三座がまとめられて香春神社となっています。)
延喜式神名帳に記載されている豊前国の残りの三座は宇佐神宮内にありますから、香春神社は宇佐神宮と共に古く、古い資料の中には豊前国の一宮を宇佐神宮ではなく、香春神社としているものもあります。
また、香春町採銅所と宇佐神宮には深い繋がりがあります。
『三代実録』の陽成天皇元慶二年(878)三月五日辛丑の詔によれば、「豊前国規矩(企救)郡―現在の福岡県田川郡香春町採銅所―で採掘した銅を潔清斎戒して八幡大菩薩に申奏する」とあります。また、『応永二十七年(1420)宇佐宮造営日記』「放生会」の条には、豊前国香春の採銅所から宇佐八幡宮に宝鏡が献納されることを載せていますし、さらにまた、江戸末期の渡辺重春撰『豊前志』仲津郡「豊日別国魂宮」の条に引く『長光家文書』には、その宝鏡が香春の採銅所から仲津郡草場村の豊日別宮に移され、さらに京都郡の総社八幡宮→築城郡の湊八幡宮→上毛郡山田邑の宗像宮→下毛郡高瀬村の矢幡八幡宮を経て宇佐八幡の本宮に到着する日程と経路とが詳細に記録されています。<古代中国の「宇宙」最高神と日本 福永光司著 『日本の古代(13)』中央公論社より抜粋>
つまり、香春町採銅所には先進の銅技術をもった渡来人が移り住んでいたと考えられます。
この先進の銅技術をもった渡来人が祀る香春神社の主祭神が辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)なのです。古事記の中で神功皇后は息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と書かれていますので、香春神社の主祭神と同一人物ではないかと考えられるのです。香春神社の主祭神の頭にははっきりと『辛国』と書かれているところに着目して下さい。
私は横浜から北九州に戻って来て2年半が経ちますが、豊前、筑前、筑後の神社を訪れるたびに、神功皇后、応神天皇がいかに多くの神社で祀られているかに驚かされます。神功皇后、応神天皇だらけという表現が適切かどうかはわかりませんが、そのような印象を持ちます。
社格の高い大きな神社が神功皇后を祀っている場合は三韓征伐に出向くジャンヌ・ダルクのような勇ましい女性を想像しないでもないですが、村社のような小さな神社が神功皇后と応神天皇を祀っている場合は初代天皇である応神天皇の国母として、親しみ、慈しみ深い女性を連想します。それはヨーロッパにおけるイエス・キリストを見守る聖母マリアのように見えるのです。
私が論じたように、神功皇后が加羅国から来た皇女とすれば、どのような人生を送ったと想像出来るでしょうか。政略結婚が決まり、加羅国から海を渡って、仲哀天皇が滞在している北九州の洞海湾に上陸。住吉氏を後見人にしているとはいえ、見知らぬ地で不安であったに違いありません。そして、嫁いだ後、すぐに仲哀天皇は崩御。そして、仲哀天皇との間に出来た子供である応神天皇は生まれた時から、大和東征の総大将になることを宿命づけられます。
神功皇后が危険な大和東征に同行したとは考えられませんから、成長していく応神天皇と過ごした日々はわずかであったに違いありません。そして、応神天皇が大和東征に出発することを見届けて以降は香春岳の麓の小さな村で、応神天皇が無事であることを母として毎日祈り続けていたのではないでしょうか。
私が想像する神功皇后は時代に翻弄された一人の哀しい女性に写ります。それを記紀の中では三韓征伐をするジャンヌ・ダルクのような勇ましい女性に書き換えてしまったのです。
第十二話 朝鮮半島への進出!?
記紀の中で、応神天皇以降、百済や新羅からの朝貢という具体的な記事が見えます。記紀で言えば、神功皇后の三韓征伐が起点になって朝鮮半島に進出し、交流が始まったというロジックなのでしょう。
しかし、今後述べていく「磐井の乱」が終息し日本国内が安定するまでは朝鮮半島に出兵するなどの余裕はさらさら無かったはずです。では、朝鮮半島との関係をどのように考えたらよいのでしょうか。
騎馬民族説を唱えた江上波夫氏はユーラシア大陸の西の端で実際に起きたことが、ユーラシア大陸の東の端である朝鮮半島と古代日本の間でも起こったのではないかと考えました。この興味ある出来事を見ていきましょう。
時は9世紀から12世紀にかけて。北欧のノルマン人(ヴァイキング)はヨーロッパ沿岸を荒らしました。西フランク王国(フランス)では北西部に上陸したのです。西フランク王国に力があれば、ノルマン人を追い払えたのでしょうが、結局、追い払うことが出来ず、王はこのノルマン人に土地と、公爵としての称号を与えて臣下として迎え入れました。よって、この土地をノルマンディーと呼びことになりました。
その後、あろうことか、このノルマン人はイングランド王国に侵入し、イングランド王に即位したのです(ノルマン・コンクエスト)。つまり、西フランク王国の中ではノルマンディー公という臣下でありながら、イングランドではイングランド王として君臨したのです。この複雑な関係は後の百年戦争の遠因となります。
江上波夫氏はこのノルマンディーを加羅に見立て、イングランドを古代日本に見立てたわけです。
私も江上波夫氏と似たようなイメージを持っていますが、少しだけ違います。
大和東征を行う前、その主力部隊は新興勢力である宇佐氏、宗像氏、そして、呉の末裔の側近である蘇我氏の連合軍。この呉の末裔(仲哀天皇)に、加羅から皇女(神功宇皇后)を迎えることによって、既存勢力の住吉氏を九州の後ろの守りとして引き付けました。
このとき、宇佐氏、宗像氏、蘇我氏の連合軍と言ってもまだ小さな勢力ですし、加羅も朝鮮半島の中では小さな勢力です。この両者の関係は対等な軍事同盟だったのではないでしょうか。
しかし、大和東征後、宇佐氏、宗像氏、蘇我氏、住吉氏が古代日本を統一してからは加羅との間で力のバランスが変わりました。古代日本が主で、加羅が従。この立場の違いが日本サイドに都合のよいように書いている日本書記の中に、強気の記事として現れているのではないでしょうか。任那(加羅)が日本サイドの領有地であるというように。
そして、もうひとつ。朝鮮半島との関係を考える上で重要なことがあります。日本の九州の勢力も一枚岩ではないということです。もともと博多湾岸にある住吉氏は中国北朝の魏と関係が深かったわけですし、一方、日向の蘇我氏は中国南朝の呉と関係が深いわけです。
そして、何といっても住吉氏と新羅の間は太いパイプで繋がっているのです。住吉大社の神宮寺は758年に創建され「新羅寺」と呼ばれているほどですから。
そこで、大和東征前の複雑に絡み合う東アジア情勢を見てみると、次のようになります。
中国 朝鮮半島 九州
北朝 新羅 ---- 住吉氏
高句麗 加羅 宇佐氏、宗像氏
南朝 ---- 百済 蘇我氏
そして、大和東征後は次のようになります。
中国 朝鮮半島 九州
北朝 新羅 ---- 住吉氏
高句麗
南朝 ---- 百済 - 加羅 ー 蘇我氏、宇佐氏、宗像氏
宇佐氏と宗像氏との間の密約とは何だったでしょうか。大和東征が成就した暁には朝鮮半島との交易権を宗像氏に与えるということでした。当然、そのようなことをすれば、既得権益を得ている住吉氏と安曇氏との間に争いが起こるのは必定です。そしてまた、新羅と住吉氏との間が太いパイプで繋がっているとすれば、それに立ち向かうだけの包囲網を作っていかなければ戦になりません。
まずは大和東征後、古代日本を統一することが最優先。
その後、その次の政治的課題として、既存勢力である住吉氏と安曇氏を討つのですが、それには十分な準備が必要だというわけです。
さて、これまで古事記を中心に見ながら、大和東征の準備がどのように行われ、そして、実行されたのかを見て来ました。強い絆で結ばれていく順番は次の通りです。
1.宇佐氏+宗像氏
2.(宇佐氏+宗像氏)+ 呉の末裔とその側近の蘇我氏
3.((宇佐氏+宗像氏)+ 呉の末裔とその側近の蘇我氏)+ 住吉氏
この四者の勢力が揃ったからこそ、大和東征は成功し、古代日本は統一されました。
これからは場所を大和、河内に移し、古代日本(大和朝廷)の政権運営について見ていきます。まずは答えを先に明かしてしまいましょう。それは先ほど書いた絆が3→(磐井の乱、527年)→2→(大化の改新、645年)→1と壊れていく過程だということです。
そしてまた、九州から大和、河内に移るときに氏名も次のように変わります。
九州 大和、河内
宇佐氏 → 大伴氏(連)、物部氏(連)、中臣氏(連)
宗像氏 → 和珥氏(臣)
蘇我氏 → 蘇我氏(臣)
(呉の末裔 → 大王、天皇)
住吉氏 → 葛城氏(臣)
(注 : 私は氏姓制度で、連[むらじ]は宇佐氏から派出した氏族、そして、臣[おみ]は大和東征で協力した氏族と考えています。江戸時代で言うならば、連[むらじ]は譜代大名、臣[おみ]は外様大名です。)
激しく揺れ動く東アジア情勢の中で、自らも政権基盤を変えながら、政治的課題を克服していった古代日本(大和朝廷)。今後の展開をお楽しみに。
第十三話 日本書紀の役割
古事記の役割は日本の島々を創った伊邪那岐、伊邪那美の神々の子孫が天孫降臨して実在する天皇に繋がっていった系譜を表すことでした。
そして、私はその古事記のトリックを解明することによって、蘇我騎馬軍を含む、宇佐水軍、宗像水軍、住吉水軍という、いわば、九州水軍が大和東征を行い、それを成就するまでを描いて来ました。つまり、大和朝廷が成立するまでを述べて来ました。
一方、日本書紀の役割とは何でしょうか。
日本書紀も、伊邪那岐、伊邪那美の神々が天孫降臨して実在する天皇に繋がっている部分を古事記と同様に重複して描いています。それよりも重要なことは古事記が書いていない継体天皇以降、磐井の乱、蘇我氏の繁栄、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱を詳述していることです。
いわば、日本書紀は大和朝廷成立以降の政権運営について、壬申の乱に勝利した天武天皇の視点から描いていると言えます。
また、日本書紀の最大の特長のひとつとして、それが編年体史書であることです。神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)で記載されています。この暦日が正しく記載されているならば、歴史資料としての価値は計り知れないほど大きいものになります。
ところが・・・。
戦時中のことですが、小川清彦氏が優れた暦日研究を1940年に完成させました。当時の状況はこの貴重な研究の公表を許さず、戦後になって発表されたというものです。
「『日本書紀』の月朔干支は閏(うるう)の字を脱するという書記編者の若干の誤りを訂正すると、神武即位前紀甲寅(こういん)年十一月丙戌朔(へいじゅっさく)から仁徳紀八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳(ぎほう)暦と、反対に安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉(げんか)暦と、すべて完全に一致するということだった。
元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれる。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんふう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665年=天智四年)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
つまり、元嘉暦のほうが古く、麟徳暦あるいは儀鳳暦のほうが新しいにもかかわらず、『日本書紀』では古い時代に新しい儀鳳暦を用い、新しい時代に古い元嘉暦を用いていることが明らかになったのである。」(古代の画期雄略朝からの展望 岸俊男著 『日本の古代(6)』中央公論社より抜粋)
思わず、「えっ」と言ってしまいませんか。
日本書紀は2つの編纂グループによってまとめられたことになります。
ひとつは古い元嘉暦を使ったグループ。これは安康紀以降天智紀までを編纂。安康紀というと磐井の乱が起こる少し前のことです。よって、磐井の乱以降の編年はかなり正確であると言えます。
もう一方は新しい儀鳳暦を使ったグループ。これは仁徳紀以前を編纂。私は古事記の中つ巻の神武記から仁徳記にかけて3つのトリックがかけられていると述べて来ました。その時期に合致することになります。もともとトリックがかけられているわけですから、この時期の出来事を編年する場合も、編纂者は鉛筆をなめなめ、頭をひねりながら潤色をしていったのだと思います。
というわけで、これからは日本書紀を中心に大和朝廷の政権運営について、見ていきたいと思います。
まず、大和朝廷は大きく3つの時代に分かれると考えています。
1.葛城氏(住吉氏)優勢の時代 応神天皇 ~ 武烈天皇
527年 磐井の乱によって政権交代
2.蘇我氏優勢の時代 継体天皇 ~ 推古天皇
645年 大化の改新によって政権交代
3.中臣氏(藤原氏)政権の確立 舒明天皇 ~ 持統天皇
1.では、『葛城氏(住吉氏)優勢の時代』 と書きましたが、住吉氏から派生した葛城氏が政権運営を行ったというわけではありません。政権運営は宇佐氏から派生した大伴氏、物部氏が行っていますが、この時期の仁徳から仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母にしています。つまり、葛城氏から正室を迎えることによって、政権を安定させたと言えるのです。
ところが、仁賢天皇の後の武烈天皇に子がなく、仁徳から続いた流れはここで切れます。
その後、越前から大伴金村が継体天皇を招きますが、このときに磐井の乱が発生します。大伴金村こそが葛城氏(住吉氏)にとっての刺客だったということです。この磐井の乱で大伴氏、葛城氏(住吉氏)共に消耗し衰退します。この大きな2勢力が抜けた政権の空洞に蘇我氏が割り込んでくるのです。そして、2.『蘇我氏優勢の時代』となります。
中国南朝の呉の流れを汲む蘇我氏の政権運営は見事というしかありません。これこそが当時の文明国の最先端をいく政権運営であったと言えます。しかし、唯一、致命的なミスを犯します。それは蘇我馬子の崇峻天皇の暗殺です。臣下が君主を殺めるなどはあってはならないこと。
この天皇の不安を払拭すべく神道による統治を考え出し、宇佐氏から派生した中臣氏が蘇我氏を破滅へと追い込みます。それが3.『中臣氏(藤原氏)政権の確立』です。
中臣氏(藤原氏)は古事記、日本書紀を、いわば、公布し、神道を施行しますが、そればかりでなく、仏教も養護します。この神仏習合こそが日本の最大のオリジナリティーなのです。
第十四話 葛城氏(住吉氏)優勢の時代
古事記の中つ巻では、二柱のヒーローが登場します。一柱は大和東征を行った神武天皇、そして、もう一柱は景行天皇のときに全国平定を行ったヤマトタケル(倭建命『古事記』、日本武尊『日本書紀』)です。
私の古事記の三つのトリックの解明では、神武天皇は架空の天皇であり、実際に大和東征を行ったのは応神天皇だとしました。では、ヤマトタケルも架空の皇子とするならば、実際にそれに対応する皇子は誰でしょうか。
応神天皇の後を継ぐ、仁徳天皇ではないかと思われそうですが、記紀を何度も読んでいるとどうもそうではないように思えます。応神天皇には二柱の有能な皇子がいて、それぞれがその役割を十分に果たしているように思えるのです。
では、まず、古事記の応神天皇の段を見てみましょう。
「ここに天皇、大山守(おほやまもりの)命と大雀(おほさざきの)命とに問ひて詔りたまひしく、『汝等は、兄の子と弟の子といずれか愛しき。』とのりたまひき。天皇この問ひを発したまひし所以は、宇治能和紀郎子(うぢりわきいらつこ)に天の下治らさしめむ心ありつればなり。
ここに大山守命は、「兄の子ぞ愛しき。」と白したまひき。次に大雀命は、天皇の問ひたまひし大感情を知らして白したまひしく、『兄の子は既に人と成りて、これいぶせきこと無きを、弟の子は未だ人と成らねば、これぞ愛しき。』とまをしたまひき。
ここに天皇詔りたまひしく、『雀、吾君の言ぞ、我が思ふが如くなる。』とのりたまひて、すなわち詔り別けたまひしく、『大山守(おほやまもりの)命は山海の政をせよ。大雀(おほさざきの)命は食国(をすくに)の政を執りて白したまへ(天下の政治を行いなさい)。宇治能和紀郎子(うじりわきいらつこ)は天津日継(あまつひつぎ)を知らしめせ(天皇の位につきなさい)。』とのりわけたまひき。
故、大雀(おほさざきの)命は天皇の命に違ひたまふことなかりき。」
ここに三柱の皇子が登場します。大山守命、大雀命、宇治能和紀郎子。
応神天皇は一番年下の宇治能和紀郎子を次の天皇にしたいのです。このことを二柱の兄たちである大山守命と大雀命に問います。その結果、大雀命の答えが応神天皇の気持ちに合致していたのです。
つまり、有能な二柱の皇子とは大雀命と宇治能和紀郎子。
ところが、この後、
「ここに大雀命と宇治能和紀郎子と二柱、各天の下を譲りたまひし間に、海人大贄(あまおほにへ)を貢りき。ここに兄はいなびて弟に貢らしめ、弟はいなびて兄に貢らしめて、相譲りたまひし間に、既に多の日を経き。かく相譲りたまふこと、一二時(ひとときふたとき)にあらざりき。故、海人既に往き還に疲れて泣きき。故、諺に『海人や、己が物によりて泣く。』と日ふ。然るに宇治能和紀郎子は早く崩りましき。故、大雀命、天の下治らしめしき。」
となって、応神天皇の後は大雀命が継ぐことになります。大雀命とは仁徳天皇のことですが、宇治能和紀郎子は本当に早く崩御したのでしょうか。ここに私の疑問があります。
では、ヤマトタケルが登場する景行天皇の段を見てみましょう。
「ここに天皇、三野(みのの)国造の祖、大根(おほねの)王の女、名は兄(え)比売、弟(おと)比売の二人のオトメ、その容姿麗しと聞こしめし定めて、その御子大碓(おほうすの)命を遣はして召上げたまひき。故、その遣はさえし大碓命、召上げずて、すなわち、己れ自らその二人のオトメと婚ひして、更に他(あだ)し女人(をみな)を求めて、詐(いつは)りてそのオトメと名づけて貢上(たてまつ)りき。・・・
天皇、小碓(をうすの)命に詔りたまひしく、『何しかも汝の兄は、朝夕の大御食(おほみけ)に参出来ざる。専(もは)ら汝ねぎ教へ覚せ。』とのりたまひき。かく詔りたまひて以後、五日に至りて、なほ参出ざりき。ここに天皇、小碓命に問ひたまひしく、『何しかも汝の兄は、久しく参出ざる。もし未だ教へずありや。』ととひたまへば、『既にねぎつ。』と答へて白しき。また『如何にかねぎつる。』と詔りたまへば、答へて白しけらく、『朝餉に厠に入りし時、待ち捕えて掴(つか)み批(ひし)ぎて、その枝を引きかきて、薦(こも)につつみて投げ棄てつ。』とまをしき。
ここに天皇、その御子の建(たけ)く荒き情(こころ)をかしこみて詔りたまひしく、『西の方に熊曾建(くまそたける)二人あり。これまつろはず禮無き人等なり。故、その人等を取れ。』とのりたまひて遣はしき。」
天皇に召し上げられたオトメと婚いした兄である大碓命は弟の小碓命に殺され、その小碓命はその性格の荒々しいことを見込まれて全国平定に遣わされます。この小碓命が後にヤマトタケルとなります。
実を言うと、応神天皇段に登場する大雀命も応神天皇に召された日向の髪長比米に見惚れて、応神天皇の許可を得て、このオトメを賜っているのです。つまり、応神天皇の段に登場する兄である大雀命も、景行天皇の段に登場する兄である大碓命も天皇に召し上げられたオトメを婚いしているということでは同じなのです。
ここで、
応神天皇の段 景行天皇の段
大雀(おほさざきの)命【仁徳天皇】 = 大碓(おほうすの)命
宇治能和紀郎子(うじりわきいらつこ) = 小碓(をうすの)命【ヤマトタケル】
という絵が描かれます。私が強調したいのは宇治能和紀郎子は早く崩御したのではなく、全国平定に遣わされてヤマトタケルになったということ。二人の有能な皇子はそれぞれが十分に生きて、自らの仕事を成し遂げているということです。
そして、もうひとつ、ここには深い意図があると思われます。
応神天皇は宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)を次の天皇にしたかったにも関わらず、なぜ、次の天皇にせずに全国平定に遣わせたのかということです。
それは大和朝廷樹立時の政権の勢力バランスが影響しています。政権の核となっているのは宇佐氏(大伴氏、物部氏)と宗像氏(和珥氏)。そこに蘇我氏が加わって、最後に住吉氏(葛城氏)が加わっています。蘇我氏との間では呉の末裔を大王につけるという条件を履行していますが、当時最大の実力者である住吉氏(葛城氏)をどのように政権に取り込むかが課題だったのではないでしょうか。
重要なポストを与えることは出来ないので、天皇の正室を住吉氏(葛城氏)から迎えるということで政権に引き留めたのではないかと思われます。しかし、これは宇佐氏と宗像氏との間の密約である海外交易権を宗像氏に与えるということを実行するときに、住吉氏とはいずれ戦わなければならないので、将来に支障を来たします。このことを理解した上で、住吉氏(葛城氏)から正室を迎えるということは将来、この仁徳天皇の血統は廃嫡するということを見込んでいたのではないかと思われるのです。
だからこそ、応神天皇の可愛がった宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)を全国平定に遣わすということで都落ちさせ、将来戻って来るときまで、その正統な子孫を安全な場所に守ったのではないかと思えるのです。
このことは応神天皇、宇佐氏(大伴氏)、宗像氏(和珥氏)の五本の指にも満たない中枢部の中だけの決定だったと思われます。
なぜなら、ヤマトタケルは次のように愚痴っています。
「天皇既に吾死ねと思はす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時もあらねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平けに遣はすらむ。これによりて思へば、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり。」
この決定は二柱の有能な皇子にすら伝えていない内部秘密だったと思われます。この言葉を聞く応神天皇の心情も察するに余りあるものがあります。
では、二柱の有能な皇子が成した役割と、その役割に関わった主な氏族はというと、次のようになっていると考えます。
1.仁徳天皇 国際港難波の建設 住吉氏(葛城氏) + 宇佐氏(大伴氏)
2.宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】) 東国平定 宗像氏(和珥氏)+ 蘇我氏 + 宇佐氏(物部氏、中臣氏)
まず、1.を見てみましょう。
「大雀(おほさざきの)命、難波の高津宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」 そして、
「・・・また秦人(はたびと)を役(えだ)ちて茨田(まむだの)堤また茨田三宅(みやけ)を作り、また丸邇(わにの)池、依網(よさみの)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(おばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」
つまり、仁徳天皇は難波に拠点をおいて、政治を行っているのですが、難波の重要性とは海運国ギリシャ・アテネのピレウス港と同じものです。宇佐氏、宗像氏、住吉氏のいずれも水軍が主力というのであれば当然のことでしょう。
京都を作ったのは桓武天皇、神戸を作ったのは平清盛、東京を作ったのは徳川家康というならば、大阪を作ったのは仁徳天皇に他なりません。
この港の建設には住吉氏とその盟友である安曇氏とが深く関わったのではないかと思います。なぜなら、博多の国際港の建設ですでに実績があるからです。
「三大住吉」と言えば、大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社を指します。大阪は大和への玄関口、下関は日本海側に出る西回り航路の拠点、博多は朝鮮半島との交易の中心地です。住吉氏は国内の港の要所をすべて抑えたというわけです。
次に、2.について述べますが、大和朝廷が東国にどのように勢力を拡大していったのかを知る資料は極めて少なく(私の勉強不足も含めて)、大きな推論を次回に紹介したいと思います。
第十五話 葛城氏(住吉氏)打倒への準備
前回、応神天皇には二柱の有能な皇子がいて、それぞれが十分に生きて、自らの仕事を成し遂げたと述べました。そして、その二柱の有能な皇子が成した役割と、その役割に関わった主な氏族は次のようになっていると考えたわけです。
1.仁徳天皇 国際港難波の建設 宇佐氏(大伴氏)+ 住吉氏(葛城氏)
2.宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】) 東国平定 宗像氏(和珥氏)+ 蘇我氏 + 宇佐氏(物部氏、中臣氏)
1.では、仁徳天皇が博多港建設で実績のある住吉氏を中心に、国際港難波の建設をしたと述べました。さて、今回は2.について、述べていきたいと思います。
2.の中心はもちろん、東国平定ですが、同時に、遠い将来起こるであろう葛城氏(住吉氏)打倒への準備も行っていかねばなりません。
(1)宗像氏の役割 東国平定と、宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)の子孫の保護
(2)蘇我氏の役割 東国平定と、東国において住吉氏を上回る新たな兵力の育成
まず、(1)を見ていきましょう。
なぜ、この役割を宗像氏が担ったのかというと、宇治能和紀郎子の母は宗像氏(和珥氏)出身だからです。
「丸邇(和珥)の比布禮能意富美(ひふれりおまみ)の女、名は宮主矢河枝(みやぬしやかはえ)比売を娶して、生みませる御子、宇治能和紀郎子(うじりわきいらつこ)。」(古事記・応神天皇の段)
とは言ったものの、どこに匿ったのかを知る根拠が極めて乏しいのです。東国と宗像氏の接点を見出す資料さえ、なかなか見当たりません。そこで、延喜式神名帳の中で宗像三女神を祀る神社がこの辺りにないかを捜しましたら、ありました。
隠津島神社 福島県郡山市湖南町福良字福良山7414番地
猪苗代湖の南の県道235号線沿いにあり、社叢が約15ヘクタールにも及ぶ鬱蒼とした原生林に覆われているといいます。西にひとつ山を越えると、会津若松市です。
普通、なぜ、この深い山の中に海の神である宗像三女神が祀られているのかと思うでしょうが、宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)の子孫を匿って保護するためだと思えば、なんだか頷けます。
そして、ひとつ山を隔てた会津ですが、この地名は古事記の中に登場するのです。
「故、大毘古命は、先の命(みこと)の随(まにま)に、高志國(越の国)に罷り行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別(たけぬなかはわけ)と、その父大毘古命と共に、相津(会津)に往き遇ひき。故、其地を相津(会津)と謂ふなり。ここをもちて各遣はさえし國の政を和平して覆奏しき。ここに天の下太(いた)く平らぎ、人民富栄えき。ここに初めて男(をとこ)の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女(をみな)の手末(たなすゑ)の調(みつぎ)を貢らしめたまひき。故、その御世を称(たた)えて、初國知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)と謂ふ。・・・」(古事記・崇神天皇の段)
これは古事記の崇神天皇の段に書かれていることなのですが、私は崇神天皇は架空の天皇であり、実際は応神天皇が行ったことであろうとしていました。
そして、上の文章を要約すると、
「東に遣わされた建沼河別と、高志国に遣わされた大毘古命は会津に行き、出会った。故に、この地を会津という。そして、各々が遣わされた國の政を和平したと覆奏した。」
この覆奏した相手は誰かというと、すでにここに移り住んでいる宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)だと考えれば話の筋が通ります。
「これによって、天下が太く平らぎ、人民は富み栄えた。・・・よって、その御世を称えて、(応神天皇は)初國知らしし天皇という。」
つまり、宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)が東国を平定したという知らせによって、応神天皇は全国を統一したことになり、初國知らしし天皇になったということではないでしょうか。
次に、(2)を見ていきます。
蘇我氏は呉の末裔の側近ですから、中国南朝の復興という錦の御旗を振る立場であり、ネームバリューもあります。帰属する氏族に対しては呉の技術者にデザインさせた三角縁神獣鏡を下賜できます。また、蘇我氏の騎馬軍はこの関東の大平原においてこそ、威力を発揮できるのではないでしょうか。
ところが、この蘇我氏と東国を結びつける資料もまた少ないのです。私が首都圏でサラリーマンをしていたとき、京葉線などの終着駅として蘇我の地名を知っていたくらいのものです。
そこで、この千葉県千葉市中央区にある蘇我をインターネットで調べてみると、ここに延喜式神名帳にも記載されているという蘇我比咩神社がありました。蘇我比咩神社のホームページで由来を見ると、
「千五百年前に遡る歴史
当社は、今から千五百年前から建てられたといわれています。古記によりますと、第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方を統一すべく勅命を受け弟橘姫を始め多数の家来を引き連れ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかった時、風雨が強くなり船は進まず沈没の危機にあいました。このとき、弟橘姫は「龍神の怒りに触れた」とこれを静め和げんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じました。そして、日本武尊命は無事航海をつづけられたそうです。
蘇我大臣の娘
身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられました。里人等の手厚い看護で蘇生することが出来、無事に都に帰りました。又里人達は日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩せられ皇位を継承することに及ばなかった事を聞き及び、その霊をなぐさめんと社を建て神として祭りました。この里人達の行為に深く感激した第十五代応神天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました。蘇我一族は代々「春日神社」「比咩神社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇我比咩神社」を建立しました。「延喜式巻九神祇神名帳千葉郡記載。」その徳は山より高く海より深く「春日様」「下總の国香取神名様」と下總の国の守護神として人々に敬神されました。」
応神天皇が蘇我一族をこの地に派遣したということは納得出来ます。
そして、私は最後の「下總の国香取神名様」と書かれた文字を見て、ピンと来たのです。
下總国の一之宮は、
香取神宮 千葉県香取市香取1697 主祭神 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
下總国の隣の国である常陸国の一之宮というと、
鹿島神宮 茨木県鹿嶋市宮中2306-1 主祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
どちらも国譲り神話に登場する神ではないですか。ということは記紀に書かれている国譲りの話は出雲ではなく、この東国の平定の話なのではないでしょうか?
そうなんです。国譲り神話を東国平定のことだと考えれば、説明のつくことがたくさん出て来るのです。
第十六話 国譲り神話と東国平定
国譲り神話は古事記の上つ巻の葦原中国平定の段に書かれています。日本書紀でも同様に書かれているのですが、登場する神や神の名前などが微妙に異なります。
そこで、次のように、現在祀られている主要な国の一之宮の主祭神や相殿の名前を使って、国譲りの話を要約してみましょう。
● 天津神
武甕槌神(たけみかづちのかみ) 鹿島神宮(常陸国一之宮)・・・藤原(中臣)氏の氏神
経津主神(ふつぬしのかみ) 香取神宮(下總国一之宮)・・・藤原(中臣)氏の氏神、 貫前(ぬきさき)神社(上野国一之宮)・・・物部氏の氏神
● 国津神
事代主神(ことしろぬしのかみ) 宇都宮・二荒山神社(下野国一之宮)の相殿
建御名方神(たけみなかたのかみ) 諏訪大社(信濃国一之宮)
<国譲り神話の要約>
天照大御神は葦原中国に子孫を降臨させようとしますが、葦原中国はざわついていて思うようになりません。それを静めるために複数の神を派遣しますが、これも首尾よくいきません。そこで最後に、武甕槌神と経津主神を派遣します。
武甕槌神と経津主神は葦原中国を治めている大国主神のところへ行き、問い詰めると、大国主神には事代主神と建御名方神の二柱の子がおり、彼らが治めていると言います。
そこで、武甕槌神と経津主神はまず、事代主神のところへ行き、服従することをを承諾させ、次に、建御名方神のところへ行き、こちらも服従することを承諾させます。
再び、武甕槌神と経津主神は大国主神のところへ戻り、事代主神と建御名方神が服従したことを告げると、大国主神は国譲りを承諾します。
このとき、「また僕が子等(こども)、百八十神(ももやそがみ)は、すなはち八重事代主神、神の御尾前(みをさき)となりて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神はあらじ」(古事記)と述べていますので、事代主神がここの統率者であることがわかります。
以上のことから、東国平定においては次のような展開が起こったのではないかと考えられます。
東国平定に向った九州水軍の陣容は中臣氏(宇佐氏から派生)、物部氏(宇佐氏から派生)、宗像氏、蘇我氏。まず、海に面した東海道の国々から平定を行った後、房総半島に入り、そして、蝦夷と言われる東北地方の太平洋岸も平定します。
しかし、いまだ平定されていない最後に残った国々は毛野(下毛野→下野、上毛野→上野)、科野(信濃)、御野(美濃)と言われる野がつく海に面していない内陸地でした。これらの国々が国津神の起源になっていると考えられます。その中で最も大きな国は毛野でした。毛野川というのは鬼怒川のことですから、鬼怒川流域がその中心地。今で言うと栃木県であり、下野であったと考えられます。
天津神と言われる九州水軍はこの毛野の平定に照準を合わせます。鬼怒川の本流である利根川の河口の左岸の常陸国(鹿島神宮)、そして、右岸の下總国(香取神宮)を中臣氏が抑えます。言わば、海上封鎖をしたことになります。蘇我氏は東京湾の奥に入っていますから、念のため武蔵国を流れる荒川河口をウオッチングしていたのではないでしょうか。
この状況の中で、毛野国の統率者と九州水軍の代表者の間で国譲りの交渉が行われ、成就しました。
国譲りの成就後、毛野国を下毛野国と上毛野国に分けて、上毛野国に物部氏が入ります。これによって下毛野(下野)と科野(信濃)は分断されたことになります。さらに、下毛野(下野)は上毛野(上野)に入った物部氏、常陸を制圧している中臣氏、そして、会津地域を抑えている宗像氏の三方からモニタリングされることになり、東国の統治体制が完了したと言えるでしょう。
また別の機会に話すことになりますが、東国で武士団が形成されるとき、毛野(下野、上野)、科野(信濃)、御野(美濃)は清和源氏の土着地となり、常陸、下總、上總、武蔵、相模は桓武平氏の土着地になります。いわば、前者は国津神の武士団、そして、後者は天津神の武士団と言えます。そして、次の鎌倉時代は清和源氏の嫡流が天下を掌握することになったいうことは国津神が天津神に譲っていた国を取り戻したということ、つまり、リベンジしたということになるのではないでしょうか。
さて、私はここでもう一歩踏み込んで、どのようにして国譲りが行われたのか、つまり、天津神は国津神をどのように威嚇をしたからこそ国譲りをされたのかを考えてみたいと思います。
江戸時代末期、鎖国から開国に転換しなければならなかったのは、ペリーの黒船が襲来し、その圧倒的な武力で威嚇されたからですが、この国譲りの場合の威嚇とは何だったのでしょうか。
それはずばり、蘇我氏の騎馬軍とその戦術にあったと思います。なぜなら、水軍は関東平野では役に立ちませんから。
関東平野のような大平原の会戦の中で、有効な騎馬軍(騎兵)の戦術とはどのような方法なのでしょうか。それをわかりやすく説明するためには時代をずっと遡って紀元前3世紀、そして、舞台をヨーロッパに移さなければなりません。話が大きく横道にそれてしまいますが、この騎馬軍の有効な活用がいかに破壊的であったかを知っておかなければ、その後、東国で本格的な騎馬軍団の育成が始まることを理解することが出来ません。
東国騎兵の育成についてはインターネットでも論文が紹介されています。
「馬具副葬古墳と東国舎人騎兵」(1986年考古学雑誌)
http://fieldnote.info/page-1687/page-1664/
次は塩野七生氏の著作である「ローマ人の物語」の中からローマ共和国とハンニバルの戦いを追っていきたいと思います。
第十七話 騎兵の威力
前回、天津神(九州水軍)が国津神(毛野『下毛野→下野、上毛野→上野』、科野『信濃』、御野『美濃』の連合軍)を威嚇し、国譲りを認めさせたのは蘇我氏の騎馬軍とその戦術にあったと述べました。それをわかりやすく説明するためには時代をずっと遡って紀元前3世紀、そして、舞台をヨーロッパに移さなければならないとし、今回、それを述べることにします。
まず、皆さんはなぜ、紀元前3世紀のヨーロッパの話を古代日本に持ち込んでくるのか、まったく違う時代のまったく違う地域の話を持ってきたところで、そのようなことに意味があるのかと思われていることでしょう。
それには2つの理由があります。
1.騎兵の威力が具体的な数値として記録に残っていること
秦の始皇帝が万里の長城を築かせねばならないほど北方の騎馬民族に脅威があったというのはわかりますが、騎兵の威力について、「史記」を含め東アジアの書物の中に具体的な数値としての記録がありません。(ひょっとしたらあるのかも・・・。私の勉強不足もあります。)
2.戦術に汎用性があるということ
ここでは紀元前216年に行われたカンネの戦いを見ていきます。このカンネの戦いでは、当時最強のローマ軍をハンニバルは彼が生み出した騎兵の戦術によって完膚なきまでに叩きのめしています。しかし、ローマ軍はこの苦境から立ち上がり、ハンニバルの戦術を学び、それを乗り越えることによって世界最強の軍団へと成長しています。つまり、ハンニバルが生み出した戦術には凡将でも真似出来る汎用性があったということです。後に登場する天才カエサルは天才カエサルであるからこそ出来る戦術であって凡将には真似出来ないと言います。
そして、このカンネの戦いは、戦史研究では欠くことの許されない戦闘であるために、欧米の陸軍士官学校ならばどこでも学習するそうです。つまり、戦術の基本中の基本と言っていいのではないかと思います。
まず、騎兵の重要性に最初に気付いたのはアレキサンダー大王だと言います。ハンニバルはアレキサンダー大王の戦略と戦術を十分に研究しました。
「後に大王と尊称されることになるアレクサンドロス(アレキサンダー)は、二十二歳の年に、三万六千の兵を従えただけで広大なペルシャ帝国に攻め入った。この戦力で、十万から二十万もの兵を動員してくるペルシャ王ダリウスと闘って、二度までも勝ったのである。ペルシャ側の戦死者は十万を数えたのに反し、アレキサンダーの損失は二百から三百。ゼロを一つか二つ書き落としたと思うくらいだ。・・・
マケドニアの若い武将は、騎兵のもつ機動力を駆使することで、歩兵と騎兵で成り立っている軍の力を有機的に活用することを考え付いたのである。軍全体を有機的に活用することで、敵の主戦力の非戦力化を策したのであった。・・・」(塩野七生著「ローマ人の物語 ~ハンニバル戦記~」より)
では、そのアレキサンダー大王から学んだハンニバルのカンネの戦いを見ていきますが、ここでは要点だけを述べます。会戦に至るまでの駆け引きや兵の配置などは自らの戦術が有効に働くように細心の注意を払って行われているのですが、細かいところはすべて省略します。興味のある方は塩野七生氏の著書をお読みください。
ローマ軍 歩兵 80,000 騎兵 7,200 総計 87,200 (歩兵と騎兵の比率 11:1)
ハンニバル軍 歩兵 40,000 騎兵 10,000 総計 50,000 (歩兵と騎兵の比率 4:1)
歩兵戦力の比較ならば八万に対し四万で、二倍の差があるローマ軍に圧倒的に有利。ところが、騎兵戦力となると七千二百対一万でハンニバル軍が数字の上では4割ほど有利と逆転するのです。
ローマ軍は市民兵と同盟国兵で構成されており、士気の高さに於いても十分であったでしょうし、その重装歩兵の勇敢さは他の追随を許さないとして、当時でも有名でした。一方のハンニバル軍は傭兵で構成されています。
もし、あなたが兵として参加したいのはどちらの軍と問われれば、ローマ軍と言うのではないでしょうか。私もそう思います。
両軍は歩兵を中心として左右両翼に騎兵を配置して対峙します。歩兵は歩兵と闘い、両翼の騎兵はそれぞれの騎兵と闘うことでスタートしました。
ローマ軍の戦術は明らかで、両翼の騎兵が持ちこたえている間に、有利な歩兵で中央突破を図るというものです。しかし、実際はそのように展開しませんでした。
ハンニバル軍に有利な両翼の騎兵はローマ軍の両翼の騎兵を早々に蹴散らしてしまったのです。騎兵に機動力があるからこそ、歩兵の闘いの決着よりも騎兵の闘いの決着の方が先に決してしまったということです。そして、ハンニバル軍の騎兵はローマ軍の歩兵の背後に回り、ローマ軍の歩兵を完全に包囲しました。
この後は闘いというよりも殺戮と呼んだ方がいいのかもしれません。ローマ軍の死者七万。ハンニバル軍の死者五千五百。
これこそが騎兵の威力です。機動力のある騎兵の闘いを有利に展開させ、最終的には敵軍の包囲網を作って壊滅させる。わかってしまえば実に明解です。
このような騎兵を自軍に持っていないのならば、残るは秦の始皇帝のように万里の長城を築いて守るか、騎兵が縦横無尽に活躍できないような山に立てこもり、狭隘な地形で戦うゲリラ戦法しかないのではないでしょうか。
関東平野のような大平原は騎兵なくしては守れない。その現実を毛野国の人々は蘇我氏の騎馬軍によって思い知らされたのではないかと思います。
これで、騎兵を育成することがどれだけ重要であるのかがお分かりいただけたのではないでしょうか。
だからこそ、
「馬具副葬古墳と東国舎人騎兵」(1986年考古学雑誌)
http://fieldnote.info/page-1687/page-1664/
に書かれているように、騎兵の威力を知った東国の人々は騎兵の育成を積極的に進めていったのではないでしょうか。さらに言えることは蘇我氏の騎馬軍の戦術が騎兵育成のきっかけにはなりましたが、汎用性があるその戦術を学んでしまえば、後に蘇我氏は必要でなくなり、東国の人々が自ら改良を加えて自軍の騎兵の実力をつけていったのではないかと思います。
国譲り神話が東国平定に関係していると気付いたとき、もうひとつ気になることが出て来ました。古事記の崇神天皇の段に書かれている話はまるまる「毛野」に伝承されていた話を置き換えたのではないかと・・・。特に、三輪山伝説として書かれているのは三輪山ではなくて毛野の二荒山、つまり、男体山のことではないかと思えるのです。
第十八話 三輪山伝説?
当初、東国平定は資料も少ないし、サラッと流すつもりだったのですが、東国平定が国譲り神話に関係があると気付いてから、かなり深入りをしてしまいました。今回で東国平定の話を終了しますので、もう少しだけ我慢をお願いします。
天津神(九州水軍)は国津神(毛野『下毛野→下野、上毛野→上野』、科野『信濃』、御野『美濃』の連合軍)を蘇我氏の騎馬軍によって威嚇し、国譲りを認めさせて、東国平定を推し進めました。
と同時に、葛城氏(住吉氏)打倒への準備として、宗像氏は宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)の子孫を東国に保護し、蘇我氏は騎馬軍の威力を見せつけることによって東国での騎兵育成のきっかけになりました。この育成した東国騎兵が次の古代最大の内乱と言われる磐井の乱で活躍することになります。
ここでもう一度、古事記に戻って、実際に東国平定について書かれているところはどこかと言いますと、架空の天皇と考えている景行天皇の「ヤマトタケル」部分だけなのです。
そのヤマトタケルの東国平定の軌跡を追いますと、伊勢 → 尾張 → 相模(焼津) → 浦賀水道(房総半島) → 蝦夷平定後帰還 → 足柄山 → 甲斐 → 信濃 → 尾張 となっています。
ヤマトタケルは東国の最大勢力である毛野国には入っていない!!
古事記のヤマトタケルの部分だけを読んで、東国平定が完了したとはとても思えないのです。
そこで、ヤマトタケルが東征する前に、九州水軍(宗像氏、蘇我氏、物部氏、中臣氏)が事前に毛野国の制圧に赴き、毛野国との国譲り交渉が行われたと考えるわけです。これは前々回に述べました。
しかし、実際の古事記の国譲り神話は出雲を舞台として書かれているわけで、国譲り神話の中に「毛野」の文字はひとつとして見当たりません。
では、実際の古事記の中で、「毛野」の文字が登場するところはと言いますと、架空の天皇と考えている崇神天皇の段なのです。
「この天皇、木國造(きのくにのみやつこ)、名は荒河刀辨(あらかはとべ)の女、遠津年魚目目微比売(とほつあゆめまくはしひめ)を娶して、生みませる子、豊木入日子(とよきいりひこの)命。 ・・・ 次に豊木入日子命は、上つ毛野、下つ毛野君等の祖なり。 ・・・」
豊木入日子命は崇神天皇の第一皇子であり、上毛野、下毛野の始祖となっています。宇都宮・二荒山神社に主祭神として祀られています。
また、以前、福島県の「会津」で出会って、「初國知らしし天皇」となったと紹介したのもこの崇神天皇の段でした。
つまり、この崇神天皇の段にだけ、毛野近辺の地名が出て来るだけで、古事記の他の段で毛野の地名を憶測できるところはないのです。そこで、ずばり、崇神天皇の段に書かれていることはまるまる毛野についての話ではないかと思えるのです。
もし、あなたが古事記の編纂者だとして、地方の説話や伝承を取り込もうとするとき、どのようにするでしょうか。それらの話をバラバラにして取り込むのは面倒だし、手間もかかります。手っ取り早いのはその地方の説話や伝承をワンセットとして取り込んで、地名と人名だけを変えるのが簡単ではないでしょうか。
よって、崇神天皇の段に書かれている「三輪山伝説」も毛野国の説話や伝承ではないかと思うのです。
古事記の三輪山伝説を要約しますと次の通りです。
崇神天皇の御世に疫病が流行り悩んでいたところ、夢に大物主大神が現れて、「意富多多泥古(おほたたねこ)を用いて祭れば、国が安らかになる」という。そこで、意富多多泥古を捜し出し、三輪山の神主として祭ったら、疫病が止み、国が安らかになった。
この意富多多泥古が神の子と知れることがあった。
容姿端正な活玉依比売(いくたまよりびめ)が妊娠する出来事が起こり、その父母が怪しんで問い質したところ、「毎夕、姓名を知らぬ麗しき男が来る」という。その父母はその男を知ろうと娘にその男の着物の裾に糸を巻いた針を刺せと命じた。翌朝、調べると、糸はかぎ穴を通り、三輪山の神の社に続いていた。
日本書紀には蛇に姿を変えたという記述もあります。
現在、この三輪山をご神体として祀っているのは大神神社(おおみわじんじゃ)。大和国一宮であり、主祭神は大物主大神。
一方、私はこの伝説を大和の三輪山ではなく、毛野の男体山の伝承と考えているのですが、その男体山を祀っている神社は日光・二荒山神社です。二荒山神社は二つに分かれていて、日光・二荒山神社と宇都宮・二荒山神社があります。主祭神をまとめてみます。
●日光・二荒山神社
神体山 祭神
男体山(二荒山) 大己貴命(おおなむちのみこと)・・・大国主神
女峯山 田心姫命(たごりひめのみこと)・・・宗像三女神の中の一柱
太郎山 味すき高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
●宇都宮・二荒山神社
主祭神 豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)・・・上毛野、下毛野の始祖
相殿 大物主命・・・三輪山の神
事代主命・・・大国主神の子
しかし、もともとはひとつだったのではないでしょうか。それがヤマト政権の分離政策で本願寺と同じようにふたつに分けられたのではないかと・・・。
石山本願寺は織田信長でさえ、落とせませんでした。しかし、長い闘いの中で、柔軟派と強硬派に分かれていました。豊臣秀吉の時代に入ると、本願寺の法主は柔軟派が引き継ぎ、秀吉は腫物でもさわるようにそっとしておきましたが、徳川家康の時代に入ると、家康は強硬派を東本願寺の法主に立てて、東本願寺と西本願寺に分け、力がひとつに結集しないような分離政策を取り、そして、今日に至っているのです。
二荒山神社も強硬派の日光・二荒山神社と柔軟派の宇都宮・二荒山神社という構図を見て取れないでしょうか。ヤマト政権は毛野の力がひとつに結集することをそれほど怖れていた証だとも取れます。
さて、三輪山伝説が男体山を対象にしているのではないかという元の話に戻りましょう。
日光の戦場ヶ原という地名の伝承の中で、男体山が大蛇となり、赤城山が大ムカデとなって戦ったという話もありますので、男体山が三輪山と同じように蛇神であったと言えます。
しかし、私が三輪山伝説が男体山を対象にしているのではないかと思う一番の根拠は山の品格にあります。
「疫病が止み、国が安らかになる」ほどの品格をもったご神体の山。
三輪山は容姿端麗かもしれませんが、標高は467mしかありません。一方、男体山は標高2,486mで毛野を代表する山であり、関東平野を睥睨するようなどっしりとした存在感は威圧的でさえ、あります。
私は、男体山こそが国津神のボスである大国主神がやどるにふさわしい山だと思うのです。
最後に、会津、上毛野、三輪山の関連性には深いものがあるという記事を見ておきましょう。
「群馬県前橋市朝倉天神山古墳(あさくらてんじんやま)は、副葬品や墳丘の形態からみて、三輪山山麓の古墳と類似の性格をもっているのである。とくに注目されるのは、天神山古墳の後円部墳頂に底部に孔をうがった土師器(はじき)の壺がめぐっており、三輪山山麓の桜井市外山(とび)にある茶臼山(ちゃうすやま)古墳と同じ様相を伝えていることである。
この事実は副葬品や墳丘の形態、さらに祭祀様式が三輪山山麓から直接に毛野の地に伝えられたことを示している。それは在地の豪族が大和の文化を受容したというよりも、大和からの大豪族の移住を考えた方が理解しやすいのである。というのは上毛野氏の祖が、三輪山の神を奉じて東国統治のために毛野の地に赴任した、という伝承と一致するからである。」(志田諄一「東国の底力の源泉」『日本の古代2・列島の地域文化』中央公論社)
「天神山古墳と類似の様相をもつ山梨県東八代郡(ひがしやつしろぐん)銚子塚(ちょうしづか)古墳、福島県会津若松市大塚山(おおつかやま)古墳の分布から四世紀後半の段階で、大和朝廷の勢力が中部・関東を経て東北南部まで達し、朝廷と密接に結びついた強力な地方政治勢力が出現したと考えられている。」(甘粕健「関東」『新版考古学講座』5)
さて、次はいよいよ古代最大の内乱と言われる磐井の乱に入っていきます。
第十九話 大伴金村登場!
さて、527年に起こった磐井の乱について書き始めます。
通説では、九州最大の勢力を誇る地方豪族の磐井氏が中央政府である大和朝廷に対して内乱を起こしたことになっています。
しかし、私の見解は違います。磐井の乱とは初期大和朝廷政権の内部分裂によって起こったものだと考えています。
初期大和朝廷政権とは、応神天皇を総大将として九州から大和に東征したグループです。まず、宇佐氏と宗像氏の両水軍を核として、そこに日向の呉の末裔を擁する蘇我氏の騎馬軍が加わり、最後に九州の抑えとして九州最大の旧勢力である住吉氏が加わったものです。
大和政権が開始すると、その姓を変えます。
宇佐氏 → 大伴氏(連)、物部氏(連)、中臣氏(連)
宗像氏 → 和珥氏(臣)
蘇我氏 → 蘇我氏(臣)
呉の末裔 → 大王、天皇
住吉氏 → 葛城氏(臣)
(大和東征前の姓である宇佐氏や住吉氏は各神社名から想定して私が仮に作った姓であり、通常は使われておりません。)
大和では仁徳天皇以降、その正室を葛城氏(住吉氏)から迎えます。葛城氏(住吉氏)は盟友の安曇氏とともに難波に国際港を築き、朝鮮半島から博多に渡る海外貿易、そして、日本海の西回り航路から下関に入る国内貿易も手に入れて実利を得たことでしょう。その間、大和政権の運営は宇佐氏から派生した大伴氏が掌握し、葛城氏(住吉氏)の動きをコントロールしていたと思われます。
宇佐氏から派生した物部氏と中臣氏、和珥氏(宗像氏)、蘇我氏は東国平定に向います。東国の最大勢力である毛野国を蘇我氏の騎馬軍が威嚇し、国譲り交渉を成就させます。その結果、毛野国をふたつに割って、物部氏が上毛野国に入ります。そして、利根川の河口である常陸国、下總国は中臣氏が抑え、東京湾の奥には蘇我氏が入ります。そして、会津方面には和珥氏(宗像氏)が入ることによって、東国の最大勢力である下毛野国を周りから囲み、モニタリングします。
それと並行して、和珥氏(宗像氏)は応神天皇が後継者にさせたかった宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)を都落ちさせて、その子孫を大切に保護します。そして、蘇我氏は関東平野のような大平原における騎兵の必要性を東国の人々に認識させて、蘇我氏、物部氏が主導する形で本格的に騎兵の育成を始めます。
初期大和朝廷政権はこの体制下で進んで行きます。
応神天皇の後を、葛城氏(住吉氏)から正室を迎え続けた仁徳天皇、履中(りちゅう)天皇、反正(はんぜい)天皇、允恭(いんぎょう)天皇、安康(あんこう)天皇、雄略(ゆうりゃく)天皇、清寧(せいねい)天皇、顕宗(けんそう)天皇、仁賢(にんけん)天皇、、武烈(ぶれつ)天皇と続きます。
大和東征後、全国を統一し、政権を安定させるためには必要な体制と時間であったと思いますが、一方でその政権内に不満が蓄積していったであろうことも容易に想像出来ます。
まず、何と言っても、大和東征の実行部隊は宇佐氏、宗像氏、蘇我氏なのです。その間、住吉氏は九州で後ろを固めて見ていただけで何もしていません。ところが大和を制圧した後、乗り込んで来て葛城氏となり、天皇家に正室を送り込み、難波に国際港を築いて、海外貿易や国内貿易で実利を稼いでいます。
東国平定に回った宇佐氏から派生した物部氏、中臣氏、そして、和珥氏(宗像氏)、蘇我氏から見れば、葛城氏(住吉氏)は最大勢力であるとはいえ、自らの成果を横取りされた形ですので、何とも腹立たしい存在ではなかったでしょうか。
東国で騎兵を育成して、その兵力によって、いつかはその借りを返すと誰しもが思っていたことでしょう。
しかし、葛城氏(住吉氏)の力は半端なく大きいのです。天皇家に正室を送り込み、朝鮮半島の新羅と深い連携関係にあり、そして、九州の最大勢力であります。
その葛城氏(住吉氏)を倒すには時が成熟して、スーパーヒーローが必要となります。
そのスーパーヒーローこそが大伴金村なのです。
源義経が平氏を倒すために生まれて来た男とするならば、大伴金村も葛城氏(住吉氏)を倒すために生まれて来た男であると言えます。それも源義経よりも数倍スケールを大きくして・・・。スターウォーズ風に言うならば、古代日本のジェダイです。
大連になった大伴金村はひとつひとつ外堀を埋めるように強権を発動していきます。
● 506年、仁徳天皇から続いた皇統を廃嫡
仁徳天皇から続いた皇統の最後は武烈天皇です。日本書紀の武烈天皇の段に書かれている「天皇の暴虐」はあまりに異常であり、実際にそのようなことが起こったとは考えられません。後世に、それほど暴虐を尽くしたがために廃嫡せざるを得なかったということを知らしめるためのものではないでしょうか。
この要点は仁徳天皇以降、葛城氏(住吉氏)が正室として送り込んだ皇統の断絶なのです。
大伴金村は応神天皇の五世の孫として、越前から継体天皇を迎え入れます。越前から迎えたということにはなっていますが、私はこの継体天皇こそが和珥氏(宗像氏)が大切に保護し続けた宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)の子孫ではないかと考えています。
● 512年、百済に加羅諸国の四県を割譲
この頃から急速に百済との関係を深くしていきます。これは葛城氏(住吉氏)と連携の深い新羅への牽制を百済に要請しているからでしょう。
一方、新羅も加羅諸国への圧力を強めていきます。新羅にとっては、葛城氏(住吉氏)のいる北部九州と加羅諸国とは囲碁でいう見合いだったのではないでしょうか。「そちらが北部九州を取るなら、こちらは加羅諸国をもらうよ」という感じです。
後に、大伴金村は百済に加羅諸国の四県を割譲したことを責められて失脚しますが、それは磐井の乱を鎮定した以降の話です。
いよいよ葛城氏(住吉氏)の外堀を埋めて、本丸である北部九州の鎮圧に入ります。
しかし、古事記の継体天皇の段に書かれている磐井の乱に関する文章は次の通り、短いものです。
「この御世に、筑紫君石井(いわい)、天皇の命に従はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井(いわい)を殺したまひき。」
日本書紀、筑後国風土記にはもう少し詳しく書かれていますので、次回はそれを見ながら磐井の乱を追っていきましょう。
第二十話 磐井の乱
前回の最後に、古事記に書かれている磐井の乱の文章について述べました。ここで再掲しておきましょう。
「この御世に、筑紫君石井(いわい)、天皇の命に従はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井(いわい)を殺したまひき。」
次に、日本書紀を見てみましょう。長文ですが、日本書紀全訳宮澤瑞穂著より引用します。
「物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が磐井の叛乱を鎮圧
二十一年の六月三日に、近江の毛野臣は兵六万人を率いて任那に行き、新羅に破れた南加羅・とく己呑(とくとこん)を復興して、任那を併合しようとした。ここに、筑紫国造磐井は、ひそかに反逆の心を抱いていたが、実行できないまま年を経ていた。事の成りがたいことを恐れながらも、常に隙をうかががっていた。新羅はこれを知って、ひそかに磐井へ賄賂を送り、毛野臣の軍を防ぎ止めることを勧めた。
そこで磐井は、火(後の肥前・肥後)・豊(後の豊前・豊後)の二国に勢力を張って、朝廷の職務を妨害した。外に対しては海路を遮って、高麗・百済・新羅・任那等の国の年ごとの朝貢船を誘い入れ、内に対しては任那に派遣した毛野臣の軍を遮断して、無礼な言葉で挑発して、
『毛野臣は、今でこそ使者となっているが、昔は俺と一緒に肩を並べて肘を触れ合わせ、同じ飯の釜を食べた仲である。急に使者になったからといって、いまさらお前に俺を従わせることができようか。』
と言った。ついに闘いとなり、ますます驕り高ぶっていた。こうして毛野臣は進路を防がれ、中途で留まってしまった。天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して、
『筑紫の磐井は反逆して、西の国を占有した。今、誰を将軍としたらよかろう。』
と仰せられた。大伴大連等はみな、
『正直で恵み深く、しかも勇敢で兵法に通じているのは、麁鹿火の右に出る者はいません。』
と申し上げた。天皇は、
『よろしい。』
と仰せられた。
・・・・・・・・
天皇は斧(おの)と鉞(まさかり)とを大連に授けて、
『長門以東は、私が統帥しよう。筑紫以西は、お前が治めよ。もっぱら賞罰を行え。仔細は奏上に及ばず。』
と仰せられた。
二十二年の十一月十一日に、大将軍物部大連麁鹿火は、自ら賊軍の首魁磐井と筑紫の御井郡(福岡県久留米市・小郡市・三井郡)で交戦した。軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵の上げる塵埃は戦況を隠すほどであった。両軍は勝機をつかもうと必死に戦い、互いに譲らなかった。そしてついに麁鹿火は磐井を斬り、明確に境界を定めた。
十二月に、筑紫君葛子(磐井の子)は、父の罪に連座して誅殺されることを恐れ、糟屋屯倉(福岡市東区・市内東方)を献上して、死罪を免れることを願った。」
次は筑後国風土記に残された文章です。
「上妻(かみつやめ)の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳(はか)有り。高さ七丈、周(めぐり)六十丈なり。墓田(はかところ)は、南北各々六十丈、東西各々四十丈なり。石人、石楯各々六十枚、交陣(こもごもつら)なりて行(つら)を成し、四面にめぐれり。東北の角に当りて一つの別区あり。号(なづ)けて『衛頭』と曰ふ。(衛頭とは政所なり。)其の中に一石人有り。縦容(おもぶる)に地に立てり。号けて『解部(ときべ)』と曰ふ。前に一人有りて、裸形にして地に伏せり。号けて『偸人(ぬすびと)』と曰ふ。(生けりし時に、猪を偸みき。よりて罪を決められむを疑ふ。)側に石猪四頭有り。『臟物』と号く。(臟物とは盗物なり。)彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間有り。
古老伝えて云へらく、雄大迹天皇のみ世に当りて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風にしたがはず。生平(い)けりし時、預め此の墓を造りき。俄かにして官軍動発(おこ)りて襲はんとする間に、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳(かみつみけ)の県に遁れ、南の山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終(は)てぬ。是に官軍、追い尋(は)ぎて蹤(あと)を失ひき。士怒り泄(や)まずして、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老伝えて云へらく、上妻の県に多く篤疾(あつきやまひ)有るは、蓋し玆に由るか、と。」
磐井の乱として文献に残された文章は上記の古事記、日本書紀、そして、筑後国風土記のこれだけしかないのです。笑っても泣いてもこれ以上のものはありません。
さて、この文章をそのまま真に受けてしまうのか、それとも疑問を呈して新しい解釈を試みるのか。私は後者を取りますが、ポイントは3つあると考えています。
ポイント1. 近江の毛野臣は任那併合に赴いたのか。
ポイント2. 磐井と呼ばれている者は本当は誰なのか。
ポイント3. 糟屋屯倉を献上する意味とは何なのか。
では、ひとつひとつ見ていきましょう。
【ポイント1.近江の毛野臣は任那併合に赴いたのか。】
「近江の毛野臣」という人物名も突如として出て来る風変りな名前です。「近江」とか「毛野」とか言うのは地名ですから、そこの出身者と考えるのが妥当だと思います。さらに言えるのは「近江」も「毛野」も内陸地にあるということです。少なくとも水軍ではありません。
『近江の毛野臣は兵六万人を率いて任那に行き、・・・』とはなっていますが、水軍でなければどうやって海を渡っていくのでしょうか。
何が言いたいかというと、近江の毛野臣の目的は任那併合ではなくて、当初から磐井と闘うために九州へ向かったのではないかということです。
それも軍の実態はその名の通り、東国の毛野出身者だと考えれば、前後の辻褄が合って来ます。東国平定に赴いた物部氏、蘇我氏は物部氏が上毛野国に入り、そして、蘇我氏は東京湾の奥に入り、下毛野国を中心とした東国統治は順調に進み、騎兵の育成にも成功しました。その結果、毛野国の騎兵軍団が出来上がったということではないでしょうか。
その育成に成功した騎兵軍団が「近江の毛野臣」の軍の主力だったと考えるわけです。
【ポイント2.磐井と呼ばれている者は本当は誰なのか。】
筑後国風土記の前半の文章から、磐井の墓は福岡県八女市にある岩戸山古墳であることがわかっています。九州北部で最大の前方後円墳です。
この岩戸山古墳の10キロメートルほど北に行きますと、筑後国一宮である高良大社(こうらたいしゃ)があります。この高良大社の主祭神がちょっと風変りなのです。
正殿 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
左殿 八幡大神(はちまんおおかみ)
右殿 住吉大神(すみよしおおかみ)
高良玉垂命は朝廷から正一位を賜っているものの記紀には登場しておらず、正体が誰であるのかがわかっていないのです。私から見れば、高良玉垂命はこの筑後国において地元の民から厚く信奉されながら、中央に対して反逆したので、その本当の名前を伏せなければならなかったのではないかと思うのです。
もうひとつ珍しいのは高良大社が旧社格の高い神社でありながら、八幡大神と住吉大神が同時に祀られていることです。旧社格の低い、小さな神社ではあちらこちらの神々を受け入れて祀っているところもありますが・・・。これも珍しい。
このことと筑後国風土記に書かれている
『・・・、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳(かみつみけ)の県に遁れ、南の山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終(は)てぬ。・・・』
というところが微妙にリンクしているように思えるのです。どういうことかというと、磐井と名乗る豪族を住吉大神に関連して住吉氏だと考え、『豊前国上膳の県に遁れ』という豊前国は八幡大神の鎮座する宇佐神宮の宇佐氏のところですから、住吉氏は遁れて、一時、宇佐氏に匿われたと考えるわけです。
以前に書きましたが、宇佐神宮の主祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、神功皇后、そして、住吉神社の主祭神は住吉三神に神功皇后が必ず合祀されています。この両者は神功皇后を介して、間接的に繋がっています。
このような縁で、上記のようなことが起こったと考えるわけですが、もうひとつ重要な意味があります。
住吉氏(住吉三神)は安曇氏(綿津見三神)と盟友関係にありました。磐井の乱が生じた時、磐井と名乗るのは住吉氏のことですから、その盟友関係にある安曇氏も当然、住吉氏側に加勢したことでしょう。
磐井の乱が長引いた時、その戦局を打開するために、宇佐氏は住吉氏と安曇氏との間の分裂工作を行ったのではないかと思うのです。それが成功したからこそ、上記のようなことが起こったと思うのです。
もう一歩踏み込んで言えば、その分裂工作を行った宇佐氏とは、あのスーパーヒーローである大伴金村だったのではないでしょうか。
次回は「ポイント3.糟屋屯倉を献上する意味とは何なのか。」について、見ていきたいと思います。
第二十一話 安曇氏追放
前回に引き続き、磐井の乱のポイントの第3番目を見ていきましょう。
【ポイント3. 糟屋屯倉を献上する意味とは何なのか。】
結論から先に言うと、糟屋は安曇氏の拠点だったのです。この拠点を献上するということは、安曇氏がここから追放されたということに他ならないでしょう。ここが安曇氏の拠点であったことについては後ほど住吉氏との生い立ちから述べたいと思いますが、ここは話を先へと進めていきます。
整理すると、磐井の乱とは賊軍となった住吉氏、安曇氏の連合軍に対し、官軍である物部氏、大伴氏、毛野臣の連合軍との間の長い戦いだったということです。しかし、官軍は賊軍を容易に力で落とせなかったために、官軍の大伴氏(大伴金村)が賊軍の住吉氏と秘かに裏交渉をしたのではないかと考えられるのです。その結果、賊軍の住吉氏と安曇氏との間で分裂が起こり、戦いを終結へと導いたのではないかと・・・。
大伴氏と住吉氏との間の妥協の条件とは次のようなものだったのではないでしょうか。
1.住吉氏は政治界から引退する。経済界にはそのまま留まり、水軍を保持出来るが、貿易は国内を主体とする。朝鮮半島の海外貿易においては今後、宗像氏が独占する。
2.賊軍の主犯者を安曇氏とし、その拠点である糟屋を没収する。安曇氏の水軍は解散し、安曇氏は信濃に追放する。
結局、大伴金村は住吉氏を滅亡させることに全力を注ぎ、住吉氏を政治界から引退させることは出来ましたが、国内での経済活動は許し、完全な滅亡へとは追い込めませんでした。それほど、住吉氏の力は強く、反乱者の墓(岩戸山古墳)も存続することになったということでしょう。
森浩一氏は次のように書いています。
「私が今ここで重視しているのは、古墳(岩戸山古墳)の規模とか石人・石馬についてではない。また筑紫君磐井が、戦争のあと殺害されたのではなく、豊前に逃れてそこで生をまっとうしたという伝説でもない。当然すぎることなのだが、磐井戦争の後々までも、この古墳が戦争の勝利者側によって破壊されたり、消滅させられたのではなかったことである。今日でも墓の主磐井が依然としてその土地を自分の墓として占有しつづけているという現実の状態は、重視してよいことであろう。」(森浩一著 古墳とは何か『前方後円墳の世紀 日本の古代5』中央公論社)
その後、住吉氏は大阪の豪商、或いは、博多の豪商として隠然たる力を発揮し続けたのではないでしょうか。
ここで、安曇氏と住吉氏の生い立ちについて見てみましょう。
生田滋氏は「『倭人伝』を港市国家の視点で読む」という興味深い文章を残しています。
「『倭人伝』では帯方郡の使節は対馬、壱岐を経て末盧国(まつらこく)に達する。この末盧国は、その次の『東南陸行』という記述から見て、現在の呼子港(佐賀県唐津市)でなければならない。またここから船に乗らず『陸行』して伊都国にむかうということは、伊都国もしくはその近くに船を安全にとめておく港がないことを意味している。つまり帯方郡の使節の乗船は、悪天候の時など海岸に引き上げておくことができないほどの大型船で、呼子港のような天然の良港を寄港地として必要としたものと考えられる。ついで使者は伊都国に到着するが、・・・、ここで問題になるのは伊都国、奴国、不弥国(ふみこく)の三国だけとなる。
ところが地図を見ると、伊都国の故地とされる福岡県糸島郡前原(まばる)町では雷山(らいざん)川と瑞梅寺(ずいばいじ)川、奴国の故地とされる福岡市(博多区)では那珂(なか)川と御笠(みかさ)川、その東の不弥国の故地とされるところ(糟屋郡粕屋町)では宇美(うみ)川と須恵(すえ)川が相接して流れ、一番接近しているところでは、いずれも七〇〇メートル前後しかはなれていない。・・・
私は少なくとも伊都国、奴国、不弥国の三国は、それぞれこれらの二本の川にはさまれた地域に形成された集落ではなかったかと考えている。そうするとこの三国の海岸は呼子港のような地形をそなえていない。つまり、この三国は基本的には悪天候の時には海岸に引き上げておくことができる程度の小型の船を利用して、朝鮮半島と交渉していたものと思われる。」(生田滋著 アジア市場の港市国家『海をこえての交流 日本の古代3』中央公論社)
伊都国には『一大率(いちたいすい)』という、いわば貿易を管理する総督が駐在しているのですから、貿易の相手国は奴国、不弥国のふたつになります。
そして、森浩一氏の次の文章を見て下さい。
「糟屋については、志賀の白水郎荒雄(あまあらお)の歌の左注に、『滓屋(かすや)郡志賀邑の白水郎荒雄』とあって、万葉のころには志賀島は糟屋郡に属していたのである。この状況がさかのぼるならば、磐井戦争が終わるまでは大陸と往来するための優秀な航海技術を保持した志賀の海人は、磐井の糟屋屯倉に従属していたとみられる。」(森浩一著 考古学から地域をさぐる『列島の地域文化 日本の古代2』中央公論社)
以上を併せて考えると次のようになります。
奴国 → 福岡市博多区 → 住吉神社(住吉三神) → 住吉氏
不弥国 → 糟屋郡粕屋町(志賀島を含む) → 志賀海神社(綿津見三神) → 安曇氏
ですから、もう一度繰り返すと、糟屋屯倉を献上する意味とは、安曇氏を追放したということになります。
さて、磐井の乱が終わり、一件落着したということではありません。いや、視点を変えれば、これが東アジアの大動乱のスタートだったとも言えます。
朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の三つ巴の争いが激しさを増し、さらに新羅は加羅へ侵攻を続けていきます。中国南朝では梁が西梁と陳に分かれ、中国北朝では北魏が西魏と東魏に分かれ、さらにそれぞれが北周と北斉になり、そして、中国全土は隋に統一されていきます。
この大動乱の中で、百済王が仏像経論を献じて来ました(日本書紀では552年)。私には単に仏教が伝わって来たということだけではなく、他に大きな意味があるように思えてなりません。
第二十二話 仏教伝来
継体天皇の治世のときに起こった磐井の乱で、住吉氏(葛城氏)を政界から引退させて以降、日本書紀に現れる政治の重要ポスト歴任者は次のようになっています。
継体天皇(507-531) 大伴金村大連、許勢男人大臣、物部麁鹿火大連
安閑天皇(531-535) 大伴金村大連、物部麁鹿火大連
宣化天皇(535-539) 大伴金村大連、物部麁鹿火大連(逝去)、蘇我稲目宿禰大臣、阿部大麻呂臣大夫
欽明天皇(539-571) 大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稲目宿禰大臣
宣化天皇のときに、物部麁鹿火が逝去し、その後を物部尾輿(おこし)が大連を引き継ぎます。そして、ここで初めて蘇我稲目(いなめ)宿禰大臣の名前が現れ、蘇我氏が台頭してきたことがわかります。私は蘇我氏による東国の騎馬軍の育成が認められ、そして、磐井の乱でその騎馬軍(近江毛野の率いる軍)が活躍して功を奏したからではないかと考えています。
次の欽明天皇が即位すると、政局が動き始めます。
物部尾輿という人物の器は大きかったのどうか・・・。大伴金村と物部麁鹿火が作り上げて来た政治の実績を壊し始めます。物部尾輿は大伴金村が任那四郡を百済に割譲したことを非難し、大伴金村を失脚させます。大伴金村は反論することもなく隠居したままでした。今さら過去の複雑な経緯を説明しても理解出来る人もなく、やるせなさだけだが残ったのかもしれません。
第2次ポエニ戦争(紀元前218-201年)のとき、ローマを震撼させ、「泣く子も黙る」と恐れられたハンニバルを倒したのはスキピオです。このスキピオは晩年、大カトーにスキピオの弟がマケドニア王国に遠征した際の使途不明金を発端にスキピオ弾劾裁判を起こされ、失脚、隠遁に追い込まれました。
私には、このスキピオと大伴金村がダブって見えるのです。長生きをした英雄の晩年は、彼らが救った社会が平和になり、過去の苦しい思いを忘れたその社会が逆に彼らを見放すということにより、そのむごい苦しみに耐えねばならないのでしょうか。
大伴金村が失脚した後、重要ポストに残ったのは物部尾輿と蘇我稲目の二人。
そして、ここで仏教が伝来してくるのです。上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)では538年、日本書紀では552年の説となっています。
教科書ではここから崇仏派の蘇我稲目と排仏派の物部尾輿の争いが起こるということになっていますが、私には仏教だけの問題ではなく、もっと根深いところに争点があるように思います。
それを理解するには激しく変化する東アジアの情勢を見なければなりません。
紀元500年に入った頃の中国は北朝の北魏と南朝の梁に分かれていました。北朝の北魏は鮮卑族の拓跋(たくばつ)氏によって建てられた国で、いわゆる胡族出身者によって支配された国です。一方、南朝の梁は中原を支配した漢民族の文化伝統を引き継ぐ国であり、自他ともに世界最先端の文明開化国であると思っていたことでしょう。
この梁の武帝は仏教を国教とする熱烈な信者でした。現在、日本で最も多い信者数をもつ浄土真宗の教え「正信偈(しょうしんげ)」の中に、この梁の武帝が登場します。
「・・・ 曇鸞(どんらん)大師は北方の北魏という国におられたのですが、その学僧としての名声は、遠く南の人びとにも知られていたのです。
そのころ、南には梁という国が栄えていました。文学や芸術など、文化の面では北方とは比べものにならないほど発展していたのです。梁の皇帝の武帝(五〇二―五四九在位)は、仏教を手厚く保護するとともに、自らも熱心に仏教を学んだ人だったのです。そして、遠く北魏におられる曇鸞大師を深く敬っていたのです。
このあたりのことを、親鸞聖人は、『正信偈』に『本〈ほん〉師〈じ〉曇鸞梁天子〈どんらんりょうてんし〉 常向鸞処〈じょうこうらんしょ〉菩〈ぼ〉薩礼〈さつらい〉』(本師、曇鸞は、梁の天子、常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)と述べておられるわけです。
すなわち『私たちの師である曇鸞大師の場合、南の梁の天子である武帝が、いつも、曇鸞大師がおられる北方に向かって、曇鸞大師を菩薩として敬って拝んでいた』ということです。」(「正信偈の教え」 九州大谷短期大学長 古田和弘著より)
この武帝が亡くなる549年頃、梁の国力は衰退していました。そのとき、東魏の降人候景(こうけい)は乱を起こし、首都健康を落としたのです。
漢民族の伝統文化を引き継ぐ文明開化国が胡族出身者によって国が亡ばされようとしているとなれば、民衆はパニックに陥り、大量の難民が発生したことは容易に想像出来ます。その難民の一部がボートピープルとなって海に出たとすれば、その行き先はどこでしょうか。戦に懲り懲りとしていることを考えれば、戦の可能性が最も少ないと考えられる日本を目指すのは必定です。
揚子江河口から、直接、日本に向かうボートがあったかもしれませんが、当時の航路の安全を考えれば、海岸沿いに東シナ海を北上して、黄海に入り、次は朝鮮半島の西海岸を南下して、日本に向かうと考えるのが妥当ではないでしょうか。
そして、その朝鮮半島の西海岸を支配している国は百済ですが、この頃の百済もまた、新羅に圧迫されて、国力が衰退するばかりでした。日本に何度も援兵を求めています。つまり、一人でも多くの兵士を必要としていたのです。
となれば、百済はボートピープルで渡ってくる人々を兵士として取り込んだのではないでしょうか。しかし、ボートピープルの中には兵士として役に立ちそうもない人もいるわけです。学者や文化人など。
その学者や文化人などを集めて、日本に恩着せがましく送り込み、その見返りとして、朝鮮半島への援兵を求めたと考えることはできないでしょうか。
そのような目で年表を見ると、次のようなことも頷けます。
552年 百済王、仏像経論を献ず(日本書記説)
554年 百済から、五経・易・医博士、採薬師、楽人ら渡来する
この渡来した人々は中国南朝の梁の出身者が大半を占めていたとするならば、日本でその人々を受け入れる側もまた、中国南朝出身者である蘇我氏だったのではないでしょうか。
そして、蘇我氏の場合、渡って来る人々が学者や文化人であることが非常に有効だったと考えられます。蘇我氏のスタッフが見違えるほど充実し、蘇我氏の勢力が強くなるのは当然のことです。もちろん、梁が国教としていた仏教を敬うのも自然の成り行きです。
そして、もうひとつ重要なことがあります。中国南朝の梁の出身者を受け入れることよって、高句麗との関係が濃厚になってくるのです。
第二十三話 中国南朝、高句麗、蘇我氏の関係
私は、仏教伝来(552年)以降から白村江の戦い(663年)までを『激動の時代』として描こうとしています。
近頃、この『激動の時代』と同じような時代があることに気付きました。それはペリーの黒船来航(1853年)以降から第2次世界大戦終結(1945年)までです。まったくよく似ているんです。
その似ているところは、押し寄せて来た異国人から圧倒的な文明の差を見せつけられ、文明開化。その異国人が持つ最先端の文明に追いつこうと、ホップ、ステップなしのジャンプばかりを繰り返し、国家ぐるみの模倣を必死の努力をもって遂行。そして、その最先端の文明国に追いつき、かつ、中国が弱体化する東アジア情勢の中でリーダーになったと錯覚。最後は大国と戦って軍事的大敗を喫してしまうというものです。
日本は過去に2度の軍事的大敗を喫しています。そのひとつが白村江の戦いであり、もうひとつが第2次世界大戦です。どちらもその経過や状況がよく似ているということです。
後者については1945年の敗戦からまだ百年が過ぎていませんから、私たちの記憶に鮮明に残っています。
その後者の記憶を踏まえながら、再び、前者を見て行きましょう。
前回、「第二十二話 仏教伝来」では、中国南朝の梁において、549年に東魏の降人候景が乱を起こし、首都健康を落としたことが原因であると述べました。そのとき大量の難民が発生し、ボートピープルとなって日本にやってくる際に、同時に、仏教もやって来たと考えたわけです。梁が滅ぶのは557年。そして、その後に起こる陳は、隋が中国を完全に統一する589年まで続きますが、もうかつての栄華は留めていません。
中原を支配した漢民族の文化伝統を引き継ぎ、自他ともに世界最先端の文明先進国であった中国南朝の梁は実質的に549年に消滅したと言って良いと思います。
漢民族の栄華が途絶えたのです。アジア諸国に与えた影響は計り知れないほど大きかったでしょう。
このことを理解した上で、高句麗という国を見て行きたいと思います。
これまで私たちは高句麗といえば、朝鮮半島で新羅、百済と対立する三国の内のひとつと考えて来ました。それはその通りなのですが、その一方で、中国東北部において、中国北朝、中国南朝との間で3本の鼎の脚のひとつになっていました。
316年、中国を統一していた西晋が滅び、中国北朝は五胡十六国時代に入り、中国南朝は西晋が南に移って、東晋が起こります。これと同じ頃の313年、高句麗は楽浪郡を滅ぼし、朝鮮半島北部も手中にします。
これによって、中国東北部は鼎の状態になったと考えます。その後、中国北朝のひとつである前燕が大軍をもって高句麗に侵攻し、丸都城(がんとじょう)を奪われるなど多難な時期を迎えますが、高句麗はなんとか切り抜け、中国北朝、そして、中国南朝の国々と冊封を結んで良好な関係を保とうとしています。
この高句麗の歴史の中で、私が最も注目したいのは楽浪郡を滅ぼした際の漢人の処遇です。高句麗は故地に残る多くの漢人に対して緩やかな支配で臨みました。この結果、新たに中国の戦乱を逃れて流入した漢人もこれに加わったのです。この漢人たちは南北に分裂しつつあった中国の正統王朝として、当然のことながら、東晋(中国南朝)を支持したのです。
ここに高句麗と中国南朝との間に太い絆が形成されたと考えます。
そして、もうひとつ、私が最も強調したいことはここにあるのですが、故地楽浪郡に残った漢人の氏族のひとつが蘇我氏の前身だったと考えるのです。
つまり、蘇我氏は漢人の血統をもつと共に、高句麗人の血統ももっているのです。こう考えることによって、日本の中での蘇我氏の一連の動きがわかります。
皆さん、覚えているでしょうか。
「第6話 宇佐氏による大和東征計画」の中で、主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍ですが、大和の盆地を攻略するには騎馬軍が別動隊として必要であり、日向から蘇我騎馬軍を迎え入れたという話。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき (『日本書紀』)
という推古女帝の歌から、”中国南朝の呉の末裔である大君は日向に渡って来て、その側近に蘇我氏がいる”と仮説を立てました。
中国南朝の呉の末裔である大君は、揚子江河口から東に向かって航行し、直接、日向にやって来たのかもしれません。しかし、その側近である蘇我氏は呉の大君に同行してやって来たのではなく、別途、高句麗から楽浪郡に残った漢人の一氏族として日本に渡って来たのではないでしょうか。
そのルートは朝鮮半島の沿岸を南に下って、対馬海峡を渡って博多湾へ。そこはすでに渡来人第一期の弥生人が定着しているので、トラブルを避けて上陸せずに、そのまま玄界灘、響灘と東へ進み、関門海峡を通って、宇佐へ。宇佐は新大陸アメリカのニューヨークと同じような新しい世界への玄関口であり、リクルートセンターでもあります。
ここで、「中国南朝から渡って来た人々が多く住む居留地はどこか」と尋ねれば、「日向」と答えたのではないでしょうか。その頃、まだ高句麗から渡って来る人々はほとんどいなかったので「高句麗から渡って来た人々の住む居留地はどこか」と尋ねても「そんなところはない」と答えたに違いありません。
また、高句麗と蘇我氏とを関連付ける情報には次のようなものがあります。
● 宣化天皇のとき、重要ポストに選ばれた蘇我稲目宿禰大臣の父は蘇我高麗であり、母が高句麗人だったと言われています。
● 蘇我氏が実権を握る頃から、高句麗からの朝貢が始まりました。
● 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺跡と同じです。
● 聖徳太子の仏教の師として、高句麗から恵慈(えじ)が招かれました。
● 蘇我氏の人名の中に「馬」と関連づけるものが見受けられます。『蘇我馬子』、『厩戸皇子(聖徳太子)』
さて、漢民族の文化伝統を守る梁が実質的に消滅し、東アジアのバランスが崩れ始めました。日本は内政だけをやっていればよいという時代ではなく、外交の場でも活躍を期待され始めて来たのです。とはいえ、内政を安定させ、国力を富ませることが先決。実力をつけ始めた蘇我氏の舵取りはいかに。
第二十四話 漢民族王朝復興への期待
蘇我氏について書き始めなくてはならないのですが、まだ自分の中で十分に消化しきれていないというのが正直なところです。まだ迷っているんです。
文献史学者は地道に膨大な資料を読み、これは使える、これは使えないという資料の吟味を丁寧に行い、コツコツと積み上げて論理を組み立てていきます。それは私などには到底真似できないもので、敬意を表します。
では、なぜ、私がこの『歴史の底流』を書き始めたかというと、古事記、日本書記をそれぞれひとつの物語として読んだとき、奥歯に物が挟まったような素朴な疑問を持ったからなのです。その疑問に答えてくれる著書があればよいのですが、私の周りに見当たりません。結局、それは自分の疑問なので、自分で解くしかないのです。その考察を続けていくうちに、ボヤっとしたものが見えて来て、ひょっとしたら歴史の全体像が何かしら自分なりに掴めるのではないかと思ったのです。
古事記では中つ巻の仲哀天皇の段で、それまでの天皇は大和附近で天下を治めていたのですが、突然、仲哀天皇のときに、穴門の豊浦宮(山口県)、筑紫の香椎宮(福岡県)で天下を治めると書かれています。これは明らかに前後が繋がらないのです。この部分を突破口として、古事記のトリックを私なりに解明し、大和東征まで書き進みました。(第三話から第十一話)
そして、もうひとつ、日本書紀で奥歯にものが挟まったような疑問をもつところはこの蘇我氏の部分なのです。この部分で物語が急展開し過ぎると同時に、蘇我氏を朝敵としたその後の政権(天智天皇、天武天皇『藤原氏主導』)によって、都合の良いように書き換えられている可能性が極めて高いように思えるからです。
私が思う疑問の主要なところを挙げると、次の通りです。
● ヤマト政権など目もくれなかった高句麗が突然、ヤマト政権に朝貢を始め出しました。高句麗は中国北朝、中国南朝に次ぐ、第三の大国です。ヤマト政権としてはにわかに信じられなかったのではないでしょうか。
● 臣下であるはずの蘇我馬子が崇峻天皇を東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に弑殺させます。蘇我馬子という実力者がそのような愚行をするでしょうか。
● 品の無い書き方で恐縮ですが、これまで「好きだ、嫌いだ。婚いした、婚いされた。」程度の政治レベルだったものが、急に、冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、天皇記と国記の編纂となるので、政治のレベルが一気に数ランク飛び上がっています。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか。
● 蘇我入鹿は山背大兄王子を斑鳩宮(いかるがのみや)に攻め、王とその一族(聖徳太子の子孫)を滅ぼします。あまりにも凄惨なこの同族間のトラブルは背後に仕掛け人がいるように思えてなりません。
● 中大兄皇子らは大極殿にて蘇我入鹿を殺します(大化の改新の開始)。なぜ、蘇我氏は滅ぼされなければならなかったのでしょうか。
私は、このような個々の疑問はいずれもこの時期に東アジアの勢力バランスが崩壊していく巨大な底辺のうねりの中で起こっていると考えているのです。
では、東アジアの勢力バランスが崩壊していく巨大な底辺のうねりのきっかけは何かというと、中国南朝の梁において549年に東魏の降人候景が乱を起こし、首都健康を落としたことで実質的に梁が消滅したことです。
これによって、中国北朝、中国南朝、高句麗の間の鼎が大きく傾き始めました。
この鼎のバランスが崩れることは、中国北朝や中国南朝にとっては中国全土を統一する絶好の機会ですので、むしろ好ましい方向に考えるかもしれません。
しかし、高句麗にとっては違います。この鼎のバランスが崩れると、まず、中国北朝、或いは、中国南朝が中国全土を統一するでしょうが、その後、高句麗に侵略して来ることは火を見るよりも明らかなので、即、死活問題に繋がるからです。
この危機を乗り越えるために、考えられる限りの全て、ありとあらゆる画策を実行したのが高句麗だったのではないでしょうか。
高句麗は紀元前1世紀頃から、唐・新羅の挟撃に倒される668年まで約700年間存続しました。この時期、東アジアの中でこのように長く存続した国は他にありません。
紀元前1世紀というと前漢の終わり頃ですから、その後、新、後漢、三国時代(魏、呉、蜀)、西晋、南北朝時代と中国の各王朝が政権を交代しても、高句麗は生き続けてきたのです。私はこの時期の東アジアの中で、高句麗こそが最も賢い国だったのではないかと思います。
その国が命運をかけて行う施策案が
『実質的に消滅した梁の代替として、ヤマト政権を中国南朝の漢民族王朝復興国として育成し、東アジアの3本の鼎の脚のひとつにする』
ということだったのではないでしょうか。
この時期のヤマト政権の内部を見ると、幸運にも蘇我氏が力を付けて来ています。蘇我氏は漢人の血統をもつと共に、高句麗人の血統ももっています。
よって、この使い易い蘇我氏を積極的に援助し、人的に物質的に力を注ぎ込めば、梁の代替として、東アジアの3本の鼎の脚のひとつになるような漢民族王朝を復興することも不可能ではないと踏んだのではないでしょうか。もちろん、それは薄氷を踏む思いでしょう。でも、他に良策が無ければそれに賭ける以外にありません。
さて、蘇我氏はその外からの期待にどのように応えようとしたのでしょうか。
- 実質的に亡国となった梁から大量に流れ込んでくるボートピープル。
- 漢民族王朝の復興国として期待をかけ、援助を惜しまない高句麗。
ヤマト政権が樹立して以来、これまで経験したことのない初めて受ける強い、強い外圧です。
これから私が書こうとする蘇我氏は、圧倒的に高い文明先進国から怒涛のように流れ込んでくる知識や技術を貪欲に吸収し、速やかに先進国の仲間入りを果たし、外からの期待に応えようとする勇姿です。それはキラキラと光り輝き、新しい未知なる日本の土台を築いたものです。
しかし、それと同時に、光が輝けば輝くほど、後ろに延びる陰は黒く、黒く、深淵のように深くなっていったことも忘れてはいけません。
このように東アジア全体のバックグラウンドの流れを知った中で、『第二十二話 仏教伝来』の後まで戻ります。通常、日本書記の流れを基にすると、欽明天皇の治世のとき、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿の争いから話を展開することになります。
でも、どうでしょう。それらは教科書や多くの学者の著書に詳細に書かれていますし、私がそれを繰り返したところで冗長になるだけです。また、先程、お話しましたように、日本書記に書かれていることが後の政権によって、その事実を大きく書き換えられている可能性が高いと私自身が感じています。
そこで一旦、日本書記の話の流れから離れて、蘇我氏政権時に行ったその実績にスポットを当ててみようと思います。その後、日本書記から疑問となるポイント、ポイントをピックアップして検討し、私なりに蘇我氏政権とはどのようなものであったかを浮き彫りにしたいと思います。
第二十五話 冠位十二階、憲法十七条、国記編纂
蘇我氏の実績として、3本の柱を掲げるとするならば、次の通りでしょう。
1.仏教の流布
2.冠位十二階、憲法十七条、国記編纂
3.遣隋使派遣
まず、1.ですが、蘇我氏が頭角を現す仏教伝来について、日本書記を見てみましょう。
「聖明王が仏教を伝える
十月に、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等(せいほうきしだちそちぬりしちけいら)を派遣して、釈迦仏の金銅像一体・幡蓋(ばんがい)若干・経論若干巻を献上した。別に上表して、仏法の流布と礼拝の功徳を称えて、
『この法は、諸法の中でも最も優れています。しかし理解や入門は難しく、周公・孔子でさえ理解することができません。
この法は、無限の幸福をもたらし、無上の菩提を成就します。たとえば、人が意のままになる宝を用いると、すべての物事が願い通りになるように、この妙法の宝も思いのままなのです。祈願は思うように達せられ、充足しないことなどはありません。・・・』
と申し上げた。
この日に、(欽明)天皇は上表を聞き終えると、歓喜ほとばしるほどの感激をおぼえられた。使者に詔して、
『私は今までに、このような妙法は聞いたことがない。しかしながら、一人で決めるわけにはいかない。』
と仰せられた。すぐに群臣それぞれに尋ねて、
『西蕃(せいばん)が献上した仏像の容貌は、誠に麗しく、きらきら輝いている。今までまったく見たことがないものだ。ところで、これを礼拝すべきかどうか、意見を述べよ。』
と仰せられた。蘇我大臣稲目宿禰は奏上して、
『西蕃諸国は、みなこぞって礼拝しています。豊秋日本(とよあきづやまと)だけが背くわけにはいきません。』
と申し上げた。物部大連尾輿・中臣連鎌子は同じく奏上して、
『我が国家の王は、常に天地の百八十神(ももあまりやそのかみ)を、四季を通してお祭りしてこられました。今、それを改めて蕃神を礼拝なされば、おそらくは国神(くにつかみ)の怒りを受けるでしょう。』
と申し上げた。天皇は、
『それならば、願っている稲目宿禰にこの仏像を授け、試みに礼拝させてみよう。』
と仰せられた。・・・」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
その後、国に疫病が流行し、仏像棄却などの紆余曲折がありますが、仏教は徐々に流布していきます。
欽明天皇が、『・・・歓喜ほとばしるほど感激をおぼえられた・・・』、或いは、『・・・仏像の容貌は、誠に麗しく、きらきら輝いている。今までまったく見たことがないものだ。・・・』と、この新しい文化に魅せられたことが、これから怒涛のように打ち寄せる文明開化の始まりであるように思います。
そして、それを蘇我大臣稲目宿禰に託したことが蘇我氏繁栄のきっかけだったわけです。欽明天皇は蘇我稲目の娘である堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を召され、堅塩姫は31代用明天皇、33代推古天皇を生み、小姉君は32代崇峻天皇を生みました。
その時代が蘇我氏を必要としたのです。
次に、蘇我氏の実績の2番目の柱として、冠位十二階、憲法十七条、国記編纂を見てみましょう。
前回、『第二十四話 漢民族王朝復興への期待』の中で、約700年も存続した賢い国である高句麗が、
『実質的に消滅した梁の代替として、ヤマト政権を中国南朝の漢民族王朝復興国として育成し、東アジアの3本の鼎の脚のひとつにする』
という施策案をもっていたのではないかという話をしました。
では、手っ取り早く、ヤマト政権を中国南朝の漢民族王朝復興国に育成するにはどのようにすればよいかを考えた場合、梁を逃れて来て、蘇我氏の庇護下に入った元梁の官人に、『冠位十二階、憲法十七条、国記編纂』という制度を立案させるという方法はいかにもあり得ることです。
この三つの制度は、文明国の仲間入りという最低条件に見合うと思いますし、何よりも如何にも中国人らしい!
冠位十二階の制度は、仁義礼智信という儒教の五常に徳を加えて、それらを大、小にして十二階にしたものです。それぞれの位冠には色が決められていました。これによって、外交使節の威儀を整えることが出来ます。私的には、目をつぶると、チャン・イーモウ監督の映画で表現される極彩色の映像が見えてしまいます。中国人だなあみたいな感じです。
次に、憲法十七条の制度ですが、これもまた、中国人らしい。春秋戦国時代を経て、諸子百家を生み出した国ですから、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという論理がとにかく大切です。国を治めるにはその基本となる『憲法十七条の制度』が必要なのは当然のことです。
第一条 和を以て貴しとし、逆らい背くことのないようにせよ。
第二条 篤く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧である。
第三条 詔を承ったならば、必ず謹んで従え。
第四条 群卿・百官は、礼をもって根本とせよ。
第五条 食の貪りをやめ、財欲を棄てて、公明に訴訟を裁定せよ。
第六条 悪を懲らし善を勧めることは、古来からの良い教えである。
第七条 人にはそれぞれの任務がある。任用に乱れがあってはならない。
第八条 群卿・百官は早く出仕して遅く退出せよ。
第九条 信は道義の根本である。すべてのことに信がなければならない。
第十条 心に怒りを絶ち、顔に憤りを表さず、人が自分と違うからといって、怒ってはならない。
第十一条 官人の功績・過失を明らかにみて、それぞれに応じた賞罰を行え。
第十二条 国司・国造は、人民から搾取してはならない。
第十三条 諸々の官に任ぜられた者はみな、それぞれの職掌をよく理解せよ。
第十四条 群臣・百官は、嫉妬してはならない。
第十五条 私心を去って公事に従うことが、臣としての道である。
第十六条 民を使うには時節を考慮せよというのは、古来からの良い教えである。
第十七条 物事を、単独で決めてはならない。必ず衆人と議論せよ。
誠にもって、ごもっともな内容です。意地悪い言い方をするならば、仏教を国教とし、滅びるはずのない梁が滅びたのは上記の十七条が遂行されていなかったからだということになります。
ただ、忘れてはならないのは文明国の仲間入りを果たそうと努力している国に、高句麗は僧恵慈(えじ)を聖徳太子の師として送り、日本国の天皇が仏像をお造りになると聞けば、黄金三百両を貢上しているのです。
最後に、国記編纂ですが、中国人にとっては文明国として当たり前のことだと思っていることでしょう。
消滅した中国南朝の梁からボートピープルとなって渡って来る難民を自らの勢力に引き取り、高句麗から東アジアの鼎の脚のひとつになって欲しいと期待される蘇我氏は着実に力を付けて来ました。
一方、中国本土では隋が中国全土を統一してしまいました。さて、これからが高句麗の目論見通りに蘇我氏率いる日本が東アジアの鼎の脚のひとつになれるかを試されるときです。
第二十六話 遣隋使派遣
日本書記の中で、冠位十二階、憲法十七条のそれぞれの制定は、聖徳太子が行ったことになっています。いかに聖徳太子が偉大な人物であったということを差し引いても、私には冠位十二階、憲法十七条が国内の政治の流れの中の必然性として制定されたようには見えないのです。
それらが制定されるには、それらが制定されなければならない歴史の必然性があるはずです。
『第二十三話 中国南朝、高句麗、蘇我氏の関係』の冒頭で、蘇我氏の『激動の時代』はペリーの黒船来航(1853年)以降から第2次世界大戦終結(1945年)までとよく似ていると書きました。つまり、幕末から明治維新が皮切りです。
明治時代、文明開化が叫ばれ、富国強兵を強力に推進していった背景には、中国が弱体化し、西欧列強に干渉され、国土が割譲されていく姿を見て、いずれ日本も同じように西欧列強から侵略されるのではないかという強い危機感がありました。
蘇我氏の時代でいうと、それは中国北方を支配していた胡族がいよいよ日本にも侵略してくるという強い危機感があったのではないでしょうか。五胡十六国の時代に中国北朝は胡族の国によって侵略され、次に、中国南朝でも漢民族の文化の流れを引き継いだ梁が滅び、最後には胡族のひとつである鮮卑族出身の楊氏の興した隋によって侵略後、中国は統一されたのです。
いよいよ胡族が日本にも押し寄せて来るという危機感が強まるのは必然です。
だからこそ、蘇我氏は消滅した梁からボートピープルとなって流れ込んでくる難民を受け入れ、高句麗からの支援も受けて近代化を図ったのではないでしょうか。
明治時代の『鹿鳴館外交』が、蘇我氏の時代の『冠位十二階の制定』であり、これによって外交使節の威儀を整えます。
そして、明治時代の『大日本帝国憲法の制定』が、蘇我氏の時代の『憲法十七条の制定』に当たり、文明国であるという誇りを見せつけたのではないでしょうか。
いよいよ胡族の支配する国、隋と直接的に対峙しなければならなくなった時、蘇我氏が行ったことが遣隋使の派遣でした。それまで日本は一度も胡族の支配する国に使者を送ったことはありません。
この遣隋使の派遣の真意は、高句麗の目論見通り、これまで中国北朝、中国南朝、高句麗との間にあった鼎のバランスが中国が統一されることによって崩壊した今、次は、中国、日本、高句麗の間に新しい鼎を構築することにあります。日本は小国ではなく、大国でなければならないのです。その大国のレベルに到達しているのかどうかが問われることになります。
603年 冠位十二階の制定
604年 憲法十七条の制定
607年 遣隋使(小野妹子)の派遣
これを見ても、日本が大国であることをイメージさせる、まさに即席のハッタリ外交だと思いますが、これが通用するかどうか。
隋書倭国伝には次のように記されています。
「大業三年(607)、其の王多利思比狐(たりしほこ)、使を遣はして朝貢す。使者曰はく、『海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。故に朝拝を遣はし、あはせて沙門数十人来たりて仏法を学ぶ』と。その国書に曰はく、
『日(ひ)出(い)ずる処の天子、書を日(ひ)没(しず)む処の天子に致(おく)る、恙(つつが)なきや云々』
と。
帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂ひて曰はく、『蛮夷の書、礼無きもの有り、また以って聞こゆることなかれ』と。」(隋書倭国伝)
中国は常に中華であり、周辺国は東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)の野蛮な国であるとして蔑視して来ました。その東夷の国である日本の国書に『日(ひ)没(しず)む処の天子』と言われたのでは隋の煬帝が怒るのも無理はないです。
しかし、この堂々とした文面を見て、皆さんはどのように感じるでしょうか。
このような文面は日本に永らく住んでいて、中国を常に畏怖している人には書けない文章だと思いませんか。この文章を書くには元々中国に住んでいて、その誇りをもっていた人物が日本に渡って来て、その祖国に対等な意識の中で練り上げたものではないでしょうか。つまり、この文面を作成したのは梁からボートピープルとなって渡って来た人物ではないかと思うのです。
もし、そうであるとしたら、その人物はこの文面を作成した後、
『我、(倭国にて)蘇り。』(蘇我氏の語源???)
と叫んだとしてもおかしくないのです。
さて、隋の煬帝が日本を取るに足らない小国だと思ったのならば、この国書を鼻で笑って無視していればいいのです。しかし、そうはなりませんでした。帰国する小野妹子とともに文林郎裴世清(はいせいせい)を遣わしたのです。
『実際に倭国が、梁からの移民を受け入れて中国南朝の後継として復興し、強大な大国になっているのかどうかを見て来い。』
ということだったのではないでしょうか。
そして、一行は日本へとやって来ました。日本書記には次のように書かれています。
「八月三日に、隋の客は京に入った。この日に、飾馬七十匹を遣わして隋の客を海石榴市の巷で迎えた。・・・
十二日に、隋の客を朝廷に召して、使者の趣旨を奏上させた。この時、阿部鳥臣・物部依網連抱の二人を、客の案内役とした。使者は隋の進物を庭上に置いた。
使者裴世清は、自ら書簡を持って再拝を二度重ねて、立って使者の趣旨を言上した。その書には、
『皇帝は、倭皇への挨拶を述べる。使者長吏大礼蘇因高(ちょうりだいらいそいんこう)が訪れて、倭皇の考えを詳しく伝えた。私は謹んで天命を受け、天下に君臨した。徳を広めて、人々に及ぼそうと思っている。慈(いつくし)しみ育(はぐく)む心は、遠近による隔てはない。倭皇はひとり海のかなたにいて、民衆を愛育し、国内は安楽で人々の風習も睦まじく、志が深く至誠の心があり、遠くからはるばる朝貢してきたということを知った。その美しい忠誠心を、私は嬉しく思う。
この頃は、ようやく暖かくなってきた。私も変わりはない。そこで鴻臚(こうろ)寺の接待役裴世清(はいせいせい)等を派遣して、往訪の意を述べ、併(あわ)せて別に物を送る。』
とあった。
続いて阿部臣が進み出て、その書を受け取ってさらに前へ進んだ。大伴くいの連が迎え出て書を受け取り、大門の前の机上に置いて奏上し、それが終わって退出した。この時、皇子・諸王・諸臣は、みな金の挿頭(かざし)を頭に挿した。また、衣服はすべて錦(にしき)・紫・ぬいもの・織(おりもの)と五色の綾羅[あやうすはた](模様のある薄い絹織物)とを用いた【一説によると、服の色はみなそれぞれの冠の色を用いたという】。
十六日に、隋の客等を朝廷で饗応(きょうおう)された。
九月五日に客等を難波大郡(なにわのおおこおり)で饗応された。
十一日に、裴世清は帰国した。そこで再び、小野妹子臣を大使とし、吉士雄成(きしのおなり)を小使とし、福利(ふくり)を通訳として、隋の客に添えて派遣した。天皇は、隋の皇帝に訪問の挨拶を表し、
『東の天皇が、敬(つつし)みて西の皇帝に申し上げます。使者鴻臚寺の接待役裴世清等が来て、長年の思いがまさに解けました。季秋[きしゅう](九月)となり、ようやく涼しくなってきましたが、ご清祥のことと存じます。こちらは変わりはございません。
このたび、大礼蘇因高(だいらいそいんこう)・大礼乎那利(だいらいおなり)等を派遣いたします。簡単ではありますが、謹んでご挨拶申し上げます。敬具』
といった。」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
この裴世清への対応は、冠位十二階の制定の効果も奏して、外交上の威儀を見せつけることが出来たのではないでしょうか。即席のハッタリ外交は一応成功だったと思います。
第二十七話 隋滅亡
私が使っている高校時代の教科書のひとつである歴史年表には、次のように記されています。
607年7月 小野妹子を隋に派遣、「日出ずる処の天子」の国書を奉呈する
608年4月 小野妹子、隋使裴世清を伴い帰国する
隋の煬帝は裴世清から日本の状況を聞いた後も、高句麗遠征遂行の迷いはなかったと思います。ということは日本のハッタリ外交が隋への牽制にならず、高句麗遠征の抑止にならなかったわけです。しかし、日本にとっては外交上の威儀を整えただけでも大国に近付いている自信に繋がったのではないでしょうか。それが過信だったとしても・・・。
一方、隋の煬帝は帝位について以来(604)、次々と大規模な事業を行いました。洛陽の首都建設。黄河と揚子江をつなぐ大運河建設。この運河づくりには河南などの民、百余万を動員しましたが、役丁の死する者、十のうち四、五、その死骸を乗せる車が延々につづいたと言います。わずか数年で完成させたといいますから、その大土木工事の凄まじさは想像を絶します。
そして、611年、煬帝は高句麗征討の詔を発しました。
「(大業七年、611)帝、去歳(きょさい)より高麗を討たんと謀り、詔(みことのり)して山東に府を置き、馬を養ひ、以て軍役に供(そな)へしむ。また民夫を発して米を運び、濾河(ろか)、懐遠(くわいゑん)の二鎮(にちん)に積ましむ。車、牛の往く者、皆、返(かえ)らず。士卒の死亡するもの半(なか)ばを過ぐ。耕し稼(う)うるに時を失ひ、田畑を多く荒(あ)る。之に加ふるに飢饉し、穀(たつもの)の価(あたい)ははなはだ高し。東北の辺(あたり)もっとも甚だしく、斗米(とべい)の直(あたひ)は数百銭。運ばるる米、或いは粗悪なれば、民をして買ひ米をして之を償はしむ。また鹿車夫六(ろくしゃふろく)十余万を発し、二人共(ににんとも)に米三石(こめさんせき)を推す。道途(みち)は険しく遠ければ、糒(ほしいひ)の糧(かて)に充(あ)つるに足らず。鎮(ちん)に至れば輸(おく)るべき無し。皆、罪を懼(おそ)れて亡命す。重ぬるに官吏は貪(よくば)り残(むさぼ)り、因縁(いんえん)して侵(おか)し漁(あさ)るを以てす。百姓は困窮し、財力、倶(とも)に尽き、安(とどま)り居れば則ち凍(こど)えううるに勝(た)へず、死期(しき)交(こもごも)に急(はや)し。脅(おびやか)かし掠(かすめと)れば則ちなほ生(せい)を延ぶるを得(う)。是(ここ)においてはじめて相集(あいあつ)まりて群盗を為す。」(資治通鑑)
この疲れた民に、高句麗遠征のための軍役や使役の命が下りました。
「隋の遠征軍は左十二軍、右十二軍の二十四軍からなり、・・・。兵は全体で113万3800人である・・・。食糧を運ぶ、いわゆる輜重兵(しちょうへい)はそれに倍したという。」(梅原猛著「聖徳太子Ⅲ 東アジアの嵐の中で」)
もうここまで書けば、結果はわかるのではないでしょうか。これだけの疲れた大軍、短期間に攻め切れば勝利はありますが、長引けば兵站が破綻します。そして、高句麗の冬は寒い。
611年から614年にかけて行われた3度の高句麗遠征は失敗しました。そして、618年、煬帝は殺され、隋は滅亡しました。
この時期、日本では最も平和なときを過ごしていました。蘇我氏の全盛期であったと言えます。
「二十年(612)の正月七日に、群卿に酒を用意し、宴会を催された。この日に大臣(蘇我馬子)は酒杯を献じて歌を詠んだ。
歌謡一〇二 やすみしし 我が大君(おおきみ)の 隠(かく)ります 天(あま)の八十陰(やそかげ) 出(い)で立たす 御空(みそら)を見れば
万代(よろづよ)に かくしもがも 千代(ちよ)にも かくしもがも 畏(かしこ)みて 仕え奉らん
拝(おろが)みて 仕え奉らん 歌ずきまつる
(やすみしし)我が大君がお隠りになる広大な宮殿、またお出ましになって御空を見ますと、まことに立派で、千代も万代もこのようにあってほしいものです。私どもは畏(かしこ)み崇(あが)めて、お仕え申し上げましょう。今私は、祝歌を献上いたします。
天皇(推古女帝)は、これに和されて歌を詠まれた。
歌謡一〇三 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀(たち)ならば 呉(くれ)の真刀(まさい) 諾(うべ)しかも
蘇我の子らを 大君(おおきみ)の 使はすらしき
真蘇我よ。蘇我一族の人々は、馬でいえばあの有名な日向の国の馬、太刀でいえばあの有名な呉国の真刀だ。もっともなことだ。蘇我一族の人々を、大君がお使いになるのは。」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
このとき、推古女帝 60歳、 蘇我馬子 63歳、 聖徳太子 39歳 です。この3人の固いタッグが蘇我氏の全盛期を作ったのだと考えます。それはその後の政治の主流が仏教と律令制度であることを見据えた上で、役割分担が明確だったからではないでしょうか。ヨーロッパ風に言うと、
国王 ・・・ 推古女帝、 法王 ・・・ 聖徳太子、 宰相 ・・・ 蘇我馬子
聖徳太子の伝記のひとつは「上宮聖徳法王帝説」と呼ばれていますから、聖徳太子を法王と言ってもおかしくありません。
私は聖徳太子は仏教に専念して政治にはあまり手を出していないのではないかと考えているのです。政治を行ったのは宰相である蘇我馬子です。ですから、冠位十二階の制定、憲法十七条の制定なども蘇我馬子が主導したのではないでしょうか。そして、国王である聡明な推古女帝はその全体のバランスを取るという具合です。
しかし、日本書記には、冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、そして、仏教もすべて聖徳太子が行ったことになっています。逆に、蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして崇峻天皇を殺した反逆者として描かれています。
なぜ、このように日本書記に描かれているのかというと、後に起こる大化の改新におけるクーデターの正統性を主張するためだと私は考えています。
正しいのは新しい政治も仏教も行った天才の聖徳太子であるとしますが、その子である山背大兄王は蘇我入鹿に攻められ、一族全員が滅ばされました。一方、悪いのは崇峻天皇を殺した蘇我馬子であり、山背大兄王の一族を全滅させた蘇我馬子の子孫である蘇我入鹿です。
聖徳太子、山背大兄王の系列は正。蘇我馬子、蝦夷、入鹿の系列は悪。
だから、大化の改新で、悪い蘇我入鹿を殺し、正しい聖徳太子の遺志を引き継ぐ中大兄皇子や中臣鎌足が正統であるとしているのです。少なくとも私にはそのように見えます。
蘇我氏をテーマに研究された学者の著書をいくつか拝見しましたが、文献資料をそのまま事実として受け止めようとすればするほど迷宮に入っていくように思います。帯に短し、たすきに長しなのです。こちらを立てれば、あちらが立たないということの繰り返しです。各細部を掘り下げていくと、腑に落ちないことが多い、いや、あえて意図的にわからないようにしているのだと思います。
蘇我氏の問題を解くには、ルービックキューブを解くようなことをしなければいけないのではないでしょうか。ルービックキューブの6面のうち、ひとつひとつの面の色を順番に揃えて行ったとしても残りの面の色は同じになりません。それを解くには一見各面がばらばらになっているように見えても最後には6面すべての色を同時に揃えるというようなやり方をしないといけないのだと思います。
蘇我氏こそが日本を文明国に引き上げた立役者であるということは間違いないと思いますが、その全盛時代も有能な3人が亡くなることによって陰りを生じます。
622年 聖徳太子、斑鳩宮に没する(49歳)
626年 蘇我馬子没し、子蝦夷が大臣となる
628年 推古天皇没す。皇位継承をめぐって争い、蝦夷が境部摩理勢を殺す。
第二十八話 蘇我氏の反対勢力
蘇我氏の反対勢力として、まず挙げるのは住吉氏です。
皆さんは「えっ」と思われるかもしれません。住吉氏は磐井の乱に破れて、政治から引退させられたはず・・・。以前、住吉氏は新羅と強い連携があると書きました。新羅という国が存在する限り、住吉氏の国内での活動も続くと考えた方がいいと思います。政治の表舞台からは遠ざかっているとはいえ、地下でしっかりと力を蓄えていると考えています。
では、日本書記の蘇我馬子が崇峻天皇を殺した部分を見てみましょう。
「蘇我馬子が天皇を弑殺(しさつ)
五年の十月四日に、山猪(やまのい)を献上する者がいた。天皇は猪を指差し、詔(みことのり)して、
『いつか、この猪の頸を斬るように、私の好まぬ人を斬りたいものだ。』
と仰せられた。多くの武器を準備している様子は、常と違っていた。
十日に、蘇我馬子宿禰は、天皇の詔の内容を聞いて、自分を嫌っておられるのではないかと懼れ、郎党の者を集めて天皇を弑殺することを謀った。・・・
十一月三日に、馬子宿禰は群臣に偽って、
『今日、東国の調(みつぎ)を進上する。』
と言った。そして、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に天皇を弑殺させた。【ある本によると、東漢直駒は東漢直磐井(やまとのあやのあたいいわい)の子であるという。】・・・」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
このときの国際状況を年表で見てみましょう。
589年 隋の中国統一なる
591年 任那再建をはかり、遠征軍を編成したが、渡海せずに終る
592年 蘇我馬子、東漢直駒をして崇峻天皇を殺す。推古天皇即位
年表ではそのように書かれていますが、もう少し正確に言うと、遠征軍は筑紫にまで派遣されて渡海目前だったのですが、崇峻天皇が殺されたため、遠征を中止したのです。
もう一度、じっくりと国際情勢を考えてみましょう。
589年に隋はとうとう中国統一を果たしました。これを牽制して、高句麗と日本(蘇我馬子主導)は連携して新羅を討つことを図ったのではないでしょうか。もし、新羅を討てば、中国東北部、朝鮮半島、日本までが高句麗、百済、日本の連合国の管理下に入ります。一大勢力となるのです。
このような大切な時期に、蘇我馬子はいくら天皇から嫌われているからと言っても天皇を殺させるでしょうか。あり得ません。
では、なぜ、崇峻天皇は殺されたのでしょうか。
私は日本書記の
【ある本によると、東漢直駒は東漢直磐井の子であるという。】
という部分に注目しているのです。特に『磐井の子である』というところです。私が日本書記を読んで記憶にある限り、『磐井』の文字が出て来るのは磐井の乱とこの部分だけなのです。
つまり、東漢直駒は住吉氏から送られた刺客だったと考えた方が納得がいくのです。この国際情勢で最も危機的であるのは新羅です。この危機を打開するための謀略。新羅が住吉氏を使って仕掛けた策です。
蘇我馬子こそは虚を突かれて、『しまった』と思ったのではないでしょうか。
次に、蘇我氏の反対勢力として挙げるのは、三輪氏、中臣氏、物部氏です。
この三者は崇仏派の蘇我氏に対して、排仏派として登場します。
敏達(びたつ)天皇崩御の際(585年)、どうみても思慮が深いとは言えない穴穂部皇子(あなほべのみこ)の浅はかな行動を利用して、蘇我馬子はこの三者をひとつひとつ討て行きます。
穴穂部皇子は炊屋姫皇后[かしきやひめのきさき](敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、殯宮(もがりのみや)に入ろうとします。敏達天皇の寵臣三輪君逆(みわのきみさかう)は殯宮の門を閉ざして、中へは入れませんでした。これを無礼だとして、穴穂部皇子は物部守屋(もののべのもりや)大連を遣わして、三輪君逆を斬ってしまいます。
用明天皇が病気になり、『仏に帰依しようと思う』という議を、中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は阻止しようと策を練りますが、途中で殺されてしまいます。
そして、最後に、蘇我馬子宿禰大臣は穴穂部皇子を誅殺し、物部守屋大連の一族を攻めて、完全に滅ぼしてしまいます。
物部氏は滅亡しますが、中臣氏は後に巻き返し、中臣鎌足を擁して大化の改新で蘇我氏を滅ぼすのはご存知の通り。
さて、ここで私が最も着目しているのは敏達天皇の寵臣として登場する三輪氏なのです。
三輪氏とはあの『第十八話 三輪山伝説?』で書いた大物主大神を奉じる氏族です。代表的な国津神のひとつ。大和東征以来、登場する氏族はすべて天津神を奉じていたのですが、ここに来て、歴史の表舞台に国津神を奉じる氏族が登場するのです。それも『天皇の寵臣』として登場するところが気になります。
これは何を意味しているのでしょうか。次回は三輪氏について、大胆な考察をしていきたいと思います。
第二十九話 鍵を握る三輪氏
三輪氏とは何者なのか?
私は前回、「三輪氏とはあの『第十八話 三輪山伝説?』で書いた大物主大神を奉じる氏族です。代表的な国津神のひとつ。大和東征以来、登場する氏族はすべて天津神を奉じていたのですが、ここに来て、歴史の表舞台に国津神を奉じる氏族が登場するのです。それも『天皇の寵臣』として登場するところが気になります。」と書きました。
もう一度、『第十八話 三輪山伝説?』に戻ってみましょう。
架空の天皇と考えている崇神天皇の段にある三輪山伝説は東国の話ではないか!? それも、ズバリ、下毛野の二荒山(男体山)の話を書き換えたものではないかと書いたのです。
とすると、実際の大和にある三輪山と下毛野の二荒山(男体山)とはどのような関係と考えればよいのでしょうか。
私は下毛野の二荒山(男体山)が本体で、大和の三輪山はその出先機関と考えればよいのではないかと考えています。いわば、実際の三輪山は大和の朝廷内でロビー活動するための仮の宿です。
この展開で行くと、三輪氏は東国の下毛野出身ということになります。
下毛野と言えば、天津神(物部氏、中臣氏、宗像氏、蘇我氏)が東国平定に赴いた時、それに敵対する国津神の大本山でした。それが敏達天皇の寵臣となるなんて、或いは、皇室(大王家)の古墳群に極めて近い三輪山でロビー活動をすることなんてあり得るのかと考えられるかもしれません。
そのヒントになるのは東国の宗像氏。
また、エーッと叫び声が上がると思います。日本書記の中で蘇我氏が活躍しているとき、宗像氏なんてまったく出て来ませんから。
『第十五話 葛城氏(住吉氏)打倒への準備』のところで、
「宗像氏の役割 東国平定と、宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)の子孫の保護」
と書きました。
また、『第十六話 国譲り神話と東国平定』のところでは
「天津神と言われる九州水軍はこの毛野の平定に照準を合わせます。鬼怒川の本流である利根川の河口の左岸の常陸国(鹿島神宮)、そして、右岸の下總国(香取神宮)を中臣氏が抑えます。言わば、海上封鎖をしたことになります。蘇我氏は東京湾の奥に入っていますから、念のため武蔵国を流れる荒川河口をウオッチングしていたのではないでしょうか。
この状況の中で、毛野国の統率者と九州水軍の代表者の間で国譲りの交渉が行われ、成就しました。
国譲りの成就後、毛野国を下毛野国と上毛野国に分けて、上毛野国に物部氏が入ります。これによって下毛野(下野)と科野(信濃)は分断されたことになります。さらに、下毛野(下野)は上毛野(上野)に入った物部氏、常陸を制圧している中臣氏、そして、会津地域を抑えている宗像氏の三方からモニタリングされることになり、東国の統治体制が完了したと言えるでしょう。」
とも書きました。
磐井の乱以降、大伴氏が失脚していく中で、物部氏、中臣氏、蘇我氏は中央政府である大和に進出して行きますが、宗像氏だけは東国に留まっています。私はここに注目したいのです。宗像氏が東国に留まって、東国統治を安定させているからこそ、物部氏、中臣氏、蘇我氏は中央へ進出できたのだと。
その宗像氏が東国統治で最も気を遣うのは下毛野国との関係ではないでしょうか。
ここでもう一度、下毛野国の一之宮である日光・二荒山神社の祭神を見てみましょう。
神体山 祭神
男体山(二荒山) 大己貴命(おおなむちのみこと)・・・大国主神
女峯山 田心姫命(たごりひめのみこと)・・・宗像三女神の中の一柱
太郎山 味すき高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
ここに宗像三女神の一柱である田心姫命が入っているではありませんか。つまり、宗像氏と三輪氏とは密接な連携関係にあったと考えられるのではないでしょうか。
後の平安時代末期、源頼朝は平氏の勢力が強い伊豆の北条氏の下に幽閉されますが、北条政子との縁で北条氏を味方につけてしまいます。
これと同じようなことが下毛野国でも起こっていたと想像できないでしょうか。
宗像氏が保護していた宇治能和紀郎子(=【ヤマトタケル】)の子孫が下毛野国に入り、三輪氏と良好な関係になったと・・・。これによって、もはや東国はヤマト政権にとって盤石な体制になったわけです。
逆に、西国は常に反体制派の住吉氏が暗躍していますので、安心とは言えません。
国立国会図書館デジタルコレクションの中にある明治神社誌の旧県社格以上を調べたところ、東国に住吉神社はありません。つまり、住吉氏は東国まで進出していないのです。
こういった意味からも継体天皇以降のヤマト政権で、東国の信頼は大変強いものがあったのではないでしょうか。
さて、三輪氏の正体がわかったことによって、私にはもうひとつ頷けることがあります。それは物部氏の不可解な行動がなんとなく読める気がするからです。
これまで、なぜ、物部氏が穴穂部皇子を推戴するのかが、わかりませんでした。穴穂部皇子は蘇我氏の血統を継いでいますし、排仏派でもありません。この難題を解くために、どれだけの学者が頭を悩ませたことか・・・。
物部氏が最も欲しかったものは権力の座だったのではないでしょうか。あまりに強い権力の座への執着が物部氏の行動の根底にあったと考えれば難題は解けていくように思います。
大和東征以降、大伴氏と物部氏は大連として、両輪で活躍します。大伴氏は大和に残り、正室を迎えている葛城氏(住吉氏)を常に牽制していました。
一方、物部氏は中臣氏、宗像氏、蘇我氏と共に、東国平定に向い、それを完了します。そして、東国で騎兵の育成に着手します。この騎兵を使って、次は九州へ赴き、磐井の乱を鎮圧し、住吉氏を政治の一線から引退させます。
物部氏にとっては、東国平定も磐井の乱の鎮圧もすべて自分が行ったという自負があったでしょう。物部麁鹿火が逝去し、物部尾輿に代わった辺りから、権力の座への執着が増していったように思います。
欽明天皇のとき、物部尾輿は大伴金村が任那四郡を百済に割譲したことを非難し、大伴金村を失脚させます。これによって、次の権力の座は当然自分の番だと思ったことでしょう。
ところが、仏教伝来によって、欽明天皇の心は蘇我稲目に移ってしまい、それからは蘇我氏が仏教普及に努めると共に、近代化を推し進めていき、物部氏の出番は無くなります。
物部氏は単に排仏を唱えるだけでしかなくなりますが、権力の座への執着はますます増幅していったことでしょう。周りの氏族から見て、この権力欲が鼻について、物部氏から距離を置くようになっていったのではないでしょうか。排仏派に傾いていた皇子も、物部氏を敬遠したのではないかと思います。
誰からも相手にされなくなった物部守屋にとって推戴する候補として残ったのは、同じように次の天皇の地位を得ようと権力欲の強い穴穂部皇子だったというわけです。
そして、前回、『第二十八話 蘇我氏の反対勢力』で書いたように、
「穴穂部皇子は炊屋姫皇后(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、殯宮に入ろうとします。敏達天皇の寵臣三輪君逆(みわのきみさかう)は殯宮の門を閉ざして、中へは入れませんでした。これを無礼だとして、穴穂部皇子は物部守屋大連を遣わして、三輪君逆を斬ってしまいます。」
ということがあって、東国で共に戦った中臣氏や宗像氏も物部氏を見放してしまったのではないでしょうか。蘇我馬子は物部氏が孤立している状況を見て、一気に滅亡へと追い込みました。
その後、隋が中国を統一するなど、東アジアの情勢が急変し、蘇我氏は外交の対応に追われます。
その間、東国では中臣氏、宗像氏、三輪氏の三者によって、蘇我氏打倒の計画がじっくりと練られたのではないかと思います。
もはや、物部氏のような排仏派だけでは時代遅れ。蘇我氏が推し進めている仏教と律令制は世界のトレンドであり、それを抜きにしては未来の政治は成り立たないのは明らか。しかし、どのようにして蘇我氏とは違う新しい政治のパラダイムを作っていくのか。
ここで、首謀者である中臣鎌足はひとつの大きな決断をしたと考えます。
それは大和東征以来、一貫して通して来た、天皇は呉の末裔である、という主張と、そして、その天皇による『中国南朝呉の復興』という錦の御旗を放棄すること。
その代わりに、天皇は日本の島々を作った神の降臨であるとすること。つまり、天皇は中国南朝から来たのではなくて、日本の神から生まれたということにするのです。
蘇我氏の政治は仏教と律令制を基にしているとはいえ、所詮、中国南朝の梁の物真似。『中国南朝の復興』という域から抜け出せていません。この蘇我氏を倒すには『中国南朝の復興』という根本を否定することしかないと考えたのです。
ここに日本神道という新しいコンセプトが生まれたことになります。これを仏教と律令制の上に乗せます。決して、仏教を否定するわけではないところがミソです。最初から神仏習合だったというわけです。この考え方にいたるまでに、三輪氏から相当な助言があったことは明らかでしょう。三輪氏無くしてはこの発想は起きなかったかもしれません。
ローマ帝政のグランドデザインを考えたのはカエサル、そして、それを構築したのがアウグストゥスとするならば、日本神道のグランドデザインを考えたのは中臣(藤原)鎌足、そして、それを構築したのは藤原不比等です。東西の天才たちの政治の逸品ではないでしょうか。
この日本神道という新しいコンセプトを中大兄皇子と大海人皇子が受け入れるかどうか。中臣鎌足には必ず受け入れるという自信があったに違いありません。
第三十話 微妙で根深い確執
大化の改新(645年)に入る前に、横道に逸れて、ふたつの余談を提供したいと思います。その方が私が描こうとしている歴史物語を理解しやすいのではないかと思うからです。
日本人は日本食という美食文化を持っていますが、この起源をいつ頃に辿っていけばよいのでしょうか。
10数年前、カナダに訪問したとき、カナダの友人にお願いをしたことがあるのです。
「折角、カナダに来たので、カナダの伝統食を食べてみたいのですが・・・。」
その時の返答は
「建国して150年そこらしか経っていない国に、伝統の食文化なんてありません。」
そりゃそうだ、と妙に納得してしまったのです。
さて、大化の改新(645年)以降、古事記(712年)、日本書記(720年)が編纂されて日本神道がスタートするまで、蘇我氏の痕跡はほぼ完全に抹殺されました。天皇は中国南朝から来たのではなく、日本の島々を作った神が降臨して来たということにするわけですから、蘇我氏の持つ中国南朝の痕跡は完全に抹殺すればするほど、日本神道の確立に有効であることは間違いありません。
これだけでも蘇我氏を滅亡させ、その痕跡を葬り去る理由は十分にあるとは思います。
しかし、私は中大兄皇子や大海人皇子が蘇我氏を何かしら毛嫌いするのはこれだけではないような気がするのです。
古より、日本に命がけで船で渡って来る人々はその祖国を追われた難民であることが多いことでしょう。その追われた祖国として最も大きなものが中国です。その中国ではどのように文明が発展して来たのでしょうか。
中国文明の発祥はいくつかあるようですが、代表的なものは黄河文明と長江文明です。
黄河文明は黄河流域に起こったアワやキビの畑作を中心とした文明で、長江文明は揚子江下流域に起こったコメを中心とした文明です。
私は今でも高校時代の教科書資料である「詳密世界史地図(帝国書院)」を持っていて使っていますが、その中の前漢時代の経済・産業の地図に黄河と揚子江の間に『米作の北西限界』というラインがはっきりと引かれています。
春秋時代(紀元前8-5世紀)に黄河流域では、周が支配をし、周室だけが王を名乗っていました。その他の覇者は周に服属する諸侯ということです。ところが、揚子江流域の楚は自らを王と称すと宣言したのです。
黄河流域の諸侯にとっては「楚が王を名乗るなんて、なんと無知で野蛮な国なんだ」と思ったことでしょう。
でも、明文化されているわけではないのですが、楚王の気持ちとしては「こっちはコメを食っているんだ。アワやキビを食っている連中とはわけが違う。」と思っていたのではないでしょうか。
春秋戦国時代が秦の中国統一(紀元前221年)で幕を閉じますが、その秦も圧政が祟って、すぐに滅んでしまいます。そして、漢の劉邦と楚の項羽が天下を争うことになり、漢の劉邦が勝利します。
この頃、揚子江河口辺りから、日本に稲作が伝わって来て、日本では弥生時代が始まります。単純に考えれば、楚の難民が国を追われて、日本に渡って来たということでしょう。つまり、弥生人とは楚の難民だということです。
次に、前漢、後漢と時代が続き、三国時代に入ります。三国志に有名な魏・曹操、蜀・劉備、呉・孫権の争いです。魏は後漢から帝位を禅譲したとしますが、蜀は漢の復興を称します。魏は黄河流域を支配し、蜀は揚子江上流域を支配しますが、どちらも畑作が中心です。呉は揚子江下流域を支配する以前の楚と同じ地域です。つまり、コメを主食としているところです。
この三国の争いで、魏を継いだ晋が中国を統一し、揚子江下流域を支配する呉は以前の楚と同じように、再び国を追われます(紀元3世紀頃)。私はこの呉の難民が日向に渡って来て、日本の天皇に繋がっていると考えているのです。
晋の中国統一は長く続かず、華北では胡族出身者が次々と国を興していきます。胡族の出身者の支配を嫌う華北の住民はぞくぞくと華南に移動していきます。この時点で北朝は胡族出身者が支配する国、南朝は漢民族を継承する国になったといえるでしょう。
そして、589年 隋の中国統一が成ります。漢民族を継承していた梁が滅ぶことで、実質的に中国内で漢民族王朝は滅亡したことになります。
ここで元に戻りましょう。
弥生人は揚子江下流域に住んでいた楚の難民。天皇も揚子江下流域に住んでいた呉の難民。どちらも漢民族から追い出されたのです。
では、蘇我氏はというと漢時代に朝鮮半島にあった楽浪郡の漢人と高句麗人の血を継いでいますが、漢民族の流れを汲むと考えてよいでしょう。そこに梁が滅亡して、蘇我氏の下に漢民族を継承する梁の難民がぞくぞくと日本に渡って来ました。
これを中大兄皇子や大海人皇子がどのような思いで見ていたでしょうか。
「こっちは春秋時代(紀元前8-5世紀)からコメを食ってんだ。胡族に追い出されて(4-6世紀)、コメを食い始めた連中とはわけが違う。舌の肥え方が違うってんだよ。」
そのような声が聞こえるような気がしませんか。漢民族への恨みはそう簡単に無くなりはしないでしょう。
次の余談は衰亡史にあります。
紀元前後、東西ではふたつの大国が君臨していました。東は漢(前漢、後漢)。西はローマ帝国。このふたつの国の衰亡史が似ているのです。
ローマ帝国はゲルマン民族の大移動で崩壊。西ローマ帝国は滅亡(476年)しますが、東ローマ帝国はその後1000年程も継続します。
漢は匈奴に圧迫されますが、分裂した南匈奴が胡族の国に分かれて、北方から華北へ進出して来ます。漢民族は華南に移動しますが、梁が滅亡することによって、実質的に漢民族王朝は中国内で消滅します。しかし、その東にある日本は胡族に支配されず、今日まで生き延びているのです。
東ローマ帝国の存続と日本の存続は似ていませんか。
東ローマ帝国の基を築いたのはコンスタンチヌス。何故にコンスタンチヌスはコンスタンチノープルという街を建設し、首都をローマからそちらへ移したのか。その都でどのような政治を行おうとしたのか。
それが分かれば、日本立国のヒントになるのではないでしょうか。
第三十一話 支配の道具としての宗教
西の大国であったローマ帝国の衰亡史にはふたつの名著があります。
● エドワード・ギボン著 「ローマ帝国衰亡史」 (Edword Gibbon "The History of the Decline and Fall of the Roman Empire")
● 塩野七生著 「ローマ人の物語」
エドワード・ギボン著「ローマ帝国衰亡史」については、昨年、天国に召された私の恩師とも言える武中徹氏から、
「和訳本は迷訳だから、読むならば原著を読んだ方がはるかにわかり易いし、面白いよ。」
とアドバイスを頂きましたので、原著読破にチャレンジ。しかし、私の拙い語学力では悪戦苦闘の日々。最後まで読み終えるのに2年かかりました。とても十分に理解したと言えるレベルではありませんので、また機会があれば再チャレンジしたいと思っています。それでも、読んでいく中で、ローマのその時代に生きているかのように文書が活き活きとしていて、どうしてそのようなことまでわかるんだ、と驚いた記憶があります。
今回は塩野七生氏の著書から抜粋して、話を進めていきます。
そして、もう一方の東の大国であった漢民族王朝の衰亡史は、私の知る限り、存在しません。
しかし、双方とも北方の騎馬民族が徐々に文明化し、最後は双方の大国を滅亡させてしまうという展開は似ているのです。そして、支配する側も、権力を行使するに価しないと判断された支配者はすぐに殺されると言う点で似ています。
この中で、支配者の課題を克服するために、コンスタンティヌスは首都をコンスタンティノープルに移転しました。それが東ローマ帝国となり、西ローマ帝国滅亡(476年)以降も約1000年程も生き延びます。
実質的に最後の漢民族王朝である梁の滅亡(557年)以降も、東にある日本は胡族に征服されず、今日に及んでいることを考えると、東ローマ帝国に似ていると言えます。ですから、コンスタンティヌスの意図を追求すれば、それが日本立国のヒントになると私は考えるのです。
これから、塩野七生氏の「ローマ人の物語(最後の努力)」の中から、ローマ帝国の課題は何であったのかを示す明晰な文章を紹介します(長文になります)。
「ローマ人は、王政・共和制・帝政と政体ならば変移させてきたにかかわらず、世襲という一事に関しては一貫して、釈然としない、俗な言い方なら胡散臭い、感じをいだいてきた民族であった。王政とて選挙制であったのだし、共和制となればもちろんのこと、現代の首相にあたる執政官は市民集会で決まった。このローマでは、帝政でさえも、公式の主権者は皇帝ではなく、主権者であるローマ市民権所有者とローマの元老院が権力の行使を託した存在が、皇帝であったのだ。それゆえに、権力の行使を託すに値しないと判断された皇帝は殺されたのである。一年任期の執政官とちがって皇帝の任期は終身であったので、その皇帝をリコールしたければ、肉体そのものを抹殺するしかなかったからであった。
三世紀のローマ帝国が直面した危機の要因の第一は、現代風に言えば、皇帝へのリコールが次々と起こったがために政局不安定がつづいてしまったことにあった。それを改善しようとしてディオクレティアヌスが考え実施したのが、『四頭政』のシステムである。だがこれも、短い生命で終わった。それを短命で終わらせた一人がコンスタンティヌスだったが、それだけに彼には『四頭政』では政局不安定は解消できないことを見抜いていたにちがいない。また、ローマ帝国を一人で統治してきた『元首政』時代の皇帝たちのように、自分も一人で統治したいという野望もあったろう。
しかし、帝国を一人で統治したければ、それを可能にする、しかも長期にわたって可能にする、何か特別のシステムを考え出す必要がある。それも、機能しないことがはっきりした『四頭政』型のシステムではなく、かと言って、殺害というリコール方式の危険を常に内包している『元首政』システムでもなく。
・・・・
・・・、権力者に権力の行使を託すのが『人間』であるかぎり、権力者から権力を取りあげる、つまり、権力者をリコールする、権利も『人間』にありつづけることになる。だが、もしもこの権利が、『人間』ではなく、他の別の存在にあるということになったらどうだろう。
・・・・
現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の権利を君主に与えるのが、『人間』ではなく、『神』である、とする考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの驚嘆すべき政治センスの冴えであった。委託でも、また一転してリコールでも、それを決める権利は『可知』である人間にはなく、『不可知』である唯一神であるとしたのだから。」(塩野七生著『ローマ人の物語(最後の努力)』より抜粋)
そして、313年、キリスト教信仰の公認となる『ミラノ勅令』が公表されたのです。しかし、それだけではキリスト教の振興は進みません。ローマを首都にする限り、そこには古よりローマの神々が祀られてきたのであり、それらを破壊しようものならばローマ市民から非難されることは火を見るよりも明らかです。
そこで、コンスタンティヌスは東のコンスタンティノープルという街に目を付け、そこをキリスト教振興を行いやすい、新たな首都として建設したのです。それもたった六年間の突貫工事で完成を祝う式典にこぎつけたというのですから凄まじい。
すべてが変わってしまった!
「歴史家の中にはローマ史の叙述を、コンスタンティヌスの時代の到来とともにやめてしまう人が少なくない。もはやローマ帝国ではない、という理由によってである。」(塩野七生著『ローマ人の物語(最後の努力)』より)
しかし、これによって、宗教(キリスト教)が『支配の道具』として確立したことになります。
さて、次は東の中国について、見てみましょう。こちらは王政ですから、ローマとは違います。しかし、南北朝時代も政局不安定ということでは似ていたのです。
「何しろ当時中国は南北朝の時代で、動乱に継ぐ動乱を以ってし、戦塵絶ゆる間がなかったのでありまして、五十余人の君主のうち位をまっとうせられた者は二十余人、三十余人は弑害に遭ってゐられるのであります。平均の在位年間が僅かに七年と云ふのでありますから、いかに乱世であったかといふことを想像することが出来ます。」(大原性実著『正信偈講讃』より)
この時代の仏教は華厳経、法華経、涅槃経などの代表的な大乗仏典が伝来し、曇鸞は浄土教を開きました。北朝の北魏では大規模な仏教石窟寺院である雲崗石窟が開削され、その後も洛陽の近くに龍門石窟が開かれました。南朝でも梁の武帝は仏教を国教とするなど仏教の隆盛は極めたのです。
しかし、コンスタンティヌスが目指したような『支配の道具』という宗教として、仏教は役に立たなかったと言えないでしょうか。仏教は民の魂の救済に徹しており、政局を安定させたいと願う『支配者の道具』には向かなかったということです。
蘇我氏が東アジアの時代の流れの中で、仏教と律令制を推し進めても、それだけでは政局安定にはつながらない!
これを看破していたのが、中臣鎌足だったのではないでしょうか。
政局を安定させるには新たな方法が必要であるという認識の基に生み出されたものが、天皇は日本の島々を作った神が降臨して来たとする日本神道です。
コンスタンティヌスは古よりあるローマの神々という多神教を棄てて、キリスト教という一神教を採用することによって、政局の安定を図りました。
しかし、中臣鎌足は仏教を棄てたりはしませんでした。仏教と日本神道を並存させたのです。私流に言うならば、仏教と律令制の上に日本神道を載せたということです。ここに日本の独自のシステムとして、『神仏習合』が生み出されたのです。
現在、私たちにはお馴染みの生活慣習として、一家には神棚と仏壇があります。五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などは神様にお祈りし、魂の救済は仏様にお祈りします。これこそが最も典型的な日本人の日本人たる所以ではないでしょうか。海外では見ることが出来ない世界です。
「ローマ人は三度、世界を支配した。初めは軍団によって。次は法律によって。そして最後はキリスト教によって。」
と言われます。同じような事は日本にも言えるではないでしょうか。
「日本人は三度、日本を支配した。初めは大和東征した九州水軍という軍団によって。次は大宝律令、養老律令などという律令によって。そして最後は古事記、日本書記で作られた日本神道によって。」
第三十二話 蘇我氏分裂工作
推古天皇が崩御された後、後継者争いが発生しました。
「三十六年の三月に、天皇が崩御された。九月に、葬礼が終わったが、皇位は定まらなかった。蘇我蝦夷臣(そがのえみしのおみ)は大臣であり、一人で皇嗣を決めようと思ったが、群臣が従わないのではないかと恐れた。そこで阿部麻呂臣(あべのまろのおみ)と相談し、群臣を集めて大臣の家で宴会を催した。食事が終わって散会するとき、大臣は阿部臣に命令して、群臣に語らせ、
『今、天皇は崩御されたが、後嗣がいない。もし速やかに決定しなかったならば、乱れが起こるのではないかと恐れる。ところで、いずれの王を後嗣とするのがよいか。私はこのように聞いている。推古天皇が病臥された時、まず田村皇子(たむらのみこ)に詔して、
(天下の統治は、天(あま)つ神が委任されたものです。もとより、たやすく口にすることではありません。田村皇子よ、慎んで物事を明察しなさい。怠ってはなりません。)
と仰せられた。次に山背大兄王(やましろのおおえのみこ)には、
(お前一人で、あれこれ言ってはなりません。必ず群臣の言葉に従って、慎んで道を違えぬように。)
と仰せられた。これが天皇の遺言である。さて、いったい誰を天皇とすればよかろう。』
と言った。」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
これに対して、群臣の意見は分かれました。
田村皇子の推戴派 ・・・ 大伴鯨連(おおとものくじらのむらじ)、采女臣摩礼志(うねめのおみまれし)、高向臣宇摩(たかむくのおみうま)、中臣連弥気(なかとみのむらじみけ)、難波吉士身刺(なにわのきしむさし)
山背大兄王の推戴派 ・・・ 許勢臣大麿呂(こせのおみおおまろ)、佐伯連東人(さえきのむらじあずまひと)、紀臣塩手(きのおみしおて)、境部摩理勢臣(さかいべのまりせのおみ)
保留(どちらも推戴せず) ・・・ 蘇我倉麿呂臣(そがのくらまろのおみ)
さてさて、日本書記には上のように書かれているのですが、推古天皇の本意はいかがなものでしょうか。
推古天皇は
『真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき』
と謡われているほど蘇我氏を信頼しています。とするならば、後継者には蘇我氏の系列であり、聖徳太子の子である山背大兄王を推戴するはずです。蘇我氏の系列でない田村皇子を推戴することはないでしょう。
では、なぜ、日本書記に書かれているようになっているかというと、蘇我氏の反対勢力は推古天皇が崩御された今こそ勢いを取り戻すチャンスであり、総力を結集して、大臣である蘇我蝦夷に田村皇子を次の後継者にするように強引にねじ込んで来たのではないでしょうか。
蘇我蝦夷はその対応に苦慮してしまったということです。
蘇我馬子は物部守屋と三輪逆を争わせて、反対勢力を分断しました。蘇我蝦夷は蘇我馬子のような政治的手腕を持っていなかったのです。蘇我蝦夷は次のように語っています。
「欽明天皇の御世よりこの世に至るまで、群卿はみな賢明でした。しかし今、私が愚かであり、たまたま人材が乏しかったために、誤って群臣の上にいるだけです。そのため、皇嗣を定めることができません。・・・」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
この蘇我蝦夷の軟弱な対応に対して、蘇我氏内部から不満が爆発しました。聖徳太子の好誼(こうぎ)を受けていた境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)は蘇我馬子の墓所を壊して、私有地に退去し、出仕しなかったのです。蘇我蝦夷はこれを怒り、境部臣摩理勢を殺してしまいました。
蘇我氏内部に亀裂が入ったのです。そして、蘇我氏の反対勢力の思い通りに、田村皇子が舒明天皇として即位しました(629年)。
それから13年後(642年)、舒明天皇が崩御し、その皇后であられた皇極天皇が即位します。ここでも山背大兄王が天皇に即位するチャンスがあったはずですが、そのように進めなかったということは蘇我氏の内部分裂はここでも続いていたと考えられます。皇極天皇の許では蘇我蝦夷は病気のためか、その子である蘇我入鹿が執政として勢いをふるいます。
日本書記はこの時期、『蘇我蝦夷・入鹿の専横』として、その例をいくつか挙げています。しかし、私にはその通りに受け取れないのです。その頃、中国東北部の争いが急展開するからです。
644年 唐・太宗の第一次高句麗遠征
645年 唐・太宗の第二次高句麗遠征 太宗、遼東城を陥る
朝鮮半島では、高句麗・百済・日本の連合軍に対して、唐・新羅の連合軍の戦いが鮮明化する中で、日本における役割は相当に期待されていたはず。蘇我入鹿は朝鮮半島に送り込む戦備の対応に追われていたと思います。それを日本書記では『専横』として悪しく書いています。
私にはこの若い蘇我入鹿に入れ知恵をして煽り、手に取るように操っている中臣鎌足の姿がちらちらと見えてなりません。
そして、とうとう643年11月に、蘇我入鹿は山背大兄王を斑鳩宮に攻めます。
中臣鎌足の思惑としては、蘇我入鹿と山背大兄王を争わせ、どちらも消耗してくれれば蘇我氏は弱体化するとの判断でしょう。蘇我入鹿に入れ知恵をしているのは中臣鎌足、そして、山背大兄王の側近として送り込んでいるのが三輪文屋君です。中臣氏と三輪氏は綿密に連携して蘇我氏の動きを把握していたと私は考えています。
山背大兄王が山に逃げ込んだ時、三輪文屋君(みわのふみやのきみ)は進み出て勧告します。
「どうか深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移り、そこから馬に乗って東国に行き、乳部(みぶ)を本拠として軍隊を起こし、引き返して戦って下さい。そうすれば、必ず勝つことと思います。」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
これが中臣氏と三輪氏の策略。蘇我氏を東西に分裂して争わせ、消耗させようとする作戦です。しかし、想定外のことが起きてしまったのです。
「山背大兄王等は、
『お前が言うように動いたならば、必ず勝つことだろう。しかし私は心の中で、十年間は人民を使役するまいと思っている。私の一身上のことのために、どうして万民に苦労をかけることができようか。
また、後世人民が私に味方したために、戦で自分の父母をなくしたなどと言われることは望まない。戦いに勝ったからといって、どうして丈夫と言えようか。身を捨てて国を固めるならば、これも丈夫というべきではなかろうか。』
と仰せられた。」(宮澤瑞穂著日本書紀全訳より)
結局、山背大兄王は山を下り、斑鳩宮に戻り、ついにその一族・妃妾と共に、自ら首をくくって亡くられた、ということになっていますが・・・。
この凄惨な結末を演じたのは三輪文屋君にあると私は考えています。ここで、山背大兄王と蘇我入鹿が和してしまったら、蘇我氏の分裂工作はすべて水の泡となるからです。
もう随分と前に、私は父の書棚にある梅原猛全集を読んでいました。そのひとつに『隠された十字架』という著書があります。法隆寺に秘められた怨霊というのがテーマです。
法隆寺の中門の中央に柱があるのは怨霊を封じ込めるため。そして、考えるだけでも恐ろしいのは、秘仏である救世観音像はその光背が大きな釘によって頭に直接うちつられている、ということです。これも怨霊封じ。
何の罪もない山背大兄王とその一族を滅ぼしてしまったということに対する懺悔、そして、その怨霊を封じ込めるために創られた再建法隆寺。代償の大きさがわかるような気がします。
第三十三話 大化の改新
『645年 中大兄皇子ら大極殿において蘇我入鹿を殺す (大化の改新の開始)』
年表に書かれている上記の一文は正確です。蘇我入鹿を殺すことによって、大化の改新は終了したのではなく、この時から開始したのです。
では、大化の改新はいつ終了したのかについて、年表には書かれていませんが、ウィキペディアには次のように書かれています。
『狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む』
しかし、私は、この狭義も広義も何かしらピントがずれているような気がしてならないのです。なぜなら、蘇我入鹿を殺してまでも進めなければならない『改新』というのならば、当然、蘇我氏では出来なかったことをやらなければ『改新』とは言えないのではないでしょうか。
蘇我氏は中国南朝の復興を旗頭として、仏教の振興と律令制を車の両輪として推し進めて来たのです。
上記の狭義の大化年間の改革についても、広義の大宝律令完成までに行われた一連の改革についても、蘇我氏の治政が継続していたならばその改革は想定されることであり、『改新』と呼べるようなことではありません。
やはり、蘇我氏に出来ない『改新』と呼べることは、天皇は日本の島々を作った神が降臨して来たとする『日本神道の確立』をおいて他にありません。
では、日本神道はいつ確立したのかというと、ずばり、私は『725年 宇佐神宮の創建』であると考えているのです。
712年に古事記が編纂され、720年に日本書記が編纂されました。憲法でいうならば公布と言ってもよいのではないかと思います。そして、その施行が725年の第二の宗廟と言われる『宇佐神宮の創建(一之御殿完成)』です。
日本神道をこれからスタートするぞというに相応しいビッグイベントです。
これに先立って、大変なことが行われているのです。『720年 隼人の乱』の鎮静です。これは高校の教科書の年表には載っておらず、宇佐神宮の歴史の中に残っています。そして、これによって、宇佐神宮で毎年欠かさず『放生会(ほうじょうえ)』が行われるようになったいうことは、『宇佐神宮の創建』と共に、如何に大変な出来事であったかということを物語っています。
「宇佐宮放生会
養老四年(七二〇)の征隼人軍に豊前守宇奴首男人(うなのおびとおひと)は加わったとされる。勅使が宇佐宮に戦勝祈願をした際に八幡神も遠征するという神託(しんたく)があり、御神体を乗せた御神輿は日向・大隅に進軍する。このときに宇佐宮の禰宜(ねぎ)辛島勝代豆米(からしますぐりよつめ)も神軍を率いて加わるが、神のあやしき威力で隼人をことごとく降伏させ、大御神は同七年(七二三)に帰ったという。
神亀元年(七二四)大御神は『我れこの隼人等を多く殺却したむくいには、年別に二度放生会を奉仕せしむ』と神託して、天平十一年(七三九)八月十四日から全国の諸社にさきがけて毎年八月に放生会が行われることになったという。
また社伝では隼人討伐の際にその首を持ち帰り、宇佐西方の松隈の凶士塚(隼人塚・凶首塚ともいう)に葬ったという。ところがその後になって農作物に貝虫の被害が続き、凶作で農民は困ったが、これは隼人の崇(たた)りであろうとして、年一度ニナガイ(蜷貝)を海に放流して隼人の霊を慰めたという。これが放生会の祭りの始まりで、戦乱その他で幾度かの変遷はあったが廃絶することなく続いてきたと伝えられる。」(みやこ町歴史民族博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」より)
私はこの隼人の乱の鎮静こそが、日向・蘇我氏殲滅の最終章ではなかったかと考えているのです。その目的は蘇我氏が持つ中国南朝の痕跡を完全に抹殺することにあり、女子供も容赦なく徹底して行われたのではないかと考えているのです。だからこそ、その魂を鎮めるために、毎年、放生会が行われるようになったのではないでしょうか。
もうひとつ、興味のあることがあります。
宇佐神宮の大宮司に大神比義命(おおがのひぎのみこと)がなっていることです。その出身が奈良の三輪明神を祀る大神神社の社家の生まれとされています。
「大神比義命は八幡大神を初めて顕現した人物で、奈良の三輪明神を祀る大神神社の社家の生まれとされる。欽明天皇29年(568年)に勅命を受け、宇佐に派遣された。五穀を断ち3年、籠居精進し、御幣を捧げて『若し汝神ならば、我が前に顕れるべし』と祈った。すると、八幡大神が笹の葉にのった3歳の童子として顕れ『われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり』と告げた。
その後、元明天皇元年(708年)に童子は黄金の鷹になり、宇佐を流れる駅館川の東岸の松の上にとどまった。しかし、この地は道に接しており人通りが多く騒がしかった。荒ぶる神であった八幡大神は、これに激怒し、通行人を殺してしまった。それを知った大神比義命は、辛島勝乙目とともに千日の間、祈願した。その甲斐あって、八幡大神の心も和らいだので、元明天皇5年(712年)に、鷹のとどまった鷹居山に鷹居社を造り八幡大神をお祀りした。
しかし、『この場所は騒がしいので小山田の林に移りたい』との八幡大神の託宣により元正天皇2年(716年)に小山田社に移祀された。しかし、『小山田社は狭いので小椋山に移りたい』として、聖武天皇2年(725年)に現在地である小倉山に一之御殿を建立し八幡大神が鎮座したとされる。」(宇佐市公式観光サイトより)
聖徳太子の子である山背大兄王の一族が斑鳩寺で自害したとき、その場所に三輪文屋君がいました。
そして、日向・蘇我氏を滅亡させるそのときにも三輪明神を祀る大神神社の社家の大神比義命の子孫が関係しているのです。
どちらも三輪氏が関係していることを偶然として片付けられるのでしょうか。
さて、645年 蘇我入鹿を殺すことによって始まった『大化の改新』も、725年 宇佐神宮の創建によって日本神道が確立し、成就しました。
しかし、この間の80年というのは、まさにジェットコースターに乗っているかのように、実に様々な出来事が起きています。
663年 白村江の戦いにより、唐軍に大敗
672年 壬申の乱により、大友皇子自殺。大海人皇子が天武天皇として即位
701年 大宝律令完成
710年 平城京に遷都
新生日本は多くの苦難を乗り越えていかねばならなかったのです。
第三十四話 白村江の戦い
まあ、この題材もどのように書こうかと相当に悩みます。『日本書記』にあるように、日本の敗戦記だから書きづらいということよりは近隣国との関係が余りに複雑過ぎて、簡単に書けないというのが実情です。
つまり、『白村江の戦いを一言で言ったら、どうなるの?』という質問に対して、『一言では到底説明出来ません』と匙を投げているようなものです。
父の書斎に『白村江』をタイトルとした著作が2冊ありました。
『白村江の戦いと壬申の乱 ー唐初期の朝鮮三国と日本ー』 小林恵子著 現代思潮社
『白村江 ー敗戦始末記と薬師寺の謎ー』 鈴木治著 学生社版
どちらも個性的な名著だと思います。
前者の裏表紙には次のように書かれていました。
「唐帝国の興隆に直面した七世紀後半、東アジアにおける地域社会の激動は、唐=新羅と百済=高句麗の対立と興亡、天智・天武朝の国家としての日本の確立が始まる古代史のハイライトである。そして唐・新羅連合軍と百済・高句麗・日本の連合軍が激突した白村江の戦いこそは、同時に天智・天武の二大勢力の抗争が頂点に達する壬申の乱の幕開けでもあった。日本の古代資料と、唐、朝鮮の資料との綿密な比較検討に加え、平安以降の民間伝承をも精査した著者の十年にわたる労作。従来の限界を突破して、日本古代史に久々の雄大なロマンを描いて絶賛された初版に、さらに緊密な補訂を加えた注目の刊行である。」
そして、後者のまえがきの一部を抜粋すると次のようになります。
「当時唐は朝鮮海峡を越えてわが国に上陸作戦を敢行するほどの力はなかったが、いやしくも白村江の会戦に勝った以上、むざむざ勝者の権利を放棄するはずはなかった。戦後数次の彼我交渉の後に、天智天皇崩御の前年にいたり、朝散大夫郭務悰に率いられ、四十七隻の船に分乗して大挙筑紫に渡来した二千人の大部隊は、軍隊ではないとしても、国内攪乱のための大規模な政治工作隊だったことはたしかである。そしてその後引き続いてわが国内に生じた数々の奇怪な事件は、唐のわが国に対する内政干渉によって起ったものだったことはいうまでもない。壬申の乱をはじめとして、東大寺大佛建立その他の大事件は、すべてその中に含まれる。
しかし、その多くは歴史の表面にあらわれていない。きわめて重大な政治事件というものは、現代の新聞におけると同様に、昔の歴史においても書かれていない。したがって歴史に書いていないからといって、決して安心してはいられないのである。」
本のタイトルに『白村江』という文字が入っていても、これ程までに著書の中味は違うのです。
例えば、唐、高句麗、百済、新羅、日本のそれぞれに強硬派、穏健派があり、それぞれが将来の青写真を描いていたとしましょう。それぞれが情報を発して模索していますから、その組み合わせは、2×2×2×2×2=32通りあるのです。それらを時系列を追って見て行くことはナンセンスだとは思いますが、それほどまでに複雑だということを知った上で、どのような切り口で見て行けば少しは見やすくなるのかを考えてみましょう。
まず、二つの安定政権構想があります。大国が考える一国支配構想と、周辺諸国が考える力のバランスを取った三国鼎立構想です。
前者は隋、唐など中国を統一した国の構想です。後者は中国の周辺国である小国が生き延びるために、他のもう一方の近隣諸国と力を合わせて、大国である中国に立ち向かうという構想です。高句麗、百済、新羅、日本が含まれますが、日本だけは少し事情が違います。
それは日本海という海があるので、陸続きで直接に大国である中国に接していないということ。高句麗、百済、新羅がいつ大国に飲み込まれるのかと戦々恐々で存亡の危機を回避するための知恵を振り絞りださなければならないのに対し、日本はやや余裕があります。
高句麗、百済、新羅それぞれが、日本と組んで三国鼎立を目指すという青写真を持ってきたならば、それらをまな板の上に並べて吟味し、一番可能性の高いものを選べばよいのです。日本自身が知恵を出すのではありません。
そういう視点から日本の外交を捉えると、どうなるでしょうか。
● 隋(唐)、高句麗、日本による三国鼎立構想 (552年頃仏教伝来から、645年大化の改新まで)
6世紀半ば頃、南朝の梁が滅び、中国が統一される気運が出て来たとき、高句麗の主導によって考えられた構想です。日本は仏教伝来がきっかけとなって、蘇我氏が表舞台に出て来ます。高句麗の支援を積極的に受け入れ、南朝の梁が滅びて、その難民を受け入れる形で蘇我氏は躍進し、日本は急激に近代化、文明化し、新興国として成長していきます。
隋は中国を統一し、その勢いで百万の大軍を率いて高句麗を攻めますが、高句麗はなんとか凌ぎます。この時、高句麗主導の三国鼎立構想が最も機能したと言えるでしょう。
隋は疲弊して滅び、唐が興ります(618年)。
当初、唐、高句麗は親善を図り、唐、高句麗、日本の三国鼎立がなったように思われましたが、高句麗の内部から破綻が生じます。強硬派の泉蓋蘇文(せがいそぶん)は穏健派の180人を弑害し、唐との間で不和が生じます。644年、唐の太宗は第一次高句麗遠征を行います。
この機に、日本でも改革を急激に進めて来た蘇我氏に旧勢力が反発。645年、大化の改新が起こり、蘇我入鹿が殺されます。
● 唐、百済、日本による三国鼎立構想 (645年大化の改新から、663年白村江の戦いまで)
大化の改新を起こした中大兄皇子(天智天皇)は、蘇我氏が躍進する以前の状態に戻そうとし、朝鮮半島では百済を重視します。
百済の義慈王は高句麗と共に、新羅に攻め入ります。新羅の金春秋(武烈王)は堪らず、唐に救援を求めます。しばらく、高句麗ー百済、唐ー新羅の対立の状態が続きますが、これを打開したのが新羅の武烈王の提案です。高句麗と百済の両方を攻めても効果があがらないので、まず、百済に絞って、唐と新羅の両方向から攻めて、滅ぼしてしまうというものです。
660年、唐は名将、蘇丁方を派遣します。蘇丁方は電光石火の如く百済に攻め入って、首都扶余を陥落させ、百済の義慈王(ぎじおう)を捕虜にしてしまいます。
この時に、唐の蘇丁方と新羅の将軍との間で諍いが起きます。蘇丁方は新羅の将軍が期日に到着しなかったという理由で、この将軍を斬ろうとしたのです。もう一人の新羅の名将、金庾信(きむゆしん)が大いに怒り、唐軍との対決を決意しそうになったので、思い止まったということです。双方の将軍との間に起った諍いですが、新羅側では、大国の唐が属国である新羅をどのように見ているのかを知るきっかけになったのではないでしょうか。
一方、義慈王が唐に捕虜として捉えられた百済ですが、鬼室福信(きしつふくしん)を中心に反乱軍が勢いを増します。日本にいる義慈王の子である豊璋(ほうしょう)を呼び戻し、百済を再興しようというのです。日本は豊璋と共に、救援軍を百済に派遣する決定を行いました。
これによって行われた戦いが『白村江の戦い』です。
ところが、日本書記を何度読んでも感じることですが、この救援軍の動きが遅い。もどかしいのです。唐の蘇丁方が電光石火の如く攻め入ったのとは対称的です。
その原因は日本の将軍が無能だったということではなく、日本サイドの中で、百済の反乱軍に対して救援軍を派遣すべきかどうかで意見が真っ二つに分かれていたのでないかと思うのです。
その意見が分かれる基になったのは、武烈王の後を継いだ新羅の文武王の提案だと、私は考えます。
● 唐、新羅、日本による三国鼎立構想(663年白村江の戦い以降)
新羅の文武王は、唐と日本の本音を見抜いていたのではないでしょうか。
『唐は挑発をして来た高句麗の泉蓋蘇文を許しはしないし、隋の敗北も踏まえ、中華の威信をかけても高句麗を滅ばさなければ気が済まない。百済を滅ぼした後は高句麗滅亡に全力を傾けるに違いない。高句麗滅亡も時間の問題。
日本は日本本土の侵略だけはぜひとも避けたいと思っている。
一方、現在、唐と組んでいる新羅の未来はあるであろうか。
唐は大国であり、新羅を属国の虫けらのようにしか考えていない。百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼした後は、新羅を先鋒隊として日本侵攻を指示するに違いない。その戦いで新羅と日本が疲弊したところで、漁夫の利を得る形で双方を飲み込み、唐による一国支配を完結させるであろう。現状のままでも、新羅は生き残れない。
もし、新羅が生き残る道があるとすれば、日本と組んで唐と戦うのみ。日本もそれ以外に侵略を防ぐ手立てはない。新羅と日本の連携を日本が納得するかどうかが鍵となる。』
この提案に対し、日本の中で意見が真っ二つに分かれたと思います。
反対 ・・・ 中大兄皇子(天智天皇)。百済は旧来より日本の盟友であり、これを支援しなければ日本の『義』が疑われる。功利により生き残ったとしても国としての存続価値はない。
賛成 ・・・ 大海人皇子(天武天皇)、中臣鎌足。百済が滅び、高句麗滅亡も時間の問題となった以上、高句麗ー百済ー日本の再興は不可能であり、現実的ではない。日本が生き残る道は新羅との連携しかない。
白村江に向う救援軍が遅々として進まない理由もわかるような気がします。
何はともあれ、日本の救援軍は白村江に到着し、唐と戦って大敗を喫しました。負けるべくして負けた戦いとも言えますが、百済に対する盟友としての『義』も果たしました。その代償は国家始まって以来の多くの兵士の犠牲を伴うものでした。
第三十五話 朝倉宮と大宰府
父の書籍の中で、白村江の戦いに臨む日本軍の行動過程を追った興味深い文献がありました。
九州歴史資料館開館10周年記念として発刊された『大宰府の歴史(古都大宰府を守る会編)全6冊』(西日本新聞社)に収められた文献「朝倉橘広庭宮・白村江の戦い」長洋一著です。
興味深いところなので、長文で引用します。
「百済滅亡以降の日本の動きを『日本書記』によって、時間を追ってみていきたいと思います。十月に鬼室福信からの使いが来て、救援することが決まると、十二月に斉明天皇は難波宮に出向き、そこでいろんな軍器を整えます。この度の救援活動は海を渡って行くので船が必要となり、救援決定の後に駿河の国に命じて船をつくらせました。そして、翌斉明七年(661年)一月六日に天皇は中大兄皇子、大海人皇子(後の天智天皇と天武天皇)の二人と、中臣鎌足らを連れて難波の港を発ち、筑紫に向います。『御船西に征く』と『日本書記』に書いてありますが、出発して二日後の八日、岡山県沖合の大伯海(おおくのうみ)に至った時に、大海人皇子の奥さんである大田姫皇子(中大兄皇子の娘)に女の子が生まれます。その生まれた場所が大伯海だったので、地名をとって大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けます。この大伯皇女は有名な大津皇子の姉になる人で、大津皇子にまつわるいろいろな話が万葉集にあります。
それからどういうことなのか、十四日には四国の伊予の国の熟田津(にきたつ)の石湯行宮に着いています。今の道後温泉ですが、九州に行くのになぜ四国の道後温泉に寄らなければならないのか、大きな疑問です。しかし、そこに寄ったことは事実です。その後、ここを出発する時に額田王の『熟田津に船のりせむと月まてば潮もかないぬ今はこぎいでな』という有名な歌が詠まれています。その時期が明確ではないのですが、石湯を出発した天皇一行は、三月二十五日にやっと那大津に着いて磐瀬宮に入ります。この『日本書記』の記述でいくと、天皇一行は一月十四日に石湯に着いて、三月二十五日に那大津に着きます。道後温泉から那大津に直行して船で行けば一週間はかからないと思いますので、その日数を那大津到着の二十五日から引くと十八日となり、天皇らは三月十八日ごろまで道後温泉にいたことになります。一月十四日から三月十八日ごろまで、天皇らは長いこと道後温泉にいたことになりますが、なんのためにそんなに長くいたのかは、大きな問題です。
ともあれ、那大津に天皇一行が着きますと、四月になってここに百済の鬼室福信の使いがやってきて、人質になっている豊璋を早く帰してほしいという要請があります。その四月は一説によりますと、朝倉宮に天皇が移った時だともいわれています。三月の終わりに那大津に着いた斉明天皇は、そこで鬼室福信の要請を受け、四月か五月に奥まった朝倉宮に移ったということになるわけです。ところが、その朝倉宮には当時何やら不穏な情勢がありました。『日本書記』によると、朝倉宮をつくるときに神社の木を切ったので、その神が怒って建物を壊したと書いていますし、それから宮の内に鬼火が現れたと書いています。そのせいで天皇の側近の者がたくさん死んだというようなことも書いてあります。そして、七月には、斉明天皇が死んだことが書かれているのです。異常な状況です。八月には斉明天皇の遺骸を磐瀬宮に移しますが、その時、朝倉山の上に鬼がいて、大笠を着てこれを見ていたといいます。遺骸は磐瀬宮に二か月余り置かれた後、十月には船に乗せて大和に送り、十一月に斉明天皇の殯を飛鳥の川原で行ったと書いてあります。」
ここで、斉明天皇が移動し、崩御された朝倉宮はどこにあるのか。なぜ、そこに作られたのかが当然ながら、疑問として出て来ます。
何度か発掘調査が過去に行われたようですが、現在でも朝倉宮の正確な所在地はわかっていません。福岡県朝倉市辺りにあるだろうと考えられています。相当に奥まったところにあるのです。
地元の研究家で古賀益城氏という方は次のように述べています。
「この朝倉宮の位置は大和朝廷ないし日本の表玄関ともいうべき玄界灘の那大津(博多)へ陸路十里(四十キロ)、地方豪族の私的な大陸交通の基地たる邪馬台国に接する裏玄関、有明海へも水行十里(四十キロ)であって、百済救援軍の督戦拠点、兵站基地として、表玄関を監視する要衝の地であったのである。しかも、黒川、彦山から豊前方面へ、また日田から豊後方面へ通ずる抜け道があり、そこからは海路によって皇都近畿への連絡も容易であって誠によい地点であったのである。」
つまり、後半部分の文章を逆説的に理解すると、皇都近畿から出て来て、この地に督戦拠点を置くと、表玄関、裏玄関ともを監視下におけるということです。
しかし、反対勢力もそれを見抜いていて、朝倉宮を置くことを許しませんでした。その反対勢力とはこの『歴史の底流』をずっとご購読されている皆さんにはお分かりだと思いますが、新羅と関係の強い住吉氏だと考えています。新羅が危機的な状況になると必ず力を発揮して来ます。
住吉氏は磐井の乱(527年)で政界の表舞台から引退させられたとはいえ、隠然たる反対勢力としての力を持っています。崇峻天皇弑殺(592年)は蘇我馬子が行ったことになっていますが、【ある本によると、東漢直駒は東漢直磐井の子であるという。】という理由から私は住吉氏が刺客を出したのであろうと推察しました。このときも蘇我馬子が朝鮮半島に出兵していれば、新羅は両面から挟まれて危機的だったのです。
さて、この朝倉宮の失敗が大宰府建設に活かされていると私は考えているのです。
白村江の戦いで大敗した後、帰国して、まずやらなければならないことは防衛基地の設置です。
現在、大宰府政庁跡は美しく整備されていますが、それが建設されたのは大宝元年(701年)の大宝令に基づいて創建された第二期遺構であって、当初の第一期遺構は軍司令部的な建物だけでした。しかし、なぜ、その場所が選ばれたのかということに私の興味があります。
唐・新羅の水軍が攻めて来るという想定であれば、後の元寇のときに行ったように博多湾岸に防塁を築いて水際で防ぐべきですが、そうではありません。
そこで大宰府の位置を地図でじっくりと眺めることが肝要です。
大宰府は東西に連なる背振山地の東の端にあり、また、南北に連なる三郡山地の南の端にあるのです。つまり、山地と山地の狭間にあるのです。
この大宰府から北西方向には那珂川が中心を流れる福岡平野があり、那珂川の河口に住吉神社があります。また、大宰府の山間を抜けた南方向には東西に筑後川が流れ、筑後平野が開けています。この筑後平野の丘陵地に筑後一之宮である高良大社があり、その右殿に住吉大神が祀られています。
どちらも住吉氏の重要な勢力基盤であることに間違いありません。
そこで大宰府を抑えるということは住吉氏の勢力を福岡平野側と筑後平野側に分断することになります。
大宰府には3つの軍事施設が並列して築かれました。朝鮮式山城である大野城と基肄城、そして、水城です。大野城は福岡平野側を抑える城であり、基肄城は筑後平野側を抑える城です。そして、万が一、唐と新羅の水軍が上陸してきたならばその対策として水城を準備したということではないでしょうか。
つまり、大宰府の軍事施設の設置は、古代ローマが行った『分割して統治せよ』を住吉氏に対して実践したことになり、国内の反対勢力を抑えることを最優先に考えたことになります。
しかし、この軍事施設も、新羅との関係が良好になることによって、使わずに済みましたが、その前に、外交上やっておかなければならないことがありました。それが壬申の乱(672年)です。
第三十六話 壬申の乱
日本書紀を読む限り、壬申の乱(672年)は国内問題のようにしか受け取れません。天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(天武天皇)の争いという視点です。それは従来通りであり、教科書に載っていますので、ここでは割愛したいと思います。
ここで取り上げるのは、これを東アジアの国際問題と受け取るとどのようになるであろうかという視点です。
前々回、『第三十四話 白村江の戦い』で、私はこの戦いの起きる前に、新羅の文武王から、日本と新羅の連携の提案の話があり、その賛否で日本の中は真っ二つに分かれていたのではないかと書きました。
反対 ・・・ 中大兄皇子(天智天皇)。百済は旧来より日本の盟友であり、これを支援しなければ日本の『義』が疑われる。功利により生き残ったとしても国としての存続価値はない。
賛成 ・・・ 大海人皇子(天武天皇)、中臣鎌足。百済が滅び、高句麗滅亡も時間の問題となった以上、高句麗ー百済ー日本の再興は不可能であり、現実的ではない。日本が生き残る道は新羅との連携しかない。
この賛否の分かれる中で、中大兄皇子(天智天皇)が自身の主張を通して、白村江の戦い(663年)に突入。日本軍は唐軍に対し大敗を喫しました。
この結果、当然のことながら日本の中の人心は中大兄皇子を離れ、大海人皇子に集まっていったのではないかと思います。つまり、新羅・文武王の提案である日本と新羅の連携強化を望む声が高まったということです。
と同時に東アジアの情勢も刻一刻と変化していました。
唐は白村江の戦いの戦後処理として、郭務悰を日本に送り込んで来ました。この間も唐は高句麗を攻め続けています。
666年 李勣の第2次高句麗遠征。泉蓋蘇文死。
668年 李勣の第3次高句麗遠征。平壌陥落し、高句麗滅ぶ。
百済、高句麗が滅ぶことによって、新羅と日本のそれぞれはいよいよ最後の選択を迫られることになりました。
唐は大国であり、1対1の戦いも、対等な交渉も出来ない。もし、新羅と日本が生き残れるとするならば、双方の連携以外にはあり得ないということが、心の底から理解出来たのではないでしょうか。
このとき、日本の大海人皇子(天武天皇)と新羅の文武王はしっかりとタッグを組む決意をしたのだと考えます。
その条件は日本は朝鮮半島から一切、手を引き、新羅が百済を併合しても異議を唱えない。百済再興の夢を持っている天智天皇の勢力は駆逐する。
これが壬申の乱の東アジアの国際問題における意義です。
一方、新羅は高句麗の残存勢力を集め、百済を併合して、唐軍を朝鮮半島から駆逐する。唐軍の日本侵攻に加わらないし、もし、侵攻があった場合は日本を援助する。
つまり、日本の壬申の乱の結果の後、新羅は朝鮮半島の統一に入るということです。
年表では次の通り。
672年 壬申の乱
675年 新羅、百済を併合
676年 唐の朝鮮半島放棄。新羅の統一時代はじまる。
677年 唐 安東都護府を遼東に移す。
ここにおいて、東アジアの国家体制が確立し、それが現在に続いていると言えます。
さて、唐から見れば、新羅は日本に寝返ったということになりますが、その寝返りにいつ気付いたのでしょうか。これも壬申の乱の結果の後ではないかと思うのです。
日本サイドは白村江の戦いの戦後処理として送り込んで来た唐の郭務悰に対して、次のように白を切ったと想像してみて下さい。
『白村江の戦いを扇動した天智天皇の勢力である大友皇子は自害した。唐に反対する勢力は駆逐したので、ご安心あれ。』
唐から見れば、まさかの展開。犬猿の仲と言ってもよいほどの新羅と日本が連携するなんて信じられないというのが正直なところ。ですから、新羅・文武王と日本・天武天皇のタッグは、唐という大国を手玉に取ったと言えるのではないでしょうか。
この象徴として、この頃の伽藍配置の変化について、小林恵子氏は次のように記述しています。
「周知のように、朝鮮三国及び日本の伽藍配置は、高句麗の清岩里廃寺(推定金剛寺跡、平壌市東南)や、飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)のように、塔を中心として、三金堂(あるいは講堂)を持つ形式と、百済に多くある四天王寺(大阪市天王寺区)のように、講堂、金堂、塔が縦に一直線に並ぶ形式が最初にあった。
ところが、統一新羅に入る頃から、金堂を中心にして、東西に塔が並列する両塔式伽藍配置の寺院が、新羅と日本に、ほぼ時を同じくして突然現れて盛行する。 ・・・ 言うまでもなく、塔は本来、ブッダの骨を納めるスツーバから発生しているのであるから、墓標であり、一寺院に二基あるのは邪道といえる。 ・・・
新羅で最初に文武王の追悼寺として建てられたと言われている感恩寺は、発掘調査(1959年10月~12月)により、西塔の上面に掘られた舎利口から、鋳造された四天王像を始め、豪華な舎利荘厳具と共に、舎利瓶及び舎利が発見されたという。塔身の上部というところに、当麻寺(たいまでら)との共通点を見ることができる。いずれにしても、薬師寺、感恩寺、当麻寺の共通点は、西塔に舎利が安置されていたという事実である。
感恩寺は神文王の父、文武王への追悼のために建てられた性格を持つ寺院であってみれば、両者の類似性よりみて当麻寺もまた、文武王の鎮魂寺としての性格を有していたとみてよいであろう。この三寺が西塔に舎利を収めていたのは、教義上の理由ではなく、西塔は文武王を意味していたからであると考える。つまり、東は日本、天武であり、西は新羅、文武王という意識である。」(小林恵子著『白村江の戦いと壬申の乱』より抜粋)
第三十七話(最終回) 東アジア国家体制確立と新生日本の第一歩
壬申の乱(672年)後、新羅が百済を併合(675年)、唐が朝鮮半島を放棄し、新羅の統一時代が始まる(676年)ことによって、東アジアの国家体制は確立しました。
中国大陸は唐、朝鮮半島は新羅、日本列島は日本。この基本的な国家の枠組みは今日まで続いています。
680年以降、日本は外交問題が片付いたので、いよいよ新生日本の第一歩として、国内問題に専念することになります。
● 律令制の実施
681年 律令撰定の詔を出す。草壁皇子、皇太子となり摂政する。
その後、701年 大宝律令、718年 養老律令の完成と続き、国家の基盤が出来たと言えます。
「律令国家体制は律令を基本法典とし、公地公民制を基礎とする中央国家体制と定義できる。日本の律令は唐の律令を模倣しつつも、日本の実情を考慮したもので、律は現在の刑法、令は行政法・民法などにあたる。」(日本史地図 東京学習出版社)
- 律令官制
中央 ・・・ 神祇官、太政官(左大臣、太政大臣、右大臣)、禅定台(風俗の取り締まり、官吏の監察)、五衛府(宮中の警備、京の巡察)
地方 <要地> ・・・ 左右京職(京の民政一般)、摂津職(摂津国の外交と一般)、大宰府(西海道の統轄、外交と防衛)
<諸国> ・・・ 国(国司) ー 郡(郡司) ー 里(里長)
ー 課役(農民に対する税)
租庸調、雑徭など
- 畿内七道の行政区画
畿内、東海道、東山道、北陸道、南海道(四国)、山陽道、山陰道、西海道(九州)
全国の国府を結ぶ官道が整備されました。
● 日本神道の確立
蘇我氏から引き継いで、仏教は保護されています。しかし、『第三十一話 支配の道具としての宗教』でも述べましたように、仏教は民の魂の救済に徹しており、支配の道具としては向いていません。政局を安定させるため、新たな方法が必要であるという認識の基に生み出されたものが、天皇は日本の島々を作った神が降臨して来たとする日本神道です。
712年 「古事記」成る
720年 「日本書記」成る
725年 宇佐神宮の創建(一之御殿完成)
日本神道は実質的に古事記、日本書記で公布し、宇佐神宮の創建によって盛大に祝賀会を行い、施行されたと言ってよいでしょう。ここに、日本独自の『神仏習合』が成りました。
最後に、壬申の乱以降、生き残った氏族がその後、どのように展開していったのかを見ておきましょう。
★ 住吉氏 ・・・ 住吉三神、神功皇后を祀る(住吉大社、住吉神社)
大和東征以前より九州北部にあった最大勢力で新羅との関係が深い。大和東征後は葛城氏となり、天皇に正室を送って勢力を誇示しましたが、磐井の乱にて政治から引退。しかし、壬申の乱で天武天皇が新羅の文武王とタッグを組むことになって復活。大宰府を抑えて、遣唐使派遣で外交に活躍すると共に、西回り航路の日本海側で勢力を拡大しました。
★ 宗像氏 ・・・ 宗像三女神を祀る(宗像大社)
大和東征時の主力水軍。大和東征後、和珥氏となり天皇を補佐。東国平定に参加し、現在の福島県方面に隠津島神社を築き、勢力を拡大。磐井の乱で住吉氏を政治から引退させて以降、海外との貿易を独占しましたが、壬申の乱で住吉氏の勢力が復活すると、外交は住吉氏に戻りました。一方、東回り航路を抑えて、東国方面で勢力を拡大しました。後に、桓武平氏となって東国武士団の一翼を担います。
西回り航路に住吉氏、東回り航路に宗像氏という勢力図は明確に分かれていたと思います。なぜなら、第一に、東国に住吉神社はありません(県社格以上において https://www.originalcv.com/RekishiNoTeiryu/mapJinja/sumiyoshi/ )。第二に、だしに対する食文化が明確にわかれました。北海道で採れる昆布は西回り航路で、日本海から下関を回って、関西に入りますが、そこから先の関東には回っていきませんでした。よって、九州、関西は昆布だしを使いますが、関東は昆布だしがありませんでした。あるのはかつおだしのみです。
余談ですが、味にうるさい江戸っ子はこのかつおだししかないにも関わらず、味に変化を求めました。それが薬味を上手に使うことです。もりそばとざるそばの違いはざるそばにのりが乗っているだけだと思ったら大違い。もりそばは唐辛子(七味、一味)で食べますが、ざるそばはわさびで食べます。つけ汁もざるそばはみりんを少し多めにして甘くし、わさびを引き立たせます。もちろん、のりとわさびは相性が良いので、味に一工夫できるというものです。そば屋のお上さんに聞くと、「昔はもりそばに唐辛子、ざるそばにわさびは当たり前だったけど、最近は何でもありだからねえ・・・。」とのこと。
私は思うのです。もし、住吉氏が関東(東国)にまで進出していたら、昆布だしは関東へ早い時期から広がっていただろうと。
★ 中臣氏(藤原氏) ・・・ 建御雷神を祀る(鹿島神宮、春日大社)
私は大和東征の時、宇佐氏の中の氏族だったものが連を名乗ったと考えています(大伴連、物部連、中臣連)。大和東征後、大伴氏は大和に残りますが、物部氏と中臣氏は東国平定に赴きます。そこで、中臣氏の拠点になったのが建御雷神を祀る鹿島神宮です。大化の改新で蘇我氏を倒した後、中臣氏は大和へ入りますが、そこが春日山附近です。ここは以前、和珥氏(宗像氏)が保有していたところです。私は中臣氏が大和へ移る際に和珥氏(宗像氏)と相談し、和珥氏(宗像氏)が保有していた大和の春日山附近を中臣氏に譲る代わりに、中臣氏が拠点をおいていた鹿島神宮の関東の基盤を和珥氏(宗像氏)に譲ったのではないかと思います。
後に、関東一円が宗像氏が勢力を伸ばし、桓武平氏となって東国武士団の一翼になったことは前述した通りです。
そして、春日山には鹿島神宮から分祀して創られた春日大社があり、そして、興福寺もあります。中臣氏(藤原氏)の氏神、氏寺であることはご存知の通り。蘇我氏が繁栄した飛鳥川沿いは仏閣などの作り過ぎで、山林が荒廃していたと言います。よって、新たに平城京を創るとき、目を付けたのは春日山の北にある木津川です。平城京は木津川沿いの山林を切り出して建設されました。
★ 三輪氏 ・・・ 大国主神(大物主神など)を祀る(二荒山神社、大神神社)
『第十八話 三輪山伝説?』、そして、『第二十九話 鍵を握る三輪氏』で書きましたように、私は三輪氏こそが国津神のドンであろうと考えています。東国平定後、三輪氏が天皇の寵臣として加わることによって、新たな発想が出て来ました。蘇我氏とは違う政治のパラダイムとして考え出した日本神道は、三輪氏の助言が大きく影響していたと思います。
その三輪氏の基盤は東国道です。毛野、科野(信濃)、御野(美濃)といった海に面していない山岳地帯。騎兵の育成に力を注ぎ、日本の騎馬軍の主力になりました。後に、この三輪氏の基盤を清和源氏が引き継ぎます。三輪氏と源氏の間に血統としての繋がりがあるかどうかはまったくわかりません。ただ、この山岳地帯がもつ地域のDNAは清和源氏に引き継がれていることは間違いありません。
まあ、大雑把に新生日本の中での役割を考えると、
政治、経済 ・・・ 中臣氏(藤原氏)
外交 ・・・ 住吉氏
防衛 ・・・ 宗像氏、三輪氏
といったところでしょうか。
日本人としての自覚が芽生えて来るのも、これ以降のことです。
永らく、お読みいただき、ありがとうございました。
父の書斎の本をきっかけに書き始めましたので、天国の父に捧げたいと思いますが、ひょっとしたら、『まったく馬鹿なことを書いてくれたもんだ』と苦笑しているかもしれません。トホホ