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歴史の底流 <ゼロ>

オリジナル・シー・ヴイ 末次 浩

― 前書き ―

 前作『歴史の底流』では、古事記<中つ巻>の不可解な点から考察し、応神天皇を総大将とする大和東征、そして、物部氏、中臣氏、宗像氏、蘇我氏が向かう東国平定について述べました。
 この東国平定を考えるとき、利根川河口の右岸にある下総国一之宮・香取神宮の祭神・経津主神は元来、物部氏の氏神であり、また、同左岸にある常陸国一之宮・鹿島神宮の祭神・武甕槌神は中臣氏の氏神であることに注目しました。どちらも古事記<上つ巻>の国譲り神話に登場する神であることを考えれば、国譲り神話の舞台は出雲ではなく東国であり、国譲り神話は東国平定そのものと思えるのです。この考え方を土台として、前作『歴史の底流』は物語を展開しました。

 今回、『歴史の底流 <ゼロ>』ではもう一歩進めて、大和東征、東国平定という古代日本統一以前の日本の姿を古事記<上つ巻>から読み解いていきたいと考えています。
 古事記<上つ巻>に登場する黄泉の国、根の堅州国、葦原中つ国はいずれも東国の話であるというのが、私の主張です。
 そして、古事記<上つ巻>は水稲耕作が北部九州から、西日本(西国)、東日本(東国)と広がっていくときに、水稲耕作民の方が狩猟民よりも文化的に優越感を持っていたのではないかという点が古事記に表れていると考えます。
 古事記をそのまま鵜呑みにすると、「古事記には東国の話はあまり出てこないな」という印象を受けるのですが、実は、古事記<上つ巻>の中に、東国の話はたくさん隠されていたということになります。

 それでは本題に入りましょう。

<資料> 各祭神を祀る神社の広がり (『延喜式神名帳』、『明治神社誌料』を参照)


第一話 古事記<上つ巻>のトリック

 前著『歴史の底流』では、古事記<中つ巻>に三つのトリック、すなわち、『主人公の入れ替え』、『時系列の入れ替え』、『From と To の入れ替え』があると仮定して、物語を展開しました。
 この『歴史の底流<ゼロ>』も一つのトリックがあると仮定します。

 「出雲」への誘導

 古事記<上つ巻>は、編纂者が出雲地域の話に誘導したいという意図があるように思えてならないのです。
 古事記といえども、無からすべてを創造して作り上げるのは不可能です。各地の伝承を拾い集めて作り上げているに違いありませんから、Aという地域の伝承をBという地域の伝承に置き換えて、都合の良いように話を潤色することもあると思うのです。
 そこで、ずばり、古事記<上つ巻>は、東国の話を出雲の話に置き換えたと考えています。よって、これから古事記<上つ巻>の中で、出雲辺りの地域の名称が出てきてもそれを無視して話を進めていきます。そのとき、古事記<上つ巻>はどのような姿を私たちに見せてくれるのでしょうか。これから皆さんと共に見ていきましょう。

第二話 弥生文化の伝播

 これから、古事記<上つ巻>を目次通りに紐解いていきますが、その前に弥生文化の伝播を見ておきます。
 私が使っている高校時代の教科書である「日本史地図」(東京学習出版社)の中に「弥生文化の伝播と主要遺跡」という地図があり、弥生文化の伝播を4つの時代に分けて記述しています。

① 発生300BC頃 博多湾沿岸を中心とする北部九州
② 前期100BC頃 福井から名古屋までを結び、琵琶湖を含む西日本(西国)
③ 中期100AD頃 新潟から仙台までを結び、猪苗代湖を含む東日本(東国)
④ 後期300AD頃 北海道を含まない津軽海峡までの北日本

 ① は板付遺跡を始めとする地域ですが、魏志倭人伝には奴国、不弥国として登場し、後に、それぞれは住吉三神を祀る住吉氏、綿津見三神を祀る安曇氏に継承すると『歴史の底流』では述べました。

 ② は日本の歴史の中で、天下分け目の戦いとして登場するところです。壬申の乱では天武天皇が巻き返しを計った不破の関、戦国時代には徳川、豊臣両軍が戦った関ケ原。歴史的に、東国と西国を分けるラインと言ってよいのではないでしょうか。
 そして、このラインから西は、古事記では佐渡島を除けば、「大八島国の生成」として、位置づけられるところです。

 ③ は、特に注目したいラインです。第10代崇神天皇が『初国知らしし天皇』と呼ばれる所以になったところです。

 「故、大毘古命は、先の命の随(まにま)に、高志國に罷り行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別(たけぬなかはわけ)と、その父大毘古と共に、相津<注:福島県の会津>に往き遇ひき。故、其地を相津と謂ふなり。ここをもちて各遣はさえし國の政(まつりごと)を和平して覆奏(かへりごとまを)しき。ここに天の下太(いた)く平らぎ、人民富み栄えき。ここに初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女の手末(たなすゑ)の調(みつぎ)を貢らしめたまひき。故、その御世を称へて、初國知らしし御眞木天皇(みまきのすめらみこと)と謂ふ。」<古事記 崇神天皇の段>

 会津は猪苗代湖の西にあります。古代に道路などは整備されていませんから、猪苗代湖に達するためには日本海側から阿賀野川沿いを遡行したことでしょう。一方、太平洋側からは仙台の南に河口がある阿武隈川を南西に遡行し、二本松に達します。その辺りから、西にひと山越えると、そこが猪苗代湖なのです。この二本松と猪苗代湖の南側に、なんと宗像三女神を祀る隠津島神社があるのだから驚きです。水軍であるはずの宗像氏がこの山奥にまで達しているのです。

 話を元に戻すと、会津で出会って、第10代崇神天皇が『初國知らしし天皇』になったのですから、崇神天皇時代の古代日本の国境の北限は阿賀野川、猪苗代湖、阿武隈川のラインだったということではないでしょうか。

 弥生文化とは、すなわち、水稲耕作民の文化と言えますので、水稲耕作を未だ行っていない狩猟民が持つ文化との間で諍いが起こってもおかしくありません。それが古事記に表れているのではないかと考えています。

第三話 古事記<上つ巻> 伊邪那岐命と伊邪那美命

その一 「国土の修理固成」

 「ここに天つ神諸(もろもろ)の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、『この漂へる國を修め理(つく)り固め成せ。』と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。・・・」

その二 「二神の結婚」

 伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱によって、国土を作り始めます。

その三 「大八島国の生成」

 「生める子は、淡道の穂の狭別(さわけの)島<注:淡路島>。次に伊予の二名(ふたなの)島<注:四国>を生みき。この島は、身一つにして面(おも)四つあり。面毎(おもごと)に名あり。故、伊予國は愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐國は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟(あはの)國は大宣都比売(おほげつひめ)と謂ひ、土佐國は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。次に隠岐の三子(みつごの)島を生みき。亦の名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。次に筑紫(つくしの)島<注:九州>を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國<注:筑前・筑後>は白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊國<注:豊前・豊後>は豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國<注:肥前・肥後>は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾國<注:熊本県の南部から鹿児島県へかけての総称>は建日別(たけひわけ)と謂ふ。次に伊伎<注:壱岐>島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら)と謂ふ。次に津島<注:対馬>を生みき。亦の名は天之狭手依比売(あめのさてよりひめ)と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津(おほやまととよあきづ)島<注:大和を中心とした畿内の地域の名>を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、この八島を先に生めるによりて、大八島國と謂ふ。」

 この地域は佐渡島を除けば、『第一話 弥生文化の伝播』で述べた②の領域に相当するところです。つまり、西日本(西国)です。

その四 「神々の生成」

 伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱により、たくさんの神々を作りますが、注目したいのは次の神々です。

 「・・・ 次に火之夜藝速男(ひのやぎはやをの)神<注:物を焼く火力による名>を生みき。亦の名は火之炫毘古(ひのかがびこの)神<注:輝く火光による名>と謂ひ、亦の名は火之迦具土(ひのかぐつちの)神<注:物の焼けるにおいによる名>と謂ふ。この子を生みしによりて、みほど灸(や)かえて病み臥せり。・・・」

 そして、

「故、伊邪那美命は、火の神を生みしによりて、遂に神避(さ)りましき。」

となり、自らの体を傷付け、伊邪那美命は旅立ってしまいます。
 これより、『火』の発見が大変重要な出来事であったということを推測出来、人類史の中でも傑出すべきことが古事記にも書かれていると考えます。

その五 「火神被殺」

 「ここに伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳劔(とつかつるぎ)を抜きて、その子迦具土(かぐつちの)神の頸を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)<注:多くの岩石の群れ>に走(たばし)り就(つ)きて、成れる神の名は、石拆(いはさくの)神<注:岩石を裂くほどの威力ある神>。次に、根拆(ねさくの)神。次に石筒之男(いはつつのをの)神。次に御刀の本(もと)に著ける血も亦、湯津石村に走(たばし)り就きて、成れる神の名は、甕速日(みかはやひの)神<注:以下の二神は、火の根源である太陽をたたえた神名>。次に桶速日(ひはやひの)神。次に建御雷之男(たけみかづちのをの)神<注:勇猛な雷の男神の意で、剣の威力をたたえたもの>。亦の名は建布都(たけふつの)神。亦の名は豊布都(とよふつの)神。次に御刀の手上(たがみ)に集まれる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出でて、成れる神の名は、闇淤加美(くらおかみの)神<注:以下の二神は溪谷の水を掌る神>。次に闇御津羽(くらみつはの)神。

 上の件(くだり)の石拆神以下、闇御津羽神以前、併せて八神は、御刀により生れる神なり。<注:この八神は刀剣製作の順序を述べたものである。鉄鉱を火で焼いてこれを鍛え、出来た刀剣を谷間の霊水ににらぐさまを表現したもので、火の神の血が岩石に飛び散るさまは、鉄を鍛える時の火の粉が連想される。>」

 伊邪那美命が自らの体を壊してさえも、生んだ火の神。その火を使って刀剣を作ったということが象徴的です。

 「故、斬りたまひし刀の名は、天之尾羽張(あめのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ。」

 この「尾羽張」を尾張と捉えるならば、尾張の熱田神宮に祀られている『草薙の剣』を連想出来ます。

 ここで注目したいのは、初めて、中臣氏の氏神・建御雷之男神が登場していることです。中臣氏が古事記における最も重要な氏族であるということを示唆しているように思えてなりません。

その六 「黄泉の国」

 「ここにその妹(いも)伊邪那美命を相見むと欲(おも)ひて、黄泉國<注:地下にある死者の国で、穢れた所とされている>に追ひ往きき。」

 さて、伊邪那岐命は伊邪那美命を見たいと思って、黄泉の国に出かけていきますが、注目したいのはその場所です。

 古事記 「伊邪那岐命と伊邪那美命 9.須佐之男命の涕泣」の段の最後に、次のように書かれています。

 「故、その伊邪那岐大神は、淡海(近江)の多賀に坐すなり。」

 現在では琵琶湖の東にある多賀大社です。学者の中には『淡海』は『淡路』の間違いであるとする説もありますが、いずれにせよ、伊邪那岐命は『弥生文化の伝播②』のラインの西日本(西国)の中の領域にいることになります。
 「大八島国の生成」まで進んでいますから、この地域はすでに弥生文化が伝播し、水稲耕作が行われていると考えます。

 一方、伊邪那美命が住む黄泉の国を、まだ弥生文化が伝播していない、水稲耕作が始まっていない東日本(東国)と考えたらどうでしょうか。<第二話 『弥生文化の伝播③』>に相当する地域です。
 すでに弥生文化が伝播し、水稲耕作が行われている伊邪那岐命と、未だ弥生文化が伝播していない、水稲耕作が行われていない伊邪那美命という対比です。
 伊邪那岐命からすれば、伊邪那美命の住む黄泉の国は文化的に遅れた、穢れた場所だと映るはずです。

 「ここに殿(との)のさし戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔(の)りたまひしく、『愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、吾と汝と作れる國、未だ作り竟(を)へず。故、還るべし。』とのりたまひき。ここに伊邪那美命答へ白(まを)ししく、『悔しきかも、速(と)く来(こ)ずて。吾(あ)は黄泉戸喫(よもつへどひ)しつ<注:黄泉の国の竈で煮焚きした物を食べること。これを食べるとその国の者になると信じられていた>。然れども愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命、入り来ませる事恐(かしこ)し。故、還らむと欲(おも)ふを、且(しばら)く黄泉神と相論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ。』とまをしき。かく白してその殿の内に入りし間、甚久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御角髪(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱一箇(をばしらひとつ)取り闕(か)きて、一つ火燭(とも)して入り見たまひし時、蛆(うじ)たかれころろきて、頭には大雷(おほいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷居り、陰には拆(さき)雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、併せて八はしらの雷神(いかづちがみ)成り居りき。ここに伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時、その妹伊邪那美命、『吾に辱見せつ。』と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。」

 ここで、注目したい神が登場します。「意富加牟豆美(おほかむづみの)命」です。

 「ここに御佩(はか)せる十拳(とつか)劔を抜きて、後手に振きつつ逃げ来るを、なほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、その坂本にある桃子(もものみ)三箇を取りて、待ち撃てば、悉に逃げ返りき<注:桃の実が悪霊邪鬼をはらうという中国思想に基づいている>。ここに伊邪那岐命、その桃子に告(の)りたまひしく、『汝、吾を助けしが如く、葦原中國にあらゆる現(うつ)しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし。』と告(の)りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみの)命と號(い)ひき。」

 伊邪那岐命は、後に葦原中國を助けるために、意富加牟豆美(おほかむづみの)命を黄泉の国の中に残したということになります。

 次の文章は「古事記 崇神天皇 『神々の祭祀』」の段に書かれています。

 「この天皇の御世に、疫病多(さは)に起こりて、人民死にて盡きむとしき。ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らぎなむ。』とのりたまひき。ここをもちて駅馬使を四方に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努村にその人を見得て貢進(たてまつ)りき。ここに天皇、『汝は誰が子ぞ。』と問ひたまわば、答へて曰(まを)ししく、『僕は大物主大神、陶津耳(すえつみみの)命の女、活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶して生める子、名は櫛御方(くしみかた)命の子、飯肩巣見(いひかたすみの)命の子、建甕槌(たけみかづちの)命の子、僕(あれ)意富多多泥古命ぞ。』と白しき。ここに天皇大(いた)く歡びて詔りたまひしく、『天の下平らぎ、人民(たみ)榮えなむ。』とのりたまひて、すなわち意富多多泥古命をもちて神主(かむぬし)として、御諸(みもろ)山<注:奈良県磯城郡三輪山>に意富美和(おほみわ)の大神の前を拜(いつ)き祭りたまひき。」<古事記 崇神天皇「神々の祭祀」>

 『意富加牟豆美(おほかむづみの)命』と『意富多多泥古(おほたたねこ)』がダブって見えて仕方がないのです。
 黄泉の国(東国)に残したはずの『意富加牟豆美(おほかむづみの)命』が、後に『意富多多泥古(おほたたねこ)』となって、三輪山の神主に治まるということです。これをどのように捉えるか、後に考えていきたいと思います。

その七 「禊祓と神々の化生」

 「ここをもちて伊邪那岐大神詔りたまひしく、『吾はいなしこめしこめき穢き國<注:いやな見る目も厭わしい穢れた国>に到りてありけり。故、吾は御身の禊(みそぎ)<注:水で身を清める宗教的儀式>爲む。』
・・・
 ここに詔りたまひしく、『上(かみ)つ瀬は瀬速し。下(しも)つ瀬は瀬弱し。』
とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕(お)り潜(かづ)きて滌(すす)ぎたまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひの)神<注:人間生活を不幸にすることを掌る神>。次に大禍津日(おおまがつひの)神。この二神は、その穢繁國(けがらはしきくに)に到りし時の汚垢(けがれ)によりて成れる神なり。次にその禍(まが)を直さむとして、成れる神の名は、神直毘(かむなおびの)神<注:凶事を吉事に直すことを掌る神>。大直毘(おほなおびの)神、次に伊豆能賣(いづのめの)神。次に水の底を滌ぐ時に、成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒之男命。中に滌ぐ時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒之男命。水の上に滌ぐ時に、成れる神の名は、上津綿津見神。次に上筒之男命。この三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神(おやがみ)と以(も)ち拜(いつ)く神なり。故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆(うつしひがなさくの)命の子孫なり。その底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀(つくよみの)命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男(たけはやすさのをの)命。」

 ここで注目したいことは、住吉三神、天照大御神、須佐之男命が同世代の神であるということです。

 次の図は、延喜式神名帳でそれぞれの祭神が祀られていると考えられる神社の分布です。(下の注釈で『式内社』に相当)

旧社格(明治神社誌料)式内社(延喜式神名帳)
住吉三神(旧社格)住吉三神(式内社)九州中心
天照大御神(旧社格)天照大御神(式内社)西国中心
須佐之男命(旧社格)須佐之男命(式内社)東国中心
(注:まず、国立国会図書館デジタルコレクションの『明治神社誌料』の中から「旧県社格」以上の神社を選び出し、祀られている祭神毎に『旧社格』としてマッピングしています。その次に、『延喜式神名帳』を見て、前記『旧社格』でありながら『延喜式神名帳』の中にも名前のある神社を『式内社』としてマッピングしています。)

 勢力図として、住吉三神 → 九州、天照大御神 → 西国、須佐之男命 → 東国のように映ります。そして、これまでの流れとして、

西国 → 水稲耕作民(弥生文化が既に伝播) → 伊邪那岐命 → 天照大御神
東国 → 狩猟民(弥生文化が未伝播) → 伊邪那美命 → 須佐之男命

となります。

その八 「三貴子の分治」

 「この時伊邪那岐命、大(いた)く歓喜(よろこ)びて詔りたまひしく、『吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。』とのりたまひて、すなはち御頸珠(みくびたま)の玉の緒もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまひしく、『汝命(いましみこと)は、高天(たかま)の原を知らせ。』と事依(ことよ)さして賜ひき。故、その御頸珠の名を、御倉板拳之(みくらたなの)神と謂ふ。次に月讀(つくよみの)命に詔りたまひしく、『汝命(いましみこと)は、夜の食國(をすくに)を知らせ。』と事依さしき。次に建速須佐之男命に詔りたまひしく、『汝命(いましみこと)は、海原(うなばら)を知らせ。』と事依さしき。」

 伊邪那岐命は三貴子に次のように命じました。
 天照大御神 → 高天原を統治
 月讀命 → 夜の世界を統治
 須佐之男命 → 海原を統治

その九 「須佐之男命の涕泣」

 ところが、須佐之男命は海原統治を不服として、駄々をこねて、亡き母の国へ帰りたいと言い出します。

 「故、各(おのおの)依さしたまひし命の随(まにま)に、知らしめす中に、速須佐之男命、命(よ)させし國を治(し)らさずて、八拳須(やつかひげ)心(むね)の前(さき)に至るまで、啼きいさちき。
・・・
 故、伊邪那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまひしく、『何由(なにし)かも汝は事依させし國を治らせずて、哭きいさちる。』とのりたまひき。ここに答へ白(まを)しく、『僕は妣(はは)の國根(ね)の堅州國(かたすくに)に罷(まか)らむと欲(おも)ふ。故、哭くなり。』とまをしき。ここに伊邪那岐大御神、大(いた)く忿怒(いか)りて詔りたまひしく、『然らば汝はこの國に住むべからず。』とのりたまひて、すなはち、神逐(かむや)らひに逐らひたまひき。・・・」

 もともと、須佐之男命は伊邪那岐命の禊祓いで生まれたのですから、母などいないはずですが、もし、亡き母というならば、伊邪那美命に違いありません。 その伊邪那美命のいる『妣(はは)の國根(ね)の堅州國(かたすくに)』とは、黄泉の国であり、これまでに述べた東国に違いないのです。
 では、具体的に『根(ね)の堅州國(かたすくに)』とはどこでしょうか。

 まず、縄文前期の海岸線の図をご覧ください。現在の利根川とは流れが異なっています。
 下流から見ますと、利根川は鹿島灘に注ぎ込む前に鬼怒湾があり、その上流に鬼怒川があります。一方、荒川は東京湾に注ぎ込む前に奥東京湾があり、その上流に荒川があるのです。何が言いたいかというと、縄文前期の利根川の本流は鬼怒川であるということです。鬼怒川は毛野川が転じたものですので、毛野とは鬼怒川流域を主体とした地域と言えます。
 さらに、鬼怒川を上流に遡っていきますと、男体山をぐるっと回って日光白根山に向かうのです。ここが根の堅州國と言えないでしょうか。
 深田久弥著『日本百名山』では、『奥白根山』として紹介されています。

「普通、日光白根山と呼んでいるのは草津の白根山と区別するためである。日光群山の最高峰であり、男体山の奥院とも言われる。 奥日光に遊ぶ人は、すぐ前にある大きい男体山や太郎山に眼を奪われて、奥白根山に注目する人は極めて少ない。中禅寺湖畔から戦場ヶ原の一端に立つと、原を距(へだ)てて左手に連なる前山の上に、奥白根山の尖端が僅かに見えるが、進むに従って姿を消し、湯元では全く見えない。だから日光白根山と言っても、誰の眼にも親しい山ではない。
 この山をよく眺めるには、男体山や皇海(すかい)山、あるいは武尊(ほたか)山や燧(ひうち)岳、それら東西南北の山々から望んだ時、真に日光群山の盟主にふさわしい威厳と重厚をそなえた山容が得られる。かつて平ヶ岳の頂上から眺めて、連山を抜いてひときわ高く豪然とそびえている、その立派な姿に驚いたことがある。上信越国境では最高の峰である。浅間よりも高い。
・・・
 奥白根の頂上は一種異様である。それは蜂の巣のように凹凸がはげしく、どこを最高点とすべきか判じ難い。小火口の跡があちこちに散在しており、それをめぐって岩石の小丘が複雑に錯綜している。その丘の一つに貧弱な小祠があって、白根権現が祀ってある。少し離れた小丘の上に三角点があったから、そこを最高点と見なしていいのだろう。おもな火口を数えただけでも五指にあまった。この山がいかに激しい噴火を繰り返したかを、それは物語っている。」<深田久弥著『日本百名山』>

第四話 古事記<上つ巻> 天照大神と須佐之男命

その一 「須佐之男命の昇天」

 「故ここに速須佐之男命言ひしく、『然らば天照大御神に請(まを)して罷らむ。』といひて、すなはち天に参上る時、山川悉(ことごと)に動(とよ)み、國土皆震(ゆ)りき。ここに天照大御神聞き驚きて詔りたまひしく、『我が汝弟の命の上り来る由は、必ず善き心ならじ。我が國を奪はむと欲(おも)ふにこそあれ。』とのりたまひて、・・・
 ・・・
・・・、『何故上り来つる。』と、とひたまひき。ここに速須佐之男命、答へ白(まを)ししく、『僕は邪(きたな)き心無し。・・・ 故、罷り往かむ状(さま)を請(まを)さむと以為(おも)ひてこそ参上(まゐのぼ)りつれ。異心無し。』とまをしき。ここに天照大御神詔りたまひしく、『然らば汝の心の清く明きは何して知らむ』とのりたまひき。ここに速須佐之男命答へ白ししく、『各誓(うけ)ひて子生まむ。』とまをしき。」

 須佐之男命は、心が清いことを証明するために、それぞれに誓約(うけい)して子を生むことを提案します。
 『誓(うけ)い』とは、注釈に『吉凶黒白を判断するときに、必ずかくあるべしと心に期して神意を伺う行為。卜占の性質が強い。』とあります。

 占いですので、『生む子が男神ならば勝ち、あるいは、生む子が女神ならば勝ち』というような勝ちに対する判断基準が必要ですが、古事記ではそこのところが抜けているのです。そこでおかしなことになってきます。

その二 「天の安の河の誓約」

 「故ここに各天の安の河を中に置きて誓(うけ)ふ時に、天照大御神、まづ建速須佐之男命の佩(は)ける十拳剱(とつかつるぎ)を乞ひ度(わた)して、三段に打ち折りて、瓊音(ぬなと)ももゆらに、天(あめ)の眞名井(まなゐ)に振り滌(すす)ぎて、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、多紀理毘賣(たきりびめの)命。亦の御名は奥津島比賣(おきつしまひめの)命と謂ふ。次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命。亦の御名は狭依毘賣(さよりびめの)命と謂ふ。次に多岐都比賣(たきつひめの)命。速須佐之男命、天照大御神の左の御角髪に纏(ま)かせる八尺(やさか)の勾璃(まがたま)の五百筒(いほつ)の御統(みすまる)の珠を乞(こ)ひ度(わた)して、瓊音(ぬなと)ももゆらに、天(あめ)の眞名井(まなゐ)に振り滌(すす)ぎて、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳(まさかつあかつかちはやひのおしほみみの)命。また右の御角髪に纏かせる珠を乞ひ度して、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、天之菩卑能(あめのまひり)命。また御鬘(みかづら)に纏かせる珠を乞ひ度して、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、天津日子根(あまつひこねの)命。また左の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、活津日子根(いくつひこねの)命。また右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、熊野久須毘(くまのくすびの)命。幷(あわ)せて五柱なり。ここに天照大御神、速須佐之男命に告(の)りたまひしく、『この後に生(あ)れし五柱の男子(をのこご)は、物實(ものざね)我が物によりて成れり。故、自(おのづか)ら吾が子ぞ。先に生(あ)れし三柱の女子(をみなご)は、物實が汝が物によりて成れり。故、すなわち汝が子ぞ。』かく詔り別けたまひき。 故、その先に生(あ)れし神、多紀理毘賣(たぎりびめの)命は、胸形(むなかた)の奥津宮(おきつみや)に坐(ま)す。次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣(たきつひめの)命は、胸形の邊津宮に坐す。この三柱の神は、胸形君等のもち拜(いつ)く三前の大神なり。・・・」

 つまり、整理するとこういうことなのです。

        物實(ものざね)   生んだ神
天照大御神  須佐之男命の十拳劔  宗像三女伸
須佐之男命  天照大御神の珠    五柱の男神

 ここで、天照大御神は男神を生んだ方が勝ちだと信じて、難癖をつけたのです。

 「須佐之男命が生んだ五柱の男神は、私の物實を使ったので、私の子である。私が生んだ宗像三女神は、須佐之男命の物實を使ったので、あなたの子である」と。

 ところが、・・・。

その三 「須佐之男命の勝さび」

 「ここに速須佐之男命、天照大御神須に白(まを)ししく、『我が心清く明し。故、我が生める子は手弱女(たわやめ)を得つ。これによりて言(まを)さば、自ら我勝ちぬ。』と云(まを)して、勝さびに、天照大御神の営田(つくだ)の畔(あ)を離ち、その溝を埋め、またその大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿に屎まり散らしき。汝、然爲れども天照大御神は咎めずて・・・。」

 須佐之男命は手弱女(たわやめ)、すなわち、宗像三女神を得たから勝ちだと宣言し、天照大御神の田や住まいを荒らしたのです。それに対して、天照大御神は咎め立てをしませんでした。

ということは、五柱の男神よりも宗像三女神の方がより価値が高く、宗像三女神が勝敗の鍵だったということです。
 天照大御神から見れば、自ら生んだ価値の高い宗像三女神を須佐之男命に与えてしまい、言わば、人質のようになったので、ぐうの音も出なくなったということではないでしょうか。

 余談ですが、五柱の男子(をのこご)と三柱の女子(をみなご)ですから、八王子の地名の由来はここから来ているという方もいます。何か日本的で、良い響きですね。

その四 「天の岩屋戸」

 「故ここに天照大御神見畏(みかしこ)みて、天の岩屋戸を開きてさし籠りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原中國悉に闇(くら)し。これによりて常夜往きき。」

 ここで八百万の神は天の安の河原に集まって、天照大御神を岩屋戸から出すための作戦会議が開かれ、その道具を準備することになるのですが、そこに注目。

 「・・・天の香山の五百筒眞賢木(いほつまさかぎ)を根こじにこじて、上枝に八尺の勾璁の五百筒の御統(みすまる)の玉を取り著け、中枝に八尺鏡(やたかかがみ)を取り繋け、下枝に白和幣、靑和幣<注:木綿と麻>を取り垂(し)でて、・・・」

   どこかで見たような文章ではないでしょうか。そうです。熊鰐が仲哀天皇を迎えるときのシーンです。

 「・・・岡[おかの](福岡県遠賀郡芦屋町附近)県主[あがたぬし]の祖熊鰐[わに]は、天皇の行幸を承り、あらかじめ多くの枝の賢木[さかき]を根から抜き取り、九尋[ひろ]の船の舳に立て、上の枝には白銅鏡[ますみのかがみ]、中の枝には十握剣[とつかつるぎ]、下の枝には八坂瓊[やさかに]を掛け、・・・」<日本書紀(宮澤豊穂氏による現代語訳)から抜粋>

 この文章の原典がこの『天の岩屋戸』にあるのですが、違うところがひとつあります。三種の神器と言えば、鏡、玉、剣ですが、この『天の岩屋戸』では剣ではなく、木綿と麻になっています。

 三種の神器の剣は『草薙の剣』であり、この後に登場するヤマタノオロチ退治で須佐之男が獲得するものです。ということは、正統な皇位継承の証となる三種の神器の構成は、天照大御神から鏡と玉、須佐之男命から剣が供与されるということになります。

 何が言いたいかというと、天照大御神が『正』であり、須佐之男命が『悪』というような単純なものではなく、双方から供与されたもの、つまり、双方の協力によって三種の神器が構成され、天皇はそれを継承しているということです。

 話を元に戻しましょう。

 「かく言う間に、天兒屋(あめのこやねの)命、布刀玉命、その鏡を指し出して、天照大御神に示せ奉る時、天照大御神、いよよ奇(あや)しと思ほして、稍(やや)戸より出でて臨みます時に、その隠り立てりし天手力男神、その御手を取りて引き出す即ち、布刀玉命、尻くめ縄をその御後方に控き度して白ししく、『これより内には還り入りそ。』とまをしき。故、天照大御神出でましし時、高天の原も葦原中國も、自ら照り明りき。ここに八百万の神共に議(はか)りて、速須佐之男命に千位(ちくら)の置戸を負せ、また鬚を切り、手足の爪も抜かしめて、神逐(かむや)らひ逐らひき。」

 ここで八百万の神が須佐之男命を追い払った先は、根の堅州國に違いないのです。

その五 「五穀の起原」

 稲、粟、小豆、麦、大豆の種が出来ます。

その六 「須佐之男命の大蛇退治」

 「ここに須佐之男命、人その河上にありと以爲(おも)ほして、尋ね覓(もと)めて上(のぼ)り往きたまへば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人ありて、童女(おとめ)を中に置きて泣けり。ここに『汝等は誰ぞ。』と問ひたまひき。故、その老夫答へ言(まを)ししく、『僕は國つ神、大山津見神の子ぞ。僕が名は足名椎(あしなづち)と謂ひ、妻の名は手名椎(てなづち)と謂ひ、女の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と謂ふ。』とまをしき。また『汝が哭く由は何ぞ。』と問ひたまへば、答へ白(まを)ししく、『我が女は、本より八稚女(やをとめ)ありしを、この高志の八俣(やまた)の大蛇(をろち)、年毎に來て喫(くら)へり。今そが來べき時なり。故、泣く。』とまをしき。ここに『その形は如何。』と問ひたまへば、答へ白ししく、『その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾(やかしらやを)あり。またその身に苔(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生(お)ひ、その長(たけ)は谿八谷峡八尾(たにやたにをやを)<注:八つの谷八つの丘にまたがっていて>に度(わた)りて、その腹を見れば、悉に常に血爛れつ。』とまをしき。」

 ここでまず注目したいところは『高志の八俣大蛇』と書かれていて、はっきりと『高志』の文字が見えるということです。また、その形を問われると、 『その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾(やかしらやを)あり。またその身に苔(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生(お)ひ、その長(たけ)は谿八谷峡八尾(たにやたにをやを)<注:八つの谷八つの丘にまたがっていて>に度(わた)りて、その腹を見れば、悉に常に血爛れつ。』
と書かれていて、これはまさにマグマを噴出する火山以外の何物でもないでしょう。

 古代日本の北限となる猪苗代湖は磐梯山の山体崩壊で作られました。この付近から南に向かって有名な火山の名を挙げると、吾妻山、安達太良山、磐梯山、那須岳、燧ヶ岳、日光白根山、男体山、赤城山、榛名山、草津白根山、浅間山と火山の宝庫です。

 須佐之男命はその八俣大蛇に酒を飲ませて殺した後、その尾から刀を見つけます。

 「故、その中の尾を切りたまひし時、御刀(みはかし)の刃毀(はか)けき。ここに怪しと思ほして、御刀の前(さき)もちて刺し割きて見たまへば、都牟刈(つむがり)の大刀ありき。故、この大刀を取りて、異(あや)しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草薙の大刀なり。」

 これが三種の神器のひとつ、『草薙の剣』です。

 ここで皆さん、思い出してください。伊邪那美命が自らの体を壊しても作った『火』。その火を使って、刀剣を作りました。それが『天之尾羽張(あめのをはばり)』です。その刀が須佐之男命によって発見され、『草薙の剣』になったと思えませんか。
 そのような大切な刀を敵対する天照大御神に簡単に渡すでしょうか。この刀を渡すタイミングを考えると、大国主神が国譲りをする時、それ以外にないと思うのです。

 最後に、たくさんの神を生みますが、その一柱に大国主神がいます。

 「この神、刺國大(さしくおほの)神の女、名は刺國若比賣(さしくにわかひめ)を娶して生める子は、大國主神。亦の名は大穴牟遲(おほなむちの)神と謂ひ、亦の名を葦原色許男(あしはらしこをの)神と謂ひ、亦の名を八千矛(やちほこの)神と謂ひ、亦の名を宇都志國玉(うつしくにだまの)神と謂ひ、幷せて五つの名あり。」

 この名前のそれぞれに注釈がついています。

大國主神 ・・・ 国を支配する神の意。
大穴牟遲(おほなむちの)神 ・・・ 名義不詳。
葦原色許男(あしはらしこをの)神 ・・・ 葦原中国の醜い男の意。
八千矛(やちほこの)神 ・・・ 多くの矛を持つ神の意。
宇都志國玉(うつしくにだまの)神 ・・・ 現実の国土の神霊の意。

 この大国主神こそ東国を変えた革命児だと考えています。それは黄泉の国、根の堅州國という狩猟民の国、つまり、未だ弥生文化が伝播していない国から、葦原中つ国という水稲耕作民の国、つまり、弥生文化が伝播した国への変革です。そこには多くの迫害があり、それを乗り越えていかなければいけない現実があったのです。

 下野国の宇都宮の地名は、宇都志國玉神の宇都を取ってつけたものではないかと考えています。

第五話 古事記<上つ巻> 大国主神

その一 「稲羽の素兎」

 「故、この大國主神の兄弟、八十(やそ)神座しき。然れども皆國は大國主神に避(さ)りき。避りし所以は、その八十神、各稲羽の八上比賣(やがみひめ)を婚(よば)はむ心ありて、共に稲羽に行きし時、大穴牟遲神に袋を負(おほ)せ、従者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。」

 ここで裸の兎に出会ったとき、八十神は「海水を浴びて、風が吹くところに伏せているとよい」と言い、その通りにしていると、身の皮が剥がれて皮膚にひびが入り、痛み苦しみました。最後に来た大穴牟遲(おほなむちの)神は兎の事情を聞いた上で「すぐに淡水で身を洗って、薬を塗れば必ず治る」と助言し、その通りにすると兎の傷は癒えました。

 「故、その兎、大穴牟遲神に白ししく、『この八十神は、必ず八上比賣を得じ。袋を負えども、汝命獲たまはむ。』とまをしき。」

その二 「八十神の迫害」

 「ここに八上比賣、八十神に答へて言ひしく、『吾は汝等の言(こと)は聞かじ。大穴牟遲神に嫁(あ)はむ。』といひき。故ここに八十神怒りて、大穴牟遲神を殺さむと共に議(はか)りて・・・」

 怒った八十神は大穴牟遲神を殺してしまいますが、大穴牟遲神の母は、神産巣日之(かみむすひの)神に願い出て、大穴牟遲神を生き返らせます。

その三 「根の国訪問」

 八十神は再び大穴牟遲神を殺しますが、その母は再び大穴牟遲神を生き返らせて「ここに居ては八十神に滅ばされてしまうので、須佐之男命の坐す根の堅州国に行きなさい。必ず須佐之男命がなんとかしてくれるでしょう。」と言って送り出します。

 「故、詔りたまひし命の随(まにま)に、須佐之男命の御所に参到れば、その女(むすめ)須勢理毘賣(すせりびめ)出で見て、目合して、相婚ひたまひて、還り入りて、その父に白ししく、『甚(いと)麗しき神來たりつ。』とまをしき。ここにその大神出で見て、『こは葦原色許男(あしはらしこを)と謂ふぞ。』と告(の)りたまひて、すなわち喚(よ)び入れて、その蛇の室に寝しめたまひき。ここにその妻須勢理毘賣命、蛇の領巾(ひれ)をその夫に授けて云りたまひしく、『その蛇咋(く)はむとせば、この領巾を三たび挙(ふ)りて打ち撥(はら)ひたまへ。』とのりたまひき。故、教への如せしかば、蛇自ら静まりき。故、平(やす)く寝て出でたまひき。また来る日の夜は、呉公(むかで)と蜂との室に入れたまひしを、また呉公蜂(むかではち)の領巾を授けて、先の如教へたまひき。故、平(ひら)く出でたまひき。また鳴鏑(なりかぶら)を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき。故、その野に入りし時、すなはち火をもちてその野を廻(もとほ)し焼きき。ここに出でむ所を知らざる間に、鼠来て云ひけらく、『内はほらほら、外はすぶすぶ。』といひき。かく言へる故に、其処を蹈みしかば、落ちて隠り入りし間に火は焼け過ぎき。ここにその鼠、その鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき。」

 大国主神は須佐之男命の所へ行くと、その娘の須勢理毘賣に出会って結婚しました。心よく思っていない須佐之男命は大国主神を蛇の室に入れると、須勢理毘賣はその蛇を避ける領巾を授けて助けました。また次の日は、大国主神を呉公(むかで)と蜂の室に入れると再び、須勢理毘賣はその呉公蜂(むかではち)を避ける領巾を授けて助けました。また鳴鏑の矢を野に射入れて、大国主神に取りに行かせたとき、その野に火を放って焼きました。ところが鼠が出てきて穴に入れて大国主神を隠して助けました。しかし、須勢理毘賣は大国主神が死んでしまったと思ったのです。

 さて、この話を聞いたとき、その場所はここ以外にはないと確信しました。男体山と日光白根山の間にある戦場ヶ原です。

 若い頃、テントを担いで日光白根山を登りに行きました。往きは戦場ヶ原をバスで過ぎて、その先の湯元でテントを張り、ピストンで日光白根山を登って、一泊。翌日、湯元のテントを撤収して担ぎ、戦場ヶ原を歩いたのです。戦場ヶ原という以上は実際に大きな合戦があったに違いないと思って調べてみると驚きました。

 以下はウィキペディアから引用しました。

 「戦場ヶ原神戦譚」には、地名の由来となった伝説が記されている。すなわちこの湿原は、当時下野国(現在の栃木県)の二荒神(二荒山(男体山))と上野国(ほぼ現在の群馬県)の赤城神(赤城山)がそれぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて戦った戦場であるというもの。なお、争いの原因は中禅寺湖を巡る領地争いで、この伝説で勝ったのは二荒神(男体山)であったとされる。
 毛野国が上野国・下野国に分かれるのは古事記・日本書紀執筆以前のことであり、当時有力な豪族が割拠したケヌの国の中心であるこの地で実際に戦乱があった可能性が指摘されている。

 つまり、男体山が蛇で、赤城山はムカデなのです。そして、戦場ヶ原には実際に野ネズミが生息し、活動しています。戦場ヶ原は鉄分が多いため、赤く染まっています。このことから火で焼けているようにも見えるのではないでしょうか。

 「ここにその妻須勢理毘賣は、喪具(はふりつもの)を持ちて、哭きて來、その父の神は、已に死(みまか)りぬと思ひてその野に出で立ちたまひき。 ・・・
 その大神、・・・、心に愛(は)しく思ひて寝ましき。ここにその神の髪を握(と)りて、その室の椽毎(たりきごと)に結(ゆ)ひ著(つ)けて、五百引(いほびき)の石をその室の戸に取り塞(さ)へて、その妻須勢理毘賣を負ひて、すなはちその大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)<注:生き生きとした生命にあふれる大刀と弓矢。須佐之男命の武力(政治的支配力)を象徴している。>と、また天の詔琴(のりごと)<注:託宣に用いる琴。須佐之男命の宗教的支配力を象徴している。>を取り持ちて逃げ出でます時、その天の詔琴樹に拂(ふ)れて地動(つちとよ)み鳴りき。故、その寝ませる大神、聞き驚きて、その室を引き仆(たふ)したまひき。然れども椽(たりき)に結ひしき髪を解かす間に、遠く逃げたまひき。故ここに黄泉比良坂(よもつひらさか)に追ひ至りて、遥(ほろぼろ)に望(みさ)けて、大穴牟遲神を呼ばひて謂ひしく、『その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥(はら)ひて、おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女須勢理毘賣を嫡妻(むかひめ)として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴。』といひき。故、その大刀・弓を持ちて、その八十神を追ひ避くる時に、坂の御尾毎に追ひ撥ひて、始めて國を作りたまひき。」

 須佐之男命が寝ている間に、大國主神は須勢理毘賣を背負い、生大刀・生弓矢・詔琴を奪って逃げたのです。須佐之男命は気付いて追ったのですが、追うのを諦めて、「お前が持つ生大刀・生弓矢を用いて、また、須勢理毘賣を正妻に迎えて、國を作れ。この野郎。」と言ったのです。つまり、須佐之男命の持つ支配力を大國主神に譲ったわけです。

 この生大刀こそ、『草薙の剣』だと考えています。

その四 「沼河比売求婚」

 高志國の沼河比賣と結婚します。これにより、高志國も支配下に入れたと考えます。

その五 「須勢理毘売の嫉妬」

 須勢理毘賣は嫉妬しますが、この件も無事に落着します。

その六 「大国主の神裔」

 「故、この大國主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘賣命を娶(めと)して生める子は、阿遲鉏高日子根(あぢすきたかひこねの)神。」

 この何気なく書かれている文章こそ、私が最も注目するところです。初めて、天津神と国津神が結婚して子が生まれるのです。

天津神(西国を中心) 伊邪那岐命 → 天照大御神 → 宗像三女神
国津神(東国を中心) 伊邪那美命 → 須佐之男命 → 大国主神

 そして、この親子の神々を祀っているところは、日光・二荒山神社なのです。

神体山祭神
男体山(二荒山)大己貴命(おおなむちのみこと)
 ← 大國主神
女峯山田心姫命(たごりひめのみこと)
 ← 多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)<宗像三女神の長女>
太郎山味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
 ← 阿遲鉏高日子根(あぢすきたかひこねの)神
<注:古事記と日本書紀で神の呼び名が異なっています。>

 須佐之男命に捕らわれの身となっている宗像三女神の長女が大國主神と結婚するのです。

 後の世で同じようなことが起こっているとは思いませんか。源頼朝が捕らわれて伊豆の北条氏に幽閉されたときのことです。源頼朝は北条政子と繋がり、最終的に北条氏を抱き込みました。
 ここでも須佐之男命に捕らわれた宗像三女神の長女が大國主神と繋がり、最終的に大國主神が支配する東国を抱き込んだということが考えられるのではないでしょうか。

その七 「少名毘古那神と国作り」

 大國主神は船に乗って帰って来る神がいるので、その神の名を聞いても誰も知らないと言います。そのとき、ひきがえるが答えたのです。

「ここに谷蟆(たにくく)<注:ひきがえる>白しつらく、『こは崩彦(くえびこ)<注:かかし(案山子)>ぞ必ず知りつらむ。』とまをしつれば、すなはち崩彦を召して問はす時に、『こは神産巣日(かみむすひの)神の御子、少名毘古那(すくなびこなの)神ぞ。』と答へ白しき。故ここに神産巣日の御祖(みおやの)命に白し上げたまへば、答へ告(の)りたまひしく、『こは實(まこと)に我が子ぞ。子の中に、我が手俣(たなまた)より漏(く)きし子ぞ。故、汝葦原色許男命と兄弟となりて、その國を作り堅めよ。』とのりたまひき。故、それより、大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この國を作り堅めたまひき。」

 ここに登場する「ひきがえる」や「かかし(案山子)」は田んぼを連想させます。よって、大穴牟遲と少名毘古那との二柱で作った国というのは、狩猟生活から水稲耕作生活へと転換を進めて完成させたものだと考えられます。

 また、少名毘古那神が祀られている神社を見てみましょう。

旧社格(明治神社誌料)式内社(延喜式神名帳)
少彦名命(旧社格)少彦名命(式内社)

 上図の式内社の中心にある神社は伊香保神社です。伊香保神社は群馬県渋川市伊香保町にあり、榛名山の麓です。そして、その西には利根川を挟んで赤城山があります。
 前述の戦場ヶ原の伝説から推測すると、少名毘古那神の所在地はムカデとなった赤城山付近の地域のことではないでしょうか。

 「然て後は、その少名毘古那神は、常世(とこよ)國に度(わた)りましき。故、その少名毘古那神を顕(あら)はし白せし謂はゆる崩彦は、今者(いま)に山田のそほどといふぞ。この神は、足は行かねども、儘に天の下の事を知れる神なり。」

 少名毘古那神は常世へ行ってしまいますが、その神の名を言った崩彦(かかし)は歩けないけれども、儘く天の下の事を知る神というのが意味深です。

 「ここに大國主神、愁ひて告りたまひしく、『吾獨(あれひとり)して何(いか)にかよくこの國を得作らむ。孰れの神と吾と、能くこの國を相作らむや。』とのりたまひき。この時に海を光(てら)して依り來る神ありき。その神の言(の)りたまひしく、『よく我が前を治めば、吾能く共興(とも)に相作り成さむ。若し然らずは國成り難けむ。』とのりたまひき。ここに大國主神曰ししく、『然らば治め奉る状(さま)は奈何(いか)にぞ。』とまをしたまへば、『吾をば倭の青垣の東の山の上に拜(いつ)き奉(まつ)れ。』と答へ言(の)りたまひき。こは御諸(みもろ)山の上に坐す神<注:奈良県磯城郡三輪山の大神(おおみわ)神社の祭神>なり。」

 ここで書かれている『海を光して依り來る神』こそ、東国平定にやってきたヤマト政権、すなわち、ヤマトタケルを筆頭にした物部氏、中臣氏、蘇我氏、宗像氏ではないでしょうか。まさにこのとき、鹿島灘にその全軍の姿を現し、利根川河口に、拠点としての鹿島神宮(祭神・武甕槌神)や香取神宮(祭神・経津主神)を構えたと想像出来ます。
 だから、大國主神に大和の御諸山(三輪山)を拝し奉れと言ったのです。

 後の崇神天皇の段に書かれている意富多多泥古(おほたたねこ)命は御諸山(三輪山)の神主になったことを思い出して下さい。

その八 「大年神の神裔」

 大年神もまた、たくさんの神を生みました。

第六話 古事記<上つ巻> 葦原中国の平定

その一 「天菩比神」

 「天照大御神の命もちて、『豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みづほの)國は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(まさかつあかつはやひあめのおしほほみみの)命の知らす國ぞ。』と言(こと)よさしたまひて、天降(あまくだ)したまひき。」

 ここで注目点は二つあります。

 葦原中つ国を『豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みづほの)國』と言っていますから、東国は完全に狩猟民から水稲耕作民の国に変わったということです。

 次に、『我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(まさかつあかつはやひあめのおしほみみの)命の知らす國ぞ。』の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命とは、天照大御神が須佐之男命の誓約で、宗像三女神と交換した五柱の男神のうちの一柱です。
 ということは、須佐之男命が宗像三女神を人質のように得て、西国である高天原を攻めたのと同様に、今度は天照大御神が五柱の男神を人質のようにして、東国の葦原中つ国を攻めるということです。

 「ここに天忍穂耳命、天の浮橋に立たして詔りたまひしく、『豊葦原の千秋長五百秋の水穂國は、いたく騒ぎてありなり。』と告(の)りたまひて、更に還り上(のぼ)りて、天照大御神に請(まを)したまひき。」

 葦原中つ国は騒々しいというので、八百万の神と相談し、派遣する神を決めました。その神が天菩比(あめのほひの)神です。ところが、この神は大國主神にへつらい従ってしまい、三年経っても復命しませんでした。

その二 「天若日子」

 次に派遣された神は天若日子(あめのわかひこ)です。この神は大國主神の娘を娶って、その國を獲ようとしましたが、八年経っても復命しません。思金神は雉を使いに出しますが、天若日子はその雉を矢で殺してしまいます。

 「ここに高木神、『この矢は天若日子に賜へりし矢ぞ。』と告りたまひて、すなはち諸の神等に示せて詔りたまひしく、『或(も)し天若日子、命を誤たず、悪しき神を射つる矢の至りしならば、天若日子に中(あた)らざれ。或し邪(きたな)き心有らば、天若日子この矢に禍(まが)れ。』と云ひて、その矢を取りて、その矢の穴より衝き返し下したまへば、天若日子が朝床に寝し高胸坂に中(あた)りて死にき。・・・」

 天若日子は雉を打った矢を高木神から突き返されて、その矢に中って死んでしまいます。
 天若日子の妻、下照比賣の泣く声は天津國玉神などにとどき、皆で悲しみました。そして、喪屋<注:死骸を安置する家>を作って、それぞれの役割を決めて八日八夜の間歌舞をしました。

 「この時、阿遲志貴高日子根(あぢしきたかひこねの)神到て、天若日子の喪を弔ひたまふ時に、天より降り到つる天若日子の父、またその妻、皆哭きて云ひしく、『我が子は死なずてありけり。我が君は死なずてましけり。』と云ひて、手足に取り懸りて哭き悲しみき。その過(あやま)ちし所以は、この二柱の神の容姿、甚よく相似たり。故ここをもちて過ちき。ここに阿遲志貴高日子根神、大く怒りて曰ひしく、『我は愛(うるは)しき友なれこそ弔ひ來つれ。何とかも吾を穢(きたな)き死人に比ぶる。』と云ひて、御佩(はか)せる十掬劔(とつかつるぎ)を抜きて、その喪屋を切り伏せ、足もちて蹶(く)ゑ離ち遺りき。こは美濃國の藍見河の河上の喪山ぞ<注:岐阜県長良川の上流。喪屋が落ちて来て山となったので喪山という。>。その持ちて切れる大刀の名は、大量(おおはかり)と謂ひ、亦の名は神度劔(かむどのつるぎ)と謂ふ。」

 ここで、阿遲志貴高日子根(あぢしきたかひこねの)神の登場です。この神は大國主神と宗像三女伸の長女・多紀理毘賣命の間に出来た子です。国津神と天津神を結び付けた象徴です。

 阿遲志貴高日子根神は天若日子の弔いに参加したのですが、天若日子の父や妻から阿遲志貴高日子根が天若日子に似ていたので、「天若日子は死んでいない」と言われたのです。阿遲志貴高日子根神は自分を死人に比べるのかと怒って、剣を抜き、喪屋を壊し、蹴飛ばしてしまいました。その喪屋が落ちたところが、美濃國の長良川の上流。そして、喪屋を壊した剣の名前は、大量(おおはかり)、或いは、神度劔(かむどのつるぎ)と言います。

 まあ何とも英雄的な話でなく、古事記で取り上げるべき事柄なのかとも思ってしまいますが、剣の名前まで授かっています。そして、挙句の果てに次のように、阿遲志貴高日子根神の歌まで詠んでいるのです。

 「天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 二(ふた)渡らす 阿治志貴高(あぢしきたか) 日子根(ひこね)の神ぞ。」
<注:天上界にいるうら若い機織り女が、頸にかけておいでの一本の緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のように谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジシキタカヒコネの神である。この歌は雷神の電光を賞嘆したもの。>

 この何とも英雄的でない話に意味があるとすれば、喪屋を壊した剣に大量(おおはかり)、或いは、神度劔(かむどのつるぎ)と名前が付いていること。そして、喪屋を蹴飛ばして落ちたところが美濃国の長良川の上流。
 この長良川を下って行けば尾張国になり、『草薙の剣』を祀っている熱田神宮があるのです。『草薙の剣』に繋げること以外に、この話に意味はないように思えます。

その三 「建御雷神」

 「故ここに天迦久(あめのかくの)神<注:鹿の神格化。鍛冶に使う鞴(ふいご)が鹿の皮で作られたために、鹿神が特別に使することになったのであろう。>を使はして、天尾羽張神に問はしし時に、答へ白ししく、『恐(かしこ)し。仕へ奉らむ。然れどもこの道には、僕が子、建御雷(たけみかづちの)神を遣はすべし。』とまをして、すなはち貢進(まてまつ)りき。ここに天鳥船神<注:雷は船に乗って天空と地上を往来するものと信ぜられていた。>を建御雷神に副(そ)へて遣はしたまひき。」

 いよいよ建御雷神が派遣されました。

その四 「事代主神の服従」

 「・・・、その大國主神に問ひて言(の)りたまひしく、『天照大御神、高木神の命もちて、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中國は、我が御子の知らす國ぞと言依さしたまひき。故、汝が心は奈何に。』とのりたまひき。ここに答へ白ししく、『僕は得白さじ。我が子、八重言代主(やへことしろぬしの)神、これ白すべし。然るに鳥遊をし、魚取りて、御大の前に往きて、未だ還り來ず。』とまをしき。故ここに天鳥船神を遣はして、八重事代主神を徴し來て、問ひたまひし時に、その父の大神に語りて言ひしく、『恐(かしこ)し。この國は、天つ神の御子に立奉らむ。』といひて、すなわちその船を蹈み傾けて、天の逆手を靑柴垣に打ち成して、隠りき。」

 大国主神の子である事代主神は服従しました。

その五 「建御名方神の服従」

 「故ここにその大國主神に問ひたまひしく、『今汝が子、事代主神、かく白しぬ。また白すべき子ありや。』ととひたまひき。ここにまた白ししく、『また我が子、建御名方(たけみなかたの)神あり。これを除きては無し。』とまをしき。かく白す間に、その建御名方神、千引(ちびき)の石を手末(たなすゑ)に擎(ささ)げて來て、『誰ぞ我が國に來て、忍び忍びにかく物言ふ。然らば力競(ちからくら)べせむ。故、我先にその御手を取らむ。』と言ひき。故、その御手を取らしむれば、すなはち立氷(たちひ)に取り成し、また劔刃(つるぎば)に取り成しつ<注:掴むと氷柱と化し、また剣の刃と化した>。故ここに懼れて退き居りき。ここにその建御名方神の手を取らむと乞ひ歸して取りたまへば、若葦を取るが如、掴む搤(つか)み批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、すなはち逃げ去にき。故、追ひ往きて、科野國の州羽の海<注:長野県の諏訪湖>に迫め到りて、殺さむとしたまひし時、建御名方神白ししく、『恐(かしこ)し。我をな殺したまひそ。この地を除きては、他處に行かじ。また我が父、大國主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。この葦原中國は、天つ神の御子の命に随(まにま)に献らむ。』とまをしき。」

 建御名方神もまた服従しました。建御雷神は建御名方神を赤子の手をひねるように簡単に屈服させてしまいます。

 『歴史の底流』に書きましたように、実際の平定は、建御雷神ではなく、蘇我騎馬軍が主体となり、ハンニバルがカンネの戦いでローマ軍を壊滅させたように、騎兵の威力によって容易に遂行したのだと考えます。

 平定後、利根川河口左岸の常陸国(鹿島神宮・武甕槌神)に上陸した中臣氏はそのまま常陸国を治めます。一方、利根川河口右岸の下総国(香取神宮・経津主神)に上陸していた物部氏は毛野を二つに分け、上毛野(貫前神社・経津主神)に移動して統治を始めます。また、上総国に上陸していた蘇我氏は信濃国に入り統治をすると共に、諏訪湖を水源として流れる天竜川沿い、すなわち、伊那谷で本格的に軍馬と騎兵の養成を始めたと考えています。

 後の平安時代の桓武天皇以降、親王任国が設置されましたが、それは常陸国、上総国、上野国なのです。私には上記の関係に無縁とは思われません。

 もうひとつ、蘇我氏と信濃国の関係については、磯城島金刺宮(しきしまかなさしのみや)がヒントになります。

 奈良県桜井市のホームページに、磯城島金刺宮伝承地が紹介されています。

<< 磯城島金刺宮伝承地 >>
 「磯城嶋金刺宮は、第29代欽明天皇が営んだ宮です。
 日本書紀には、欽明天皇の時、百済の聖明王から仏像や経文などが献じられ、我が国に仏教がはじめて公的に伝えられたことが記されています。
 この頃、仏教の受け入れについては賛否があったので、天皇は試しに大臣の蘇我稲目に仏像を授けて礼拝させました。」

 蘇我稲目が仏教伝来により欽明天皇に認められ、蘇我氏が朝廷内で急速に台頭した時期です。
 そして、磯城島金刺宮の金刺とは、金刺部氏として、ウィキペディアに次のように紹介されています。

「金刺氏は磯城島金刺宮朝に遷都した欽明天皇に、御名代・舎人として出仕し、宮名の一部である「金刺」を自分達の氏の名前に負ったと考えられている[1]。
・・・
 奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は、金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと見られ、伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領金刺舎人八麻呂がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に藤原仲麻呂の乱(764年)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。伊那郡や諏訪郡には、信濃国の御牧16牧のうち5牧があり、御牧が南信地域に多く置かれていたことがわかる。文献の面では、少なくとも奈良時代末期から金刺舎人氏が、馬によって中央との関係を持っていたことが知られている。金刺氏と馬は切り離し難い関係にあり、彼らが中央他のつながりを持つ際の手段の一つであったと考えられている[1]。」

 ここから、蘇我氏 → 金刺氏 → 信濃国という関係が見えてきます。

その六 「大国主神の国譲り」

 「故、更にまた還り來て、その大國主神に問ひたまひしく、『汝が子等、事代主神、建御名方神、二はしらの神は、天つ神の御子の命の随(まにま)に違はじと白しぬ。故、汝が心は奈何に。』ととひたまひき。ここに答へ白しく、『僕が子等、二はしらの神の白す随に、僕は違はじ。この葦原中國は、命の随に既に献らむ。・・・
・・・
また僕が子等、百八十神(ももやそがみ)は、すなはち八重事代主神、神の御尾前となりて仕へ奉らば、違ふ神はあらじ。』とまをしき。」

 大国主神は事代主神と建御名方神が認めるのであれば、国譲りをするということに決めました。

 古事記の上つ巻では、この後に『邇邇芸命』と『火遠理命』の章がありますが、これらは東国の話ではなく、日向の話だと考えています。つまり、呉の末裔が難民となり、揚子江河口付近から日向に上陸したときの話ではないかと・・・。よって、ここではこれらの章の説明は割愛します。。

第七話 ヤマト政権における東国統治

 国譲り後、古代日本は統一を果たすのですが、ヤマト政権と東国はどのような関係になったのかを記述しているところが、「中つ巻 崇神天皇」の段なのです。『豊木入日子(とよきいりひこの)命は上つ毛野、下つ毛野君等の祖』、『三輪山伝説』、『初国知らしし天皇』などが記載されているのは、そのような理由からなのです。

ここでは、三つのポイントについて述べます。
1. ヤマト政権から東国に派遣された統治者
2. 東国から大和に送られた人質
3. 東国支配の象徴である剣の行方

1. ヤマト政権から東国に派遣された統治者

 ヤマト政権から東国に派遣された統治者というと、上つ毛野、下つ毛野の祖である豊木入日子命です。宇都宮・二荒山神社に祀られています。
 この部分を日本書紀の崇神天皇四十八年正月条で見てみましょう。

 「四十八年の正月十日に、天皇は豊城命(とよきのみこと)・活目尊(いくめのみこと)に勅して、

『お前たち二人に寄せる私の慈悲は、まったく同じである。さて、どちらを皇太子に立てたらよいのか分からない。そこで、それぞれが夢を見るがよい。私は、その夢によって占うことにしよう。』

と仰せられた。
 二人の皇子は、天皇の命を受けて、水浴して身髪を洗い清め、お祈りして寝た。すると、それぞれ夢を見た。夜明けに兄豊城命は、夢のお告げを天皇に奏上して、

『私は御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって八回槍を突き出し、八回刀を撃ち振りました。』

と申し上げた。弟活目尊も、夢のお告げを奏上して、

『私は御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べる雀を追い払いました。』

と申し上げた。そこで天皇は夢占いをされて、二人の皇子に、

『兄は、もっぱら東方に向いていた。そこで、東国を統治するがよい。弟は、四方のすべてに臨んでいた。まさに私の位を継ぐのにふさわしい。』
と仰せられた。
 四月十九日に、活目尊を皇太子とされた。豊城命に命じて、東国を統治させられた。これが、上毛野君(かみつけののきみ)・下毛野君(しもつけののきみ)の始祖である。」<宮澤瑞穂著 日本書紀全訳【上巻】より>

 皇太子にされた活目尊が夢で『雀を追い払った』というところに注目します。
 『歴史の底流 第十四話 葛城氏(住吉氏)優勢の時代』のところでヤマトタケルは景行天皇の段に記述されていますが、この景行天皇を架空の天皇だと仮定しました。すると、ヤマトタケルも架空になってしまいます。そこで、実在するヤマトタケルはどの皇子になるのかを検討しました。これと上述のことを組み合わせると次のようになります。

応神天皇(実在)景行天皇(架空)崇神天皇(架空)
大雀(おほさざきの)命
【仁徳天皇】
× 大碓(おほうすの)命活目尊(いくめのみこと)
× 宇治能和紀郎子(うじりわきいらつこ)小碓(をうすの)命
【ヤマトタケル】
豊城命(とよきのみこと)
<豊木入日子命>
(注:× 記紀では早逝してしまう)

 活目尊が見た夢の雀と、後に仁徳天皇となった大雀命と一致しませんか。とすれば、もう一方の豊城命<豊木入日子命>は、宇治能和紀郎子であり、後にヤマトタケルとなった小碓命と同一人物ではないでしょうか。つまり、

 豊城命<豊木入日子命> = ヤマトタケル

です。

 現在、下野国一之宮である二荒山神社を見てみますと、
宇都宮・二荒山神社 主祭神 豊城入彦命
日光・二荒山神社 主祭神 二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称)
となっています。

 ヤマト政権から統治者として派遣された豊城入彦命は、宇都宮・二荒山神社に入り、従来、毛野を統治していた大国主神(大己貴命)は隠居して日光・二荒山神社に入ったということではないでしょうか。

2. 東国から大和に送られた人質

 東国から大和に送られた人質として考えらえるのは、御諸山<三輪山>の神主になった意富多多泥古(おほたたねこ)です。
 「第三話 古事記<上つ巻> 伊邪那岐命と伊邪那美命 その六『黄泉の国』」で、私は『意富加牟豆美(おほかむづみの)命と意富多多泥古(おほたたねこ)が、ダブって見えて仕方がないのです。』と書きました。
 東国を狩猟民の国である黄泉の国、或いは、根の国から、水稲耕作民の国である葦原中つ国に変えていく神という視点で見てみましょう。

● 意富加牟豆美(おほかむづみの)命
 伊邪那美命は黄泉の国を訪問して、そこから逃げ帰る時、
 「ここに伊邪那岐命、その桃子に告(の)りたまひしく、『汝、吾を助けしが如く、葦原中國にあらゆる現(うつ)しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし。』と告(の)りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみの)命と號(い)ひき。」
と言って、意富加牟豆美(おほかむづみの)命を黄泉の国(東国)に残したのです。東国を狩猟民の国から水稲耕作の国へと変える布石を打ったと考えられます。

● 大国主神
 稲羽の素兎のところで、その兎は大国主神に言います。

「この八十神は、必ず八上比賣を得じ。袋を負へども、汝命獲たまはむ。」

 この袋をかつぐとは賤しい仕事をしているという意味です。その大国主神は八十神から何度も迫害を受けますが、八十神のボスと言ってもよい須佐之男命が住む根の国を訪問します。須佐之男命からも何度も嫌がらせを受けますが、その度に結婚した須勢理毘賣から助けられます。そして、最後は須勢理毘賣を背負い、須佐之男命の政治的支配力を象徴する生大刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、そして、宗教的支配力を象徴する天の詔琴(のりごと)を奪って根の国から逃げるのです。その時、須佐之男命は次のように言いました。

 「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また、河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大國主神にとなり、また宇都宮志國玉神となりて、その我が女須勢理毘賣を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴(やっこ)。」

 つまり、大国主神は、須佐之男命から東国の支配権を譲り受けたわけです。そして、少名毘古那神と共に、狩猟民の国から水稲耕作の国へと作り替えたのです。

● 阿遲鉏高日子根(あぢすきたかひこねの)神

 大国主神は宗像三女伸の長女・多紀理毘賣命を娶り生んだ子が阿遲鉏高日子根(あぢすきたかひこねの)神です。いわば、国津神(大国主神)と天津神(宗像三女神)の結晶の象徴です。

 この阿遲志貴高日子根神は天若日子の弔いに参加したのですが、天若日子の父や妻から阿遲志貴高日子根が天若日子に似ていたので、「天若日子は死んでいない」と言われたのです。阿遲志貴高日子根神は自分を死人に比べるのかと怒って、剣を抜き、喪屋を壊し、蹴飛ばしてしまいました。その喪屋が落ちたところが、美濃國の長良川の上流です。

 古事記では上述したようになっていますが、美濃国に落ちていったのは阿遲志貴高日子根神自身、つまり、人質として送られたのではないかと考えているのです。ですから、その後に読まれた歌、

「天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 二(ふた)渡らす 阿治志貴高(あぢしきたか) 日子根(ひこね)の神ぞ。」
<注:天上界にいるうら若い機織り女が、頸にかけておいでの一本の緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のように谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジシキタカヒコネの神である。この歌は雷神の電光を賞嘆したもの。>

 これは人質として送られる阿遲志貴高日子根神の悲哀を歌ったものではないでしょうか。

● 意富多多泥古(おほたたねこ)

 「この天皇の御世に、疫病多(さは)に起こりて、人民死にて盡きむとしき。ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らぎなむ。』とのりたまひき。・・・」
・・・
 ここに天皇大(いた)く歡びて詔りたまひしく、『天の下平らぎ、人民(たみ)榮えなむ。』とのりたまひて、すなわち意富多多泥古命をもちて神主(かむぬし)として、御諸(みもろ)山<注:奈良県磯城郡三輪山>に意富美和(おほみわ)の大神の前を拜(いつ)き祭りたまひき。」<古事記 崇神天皇「神々の祭祀」>

 『天の下平らぎ、人民(たみ)榮えなむ。』と言って、意富多多泥古命を御諸山(三輪山)の神主にしたのです。話の流れから推測すると、この意富多多泥古命こそ、人質として送られた阿遲志貴高日子根神に違いないと考えるのです。

3. 東国の支配の象徴である剣の行方

 伊邪那美命から引き継がれていく東国の支配の象徴と言える刀は次のように変遷していきます。

天之尾羽張(あめのをはばり)、
伊都之尾羽張(いづのおはばり)
草薙の大刀生大刀(いくたち)大量(おおはかり)、
神度劔(かむどのつるぎ)
伊邪那美命が生んだ『火』を利用して製作須佐之男命がヤマタノオロチ退治で獲得大国主神が根の国から逃げる時、須佐之男命から奪取阿遲鉏高日子根命が喪屋を壊した時に使用

 記紀では、草薙の大刀は須佐之男命がヤマタノオロチ退治で取得したすぐ後に、天照大御神に送られたことになっています。

 しかし、東国の支配の象徴である刀を簡単に須佐之男命が敵対する天照大御神に渡すことはないだろうと考えます。草薙の大刀は大国主神に生大刀となって引き継がれ、そして再び、阿遲鉏高日子根命の大量(おおはかり)、神度劔(かむどのつるぎ)として引き継がれたのです。

 この阿遲鉏高日子根命が大和へ人質として落ちて行く時に、大量(おおはかり)、神度劔(かむどのつるぎ)として携えたのではないでしょうか。

 大量の『量』も、神度劔の『度』も「はかる」という意味があります。さらにそれを合わせた『度量』という言葉を漢和辞典で調べますと次の通りです。

度量 「①ものさしと、ます。②長さと容積。③人の言動を受け入れて認める心のゆとり。」<漢字源(学研)>

 この③に書かれた内容がこの刀の持つ真の意味ではないでしょうか。東国の支配者は国譲りするという度量を持っているのだぞと・・・。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。