[撮影四方山話] 2500年前 富士山山体崩壊
- オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。
火山は噴火などによって被害を与える一方、温泉などの恵みも与えてくれます。自然と上手にお付き合いする知恵と工夫をもっと磨かなければなりません。
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<目次>
1.[撮影四方山話] 2500年前 富士山山体崩壊
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「御嶽山噴火を考える ―体験者の声を聞く―」
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1.[撮影四方山話] 2500年前 富士山山体崩壊
昨年暮れの12月4日、東京慈恵会医科大学高木2号館南講堂で日本山岳会110周年記念シンポジウム『御嶽山噴火を考える -体験者の声を聞く-』が開催されました。
その最初の講演者は同会科学委員長の福岡孝昭氏で『火山噴火と安全登山』について発表されました。
その講演の最後のところで、「2500年前 富士山は山容が変わってしまうほどの山体崩壊を起こしました。崩壊した部分は箱根山にぶつかり、一方は駿河湾へ、そして、もう一方は相模湾に達しました。」と述べられたのです。
そのとき、私は「遠い昔に大変なことが起こったんだなあ」程度にしか感じていませんでした。
帰りの電車の中、車窓から東京の街のネオンをボーっと見ながら「ちょっと待てよ。2500年前というと紀元前500年頃のことであり、有史はすでに始まっている。そんなに遠い昔のことではない。」と気付いたのです。
紀元前500年頃、西アジアではペルシャ帝国がオリエントを統一し世界最大の強国となっていました。その勢いでアテネ、スパルタに侵攻してペルシャ戦争が勃発しました。
アテネ、スパルタ連合の抵抗は激しく、サラミスの海戦でペルシャ軍を打ち破ったのでした。その後、アテネ全盛のペリクレスの時代に入ります。
「我々アテネ人は、どの国の政体をも羨望する必要のない政体をもっている。他国のものまねをしてつくった政体ではない。他国の方が手本にしたいと思う政治体制である。少数のものによって支配されるのではなく、市民の多数が参加する我らの国の政体は民主制と呼ばれる。」
ペリクレスの誇らしげな顔が見えるようです。
一方、紀元前500年頃の東アジアでは黄河流域の中原を中心として発展し、春秋時代に入っていました。孔子が活躍していたのはこの頃です。
その後、晋の韓、魏、趙が自立して戦国時代に入り、戦禍は中国全土に広がっていました。
「秦の白起将軍、韓、魏の軍を伊闕に破り、斬首12万人に及ぶ。」
誰しもが戦々恐々としたに違いありません。
この戦禍から免れたいと思った人々が揚子江河口辺りからボートピープルとなって脱出。そして、日本にたどり着き、水稲技術を伝えたのではないかと考えます。
(注: 紀元前1世紀頃、前漢時代の経済産業地図を見ていますと、黄河と揚子江の間に米作の西北限界が書かれています。つまり、揚子江流域では米作が出来ますが、黄河流域では畑作が中心で米作が出来なかったようです。
そのことから、水稲技術は朝鮮半島を通って日本に伝わったとは考えづらいのです。)
水稲技術を伴う弥生文化は紀元前300年に北九州から始まり、紀元前100年には近畿・東海、そして、紀元100年には東北南部にまで達しています。
ここで再び紀元前500年頃の富士山山体崩壊が起こったときに戻ります。
この頃、関東平野は現在のような形ではありませんでした。現在の東京湾のさらに深くに奥東京湾があり、埼玉県浦和辺りが浦と名の付くに相応しい海岸線でした。
そこに住んでいた縄文人のシャーマンが次のように言ったとしても何の不思議もないでしょう。
「これ(富士山山体崩壊)は神のお告げじゃ。古き世(縄文時代)は去り、新しき世(弥生時代)が来る!」
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品
作品名 「御嶽山噴火を考える ―体験者の声を聞く―」
制作 公益社団法人日本山岳会 医療委員会
作品時間 174分
昨年暮れの12月4日、公益社団法人日本山岳会医療委員会の主催により日本山岳会110周年記念シンポジウム『御嶽山噴火を考える -体験者の声を聞く-』が、東京慈恵会医科大学高木2号館南講堂で開催されました。
講演者は3人。
まず、同会科学委員長の福岡孝昭氏による「火山噴火と安全登山」の講演。火山噴火のメカニズムについて初心者にもわかるように説明されました。
次に、噴火口から350メートル付近におられて噴火を実際に体験された登山ガイドの小川さゆり氏から「御嶽山噴火に対する想い」が発表されました。
そして最後に、実際に災害現場に行かれた上條剛志氏から「御嶽噴火災害における医療活動」が報告されました。現場の生々しい声が聞かれ、今後の活動に対する課題点も取り上げられました。
いずれの講演も内容が濃く、マスメディアには取り上げられることのない、このシンポジウムに参加しなければ聞くことの出来なかったことが多数含まれていましたので、会場を埋め尽くした満員の聴衆の皆さんに大きな感銘を与えました。
中でも実際に噴火を体験された小川さゆり氏の発表は圧巻でした。
私は会場の一番後ろからカメラを回していたのですが、聴衆の皆さんが固唾を飲んで聞いているのがよくわかりました。
聴衆の皆さんが誰も息をせずに聞き入っている感じなのです。彼女の声以外は一切の音がなく、まるで「シーン」という音がしているかのような錯覚。
彼女の誇張することのない、淡々とした語り口は想像を絶する真実を聴衆の皆さんに突きつけました。
要約すると・・・、
11時52分 1回目の噴火。
「ドドーン」という鈍い音がして振り返ると、噴煙と噴石が高く舞い上がっていた。即座に噴火だと判断し、登山道脇のなんとか体が隠れる岩に張り付く。
同時に硫化水素らしいガスにまかれる。喉を押さえてのたうちまわる。
「もうだめだ」と思った瞬間風向きが変わり、息が出来るようになった。
2分後、放り出された噴石が空気を切り裂いて降り出した。猛烈な量とスピードと大きさ。岩と岩がぶつかり砕ける音が凄まじい。
6、7分後、噴石が落ち切って冷たい空気が入る。このままだとやられると思い、30メートル下の大きな岩の塊に移動。小さな穴に頭を入れるが、腰と右足は入らない。
2回目の噴火。
あたりは自分の手すら見えないほど真っ暗な闇に覆われ、約50分続く。
噴石と一緒に小さな石の粒がざんざんと降り出し、あっという間に腰まで積もる。
3回目の噴火。すさまじい爆発音。
電子レンジ、洗濯機、軽トラックほどの岩が飛んできた。灰が積もったおかげで、斜面では新雪に飛んできた岩が吸い込まれていく感じになった。
雷が真っ暗闇に3本走った。急に視界が広がりだし外へ出る。尾根の上まであがり、身を隠す岩を捜すが見当たらない。直感で一ノ池を突っ切って二ノ池のガレまで走ることを決断。その間、身を隠すところがないので、噴石がきたら、やられるが・・・。
13時10分頃、覚明堂に飛び込み、「助かった」と思う。
このシンポジウムの会場に足を運んだ聴衆の皆さんの中で、この凄まじい状況を予想していた人が一人としていたでしょうか。この事実を聞き終えてただ呆然とする以外に何が出来たのでしょうか。
最後に、彼女は語りました。
「この日、穏やかだった御嶽山は突然、噴火しました。そこにいた登山者は噴火に関わる者として人生を変えました。
生かされた者と命を落とされた方では生きているという決定的な違いはあります。しかし、生かされた者は恐怖感、自責の念、苦しい感情を抱え、苦難を乗り越えようとしています。
この先、あの日の光景、教訓を私は忘れません。
あのとき、自分の命を守ることしか出来ませんでした。しかし、自分の命は守れました。あのとき何もできなかったのなら、出来ることをすればいい。
登山者が見た噴火の恐ろしさと残していただいた教訓を伝えたい。
ただ、そう思っています。」