[撮影四方山話] 虜(とりこ)
- オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。
ああ、花粉症・・・。
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<目次>
1.[撮影四方山話] 虜(とりこ)
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「HOT CLIMBING(シリーズ)」
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1.[撮影四方山話] 虜(とりこ)
タイ・プラナンの話題も4回連続となっては、皆さんも飽きられることでしょう。まだまだ書きたいことはありますが、今回でタイ・プラナンの話題については一旦、筆を置きます。
最後にタイ・プラナンの虜になっていった理由について、私なりの意見を述べておきたいと思います。
私は計6回タイ・プラナンへ行きました。それほどタイ・プラナンに魅せられていたのです。ロサンゼルスに住む私の友人は当時、私と同じように毎年のようにタイ・プラナンへ行き、「タイ・プラナンは第2の故郷だ」と公言していました。また、私に同行した日本人クライマーのひとりはその後もタイ・プラナンに通い続け、タイ・プラナンで知り合った女性と結婚し、今ではそこのインストラクターのような仕事をしています。まさに彼の人生はタイ・プラナンそのものになってしまったと言っても過言ではありません。
20年前、世界中のクライマーを魅了し、タイ・プラナンに彼らを集結させた魅力とは一体、何だったのでしょうか。
それは世界でも類を見ない「Climbing & Resort」に成功したからです。つまり、クライマーによるクライミングルート開拓と地元住民による宿泊施設などのリゾート開発が車の両輪となってがっちりと噛み合ったからです。
世界中に良い岩場はたくさんあります。しかし、その良い岩場に集まってくるクライマー達はその岩場の近くのキャンプ場でテント生活を送るのが普通であり、リゾート地で悠々自適に生活していたわけではありませんでした。彼らはクライミングだけに没頭し、必要最低限のお金しか使いません。よって、地元住民にとってはありがたいわけではなく、トイレの問題や駐車場の問題でトラブルを起こし、なおかつ、墜落事故などが生じてしまっては迷惑以外の何者でもありませんでした。
「クライマー VS 地元住民」という構図は世界中至る所でありましたが、この両者が手を取り合って協力をするという姿は見たことがありませんでした。タイ・プラナンの場合、それが実現したのです。
だから、初めてタイ・プラナンに行ったとき、いつも毛嫌いされているはずのクライマーが暖かく迎え入れられたということが新鮮な喜びでした。居心地がいいのです。そして、すべてのものが安いので、お金でカリカリする必要はありません。日本での生活を考えれば、そこの生活は王様になったような気分です。
日本から来る私でさえ、そのように思ったのですから、北欧や北米からクリスマスの寒い時期に来るクライマーにとってはアジアのエキゾチックな魅力と共に、その地がパラダイスに見えたのも当然のことです。
昼間はクライミングで狂喜し、夕方、美しく澄んだエメラルドグリーンの海で汗を流す。そして、夜はバーで世界中から集まって来たクライミング仲間と共にビールを片手に語り明かす。旅で気持ちが大きくなっていますから、話は輪をかけて大きくなっていきます。世界中から集まって来たクライマー仲間と共有できるゴージャスな時間。
楽しい。楽し過ぎる。これを体験するとタイ・プラナンの虜になっていくのです。
しかし一方で忘れてならないのは、リゾート開発というものは大きな自然破壊を伴うということです。美しかった海は毎年白濁化が進み、もう元に戻ることは決してありませんでした。
すべてがうまくいくことなんてあり得ません。常に何かの犠牲を伴いながら進んでいくものですが、昔のタイ・プラナンを知っている人たちは自然とそこから足が遠ざかっていきました。過去の良い想い出を胸に秘めながら・・・。
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品
作品名 「HOT CLIMBING(シリーズ)」
制作 末次浩
「HOT CLIMBING」 (2001)
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=7
「HOT CLIMBING2」 (2002)
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=9
この2作品こそが、情報の少なかったタイ・プラナンを日本の多くのクライマーに紹介する決定的なものとなりました。
これらの映像情報がどれほど大きな存在であったかは当時の環境を見ればわかります。
登山用品販売店に出かけて行って、そこで販売されているものと言えば、欧米の著名人クライマーのVHSテープが主流であり、著名な日本人クライマーのビデオは数本しかありませんでした。
インターネットはまだ黎明期であり、個人のホームページが漸く広がっていったような時代。回線速度は256k-IMbps程度なので、インターネット上で配信する動画もマッチ箱のようなサイズのものが紙芝居でできる程度。それでも通信料が増えてしまうので、動画配信するには専用線を引いて、自宅でサーバーを立ち上げなければなりませんでした。もちろん、YouTubeなんてあるわけではありません。
「HOT CLIMBING2」の制作においては、私自身がまだサラリーマン生活でしたので、映像編集にかける時間は会社へ行く前の1-2時間程度。パソコンの性能だって今の比ではありません。また、この作品は現地で知り合ったドイツ人や香港人クライマーにも配布するため、英語のテロップを入れなければなりませんでした。よって、このひとつの作品を完成させるのに2か月ぐらいはかかりました。
一人の限られた時間でビデオ作品を制作するということがどういうことであるのかが、身に染みた時でした。そして、この映像情報の配布はVHSテープから代わって、当時出始めたDVDを媒体にして、郵送で送りました。ひとつの作品のインターネット上での動画配信なんて、夢のまた夢。
そして、この映像情報を欲しいと希望する日本各地のクライマーに配布され、そして、それはその地域の多くのクライマーに回覧されていったのです。
私にとって、タイ・プラナンとは世界各地のクライマーに出会えるきっかけであり、そして、その映像情報を配布することによって日本各地のクライマーと知り合えるきっかけでもありました。そして、その映像のもつ力(ちから)を実際に肌で感じた時でもありましたから、その後の自分の人生の時間を映像制作に携わることにかけてみたいとも思ったのです。
その後、いくつかのきっかけが重なって、サラリーマン生活に終止符を打ち、翌年、個人向け映像制作サービスとして、オリジナル・シー・ヴイを立ち上げました。
一方、リゾート開発が進み、ますます一般観光客が増えるタイ・プラナンに対する興味は次第に薄れて来ました。それに代わって、エーゲ海上の小さな島で大規模なクライミングルートの開拓が進めらているという情報がいち早く入って来ました。その数枚の写真を見ただけで、ここは行かなければならないと直感したのです。現地のクライマーにEメールを送り、いろいろな情報を取り寄せて企画を進めたのですが、その実現は容易ではありませんでした。
次回はその話から始めたいと思います。乞うご期待。