[素晴らしい教材から] 不可解な古事記
- オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。
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<目次>
1.[素晴らしい教材から] 不可解な古事記
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(後編)
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1.[素晴らしい教材から] 不可解な古事記
1620年 メイフラワー号でピルグリムファーザーズが新大陸アメリカに上陸してから、1776年 アメリカ合衆国が独立するまで156年かかっています。
そして一方、266年 倭女王壱与が西晋に朝貢して以降、147年間中国との国交、史書に倭の記録は見つかりません。俗に「謎の4世紀」と言われ、教科書には大和朝廷による統一が進んでいると書かれています。私はこの頃から続々と渡来人が日本に渡って来ているのではないかと考えています。
この双方の約150年という期間が新大陸アメリカの独立と新島日本の統一するスパンとしてマッチしているように見えるのです。
アメリカ合衆国が独立した後も続々と移民が上陸しているので、その移民達にとっては不安と希望が混ざり、今日オリンピックで見られるような「ユー、エス、エー! ユー、エス、エー!」と大合唱するようなアメリカ人としての愛国心を持つ余裕はまだなかったでしょう。
同じように、新島日本が統一した後も、続々と渡って来た渡来人においても「ニッポン、チャチャチャ! ニッポン、チャチャチャ!」というような日本人としての愛国心を持つ余裕はなかったと思います。そこにあるのはあえて言うならば、秦系日本人、漢系日本人、呉系日本人、新羅系日本人、百済系日本人、加羅系日本人、高句麗系日本人・・・。
その人々が同じ日本人としての意識を持ち始めるにはかなりの時間が必要であったと思いますし、そして、同じ日本人としての意識を持ち始める手段として、日本最古の歴史書である古事記、或いは日本書紀が果たした役割は計り知れないほど大きいと思います。
では、その古事記とはどのような書物であるのかを見ていきましょう。
古事記は上つ巻、中つ巻、下つ巻の3部で構成されています。上つ巻は高天原の神の話で、イザナギノミコト、イザナミノミコトの国造りからニニギノミコトが葦原の中つ国に天孫降臨する辺りまで。中つ巻はニニギノミコトの末裔である神武天皇の東征、ヤマトタケルノミコトによる全国平定後、仲哀天皇の后である神功皇后の新羅征討、そして、応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇まで。
つまり、上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。
この中つ巻の中で、私は何度読んでも腑に落ちない、奥歯に物が挟まったような感じがする所があります。それは仲哀天皇の出だしです。
「帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」
中つ巻の天皇の中で、神武天皇は日向から大和に東征するので別として、その他の天皇は仲哀天皇以外すべて大和、或いは大和の近くの宮に
「**宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」
となっているのです。
なぜ、仲哀天皇だけは大和近辺ではなく、突如として山口県の豊浦宮、或いは、福岡県の香椎宮に来たのでしょうか。そして、香椎宮にて突然崩御、神功皇后がピンチヒッターに立って新羅遠征となります。あまりの話の急展開で付いていけないばかりでなく、古事記全体のストーリーの中でも前後の繋がりがなく浮き上がってしまっています。
この仲哀記を省いてしまった方が古事記のストーリー性としては完ぺきなのです。なぜ、古事記の編纂者はこの仲哀記を無理に挿し込んだのでしょうか。
私にはこれを挿し込むことによって、白村江の戦いの敗北によって、すでに朝鮮半島から勢力を駆逐されているにも関わらず、未だに朝鮮半島の中にその勢力は存在するのだということを内外に誇示しておきたいがための脚色であったとしか考えられないのです。
次回は「宇佐と古事記」について語ります。
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品
作品名 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(後編)
制作 Original CV
作品時間 59分
阿部寛、上戸彩共演で『テルマエ・ロマエ』という映画が2012年に上映されました。
この冒頭のシーンで、フォロロマーノが完全に復元されている舞台設備に驚きました。「あー、ローマ帝国全盛の五賢帝時代に、フォロロマーノはこのような姿をしていたんだろうなあ」と感心してしまったのです。
映画の各シーンでのロケ地も完ぺきで「このシーンは元老院の前で、そして、このシーンはパラティーニの丘で撮ったんだ」とこちらにも重ねて感心してしまったのです。ロケ地の選択には地元イタリア人スタッフが十分に関与しているに違いないと思いました。
おー、ローマ!
紀元前753年4月21日、ロムルスが建国して以来、数々の栄光と挫折を繰り返して来たこの都市。何から話してよいのか・・・。
ローマ建国からローマ帝国滅亡までは、塩野七生氏の『ローマ人の物語』(文庫本で43冊)、Edword Gibbonの名著『The History Of The Decline And Fall Of The Roman Empire』(6巻、私はこれを読み切るのに2年かかってしまった)がありますので、そちらで堪能していただくとして、今回は私が見て来たローマの教会について話してみたいと思います。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂
この教会こそが中世の始まりを告げると言ってもよいのではないでしょうか。キリスト教を初めて公認したコンスタンティヌス帝が314年に建設し、法王に寄進した教会です。正面の天蓋の棚の中にあるペテロとパウロ像の頭の中にはそれぞれの頭蓋骨が納められていると言われています。現在でも新しい法王の就任式はこの教会で行われます。
私たちはこの教会に入り、大聖堂の中に並べられていた席に座っていたのですが、急に周りが慌ただしくなって来ました。そのまま気にせず、席に座っていたらミサが始まったのです。
「しまった。出るタイミングを失った。」
世界中から集まって来た多くの神父たちが列を作って入場して来ました。大聖堂の中をぐるりと回り、厳粛にミサが始まりました。
私には「・・・パードレ・・・パードレ・・・パードレ・・・」しかわかりませんでしたが、説教が終わり、アフリカから訪れた信者たちのミサ曲が歌われ、そして、最後は席に座った周りの人々と握手をして終わりました。私にとっては大変貴重な体験でした。
この教会の隣にあるラテラノ宮殿に歴代の法王は住んでいたのです。ところが、法王がアヴィニョンに幽囚されるという事件が発生して以降、法王の住居はヴァチカン宮殿に変わりました。
つまり、ヴァチカン宮殿とはひとつの要塞なのです。そして、ここにその後の歴代の法王が美術品を収集し始めました。免罪符を発行しなければならなかったほど高価な美術品収集や礼拝堂建設のために・・・。後に数百年戦争が続くカトリックとプロテスタントの火種がここにあるのです。
このヴァチカン宮殿(博物館)を訪れるとき、Aご夫妻に次のように言われました。
「ここはチケットの予約なんて出来ないから、入場する前に1-2時間は並ばなければならないけど、それを押しても見る価値は十分にあります。一生に一度は必ず見ておかなければならないところです。」
驚きました。
入場して以降、延々と続く価値の高い美術品の陳列。次の部屋も、次の部屋も、次の部屋も・・・。そして、圧巻はシスティーナ礼拝堂。世界中から訪れた入場者はトコロテン式に押し出されていくのですが、ここの天井・壁に描かれているアダムとイヴの創造を始めとしたフレスコ画を1分、1秒でも長く見ていたいのです。
係員は「前へ進んで下さい。前へ進んでください。・・・」と掛け声をかけているのですが、入場者たちはこの数分間のために世界中から集まって来たと言ってもよいほどなので押されても踏み止まって、結局、ごった返していました。
次はラファエロの間。アテネの学童を始めとした壁いっぱいのフレスコ画が見る者を圧倒します。
このラファエロの間を出て、次の展示物を陳列している部屋に入ったとき、私はもう疲れて見ることに飽きてしまいました。次の部屋の扉の中にその次の部屋の扉が見え、その次の部屋の扉の中にその次の部屋の扉が見え、それが延々と続いているのです。フラクタルの世界に入ったように・・・。
中国歴代の皇帝によって収集された宝物のある台北の故宮博物院、大英帝国が威信をかけて世界中から収集した遺跡物を有するロンドンの大英博物館。いずれもすごいとは思いますが、このヴァチカン宮殿を見てしまったら、何とちっぽけに見えてしまうことか・・・。
私はずばり、ヴァチカン宮殿の中に世界の富の半分はあると信じています。富とは何かをここに来て初めて知るのだと思うのです。