[素晴らしい教材から] 宇佐氏による大和東征計画
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<目次>
1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏による大和東征計画
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「シチリア、その夢」(後編)
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1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏による大和東征計画
前回、大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと書きました。
この遠征の主力部隊は水軍です。しかし、大和というのは奈良盆地にあるわけですから、ここを攻めるには水軍だけでは不十分です。
今風に言うならば、自衛隊は専守防衛なので上陸作戦に力を入れていないと思いますが、在日米軍で例えれば、「すでに宇佐水軍と宗像水軍を持っているから、横須賀のネイヴィはいらない。今、最も必要なのは沖縄のマリーンだ。」ということになるでしょう。
古代において、マリーンなんてないですから、それに対応するにはやはり馬を使った騎馬軍だと思います。さて、古代日本の中で優れた馬なんていうのはあるの?
そのヒントになるものがないかを記紀の中で探してみたら、ありました。
推古二十年(613)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があり、蘇我馬子の作った歌に和して推古女帝は蘇我をたたえる歌を作りました。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき (『日本書紀』)
私はこの歌に非常に興味があります。日向 ・・・ 呉 ・・・ 大君の側近としての蘇我氏 を結びつけるものだからです。蘇我馬子の墓は奈良県明日香村にある石舞台古墳とされていますが、周囲に土塁をめぐらした珍しいもので日本に4つしかありません。その内の2つが宮崎県の西都原古墳群の中にあるということは先の結びつきを深めているように思います。また、宮崎県串間市から直径33cm、厚さ6mm、重さ1600gというとんでもない超大型の壁が出土しており、呉との関係を窺わせます。
そこで次の仮設を立てます。
”中国南朝の呉の末裔である大君は日向に渡って来て、その側近に蘇我氏がいる”
ここでは、日向の蘇我氏、或いは、蘇我騎馬軍と呼ぶことにしておきましょう。
話は戻って、宇佐氏はこの蘇我騎馬軍を上陸部隊として抱き込んだと考えられます。宇佐神宮の境内の西参道に日本百名橋のひとつである屋根付きの木造橋があり、呉橋と呼んでいます。これも宇佐氏と、呉(橋)を通じて、蘇我氏と繋がっていることの証とはならないでしょうか。
いよいよ大和東征の主力の陣容が固まりました。宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍。
「・・・、吉備の高島宮に八年坐しき。」(古事記) ここで吉備水軍も合流。その後、
「故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ打ち羽拳き来る人、速吸門に遇いき。ここに呼び寄せて、『汝は誰ぞ。』と問ひたまへば、『僕は国つ神ぞ。』と答へ日しき。また、『汝は海道を知れりや。』と問ひたまへば、『能く知れり。』と答へ日しき。・・・」
ここでいう速吸門とは鳴門海峡のことだと考えられます。古事記ではここを通り、難波の渡りを過ぎて楯津で合戦後、痛手を負って引き下がり、南を回って熊野から侵入し成功したことになっていますが、実際の作戦はそのような直線的なものではないように思います。
淡路島手前の播磨灘で、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍、そして、別働隊として吉備水軍の船に乗り換えた蘇我騎馬軍に分かれます。
まず、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍は堂々と明石海峡を通って、大阪湾に入り、そして、古代に存在した河内湖に入って敵の大和の軍隊を引き付けます。
一方、蘇我騎馬軍を乗せ、水先案内人を付けた吉備水軍は少し時間を置いて、難所の鳴門海峡を渡り、手薄の紀の川河口に入ります。蘇我騎馬軍はここで上陸。ここから紀の川を遡行して東にさかのぼり、吉野の手前の奈良盆地の南端から盆地内に突入。
これが理に適った作戦ではないでしょうか。
と、ここまで大和東征がどのように行われたかを見て来ましたが、皆さん、不思議に思うことはないでしょうか。それは淡路島に至る西側で一度も戦いがないということ。つまり、淡路島以西を政治的にまとめ上げていることです。
卑弥呼の時代、倭国は乱れて、ようやく卑弥呼を共立することによって、国を治めていたのですから、それから時が経っているとはいえ、これだけの政治力を発揮できる実力者が従来の国の中から突然変異的に現れたとは考えにくいのです。
やはり、4世紀以降、渡来人としてわたって来た宇佐氏の中にその実力者がいたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
次回は「宇佐氏の卓越した政治力」について語ります。
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品
作品名 「シチリア、その夢」(後編)
制作 Original CV
作品時間 47分
Palermoで1週間を過ごした後、Agrigentoに行くため駅に向かいました。
Palermo駅のプラットホームで、シチリア人が日本語で話しかけて来ました。
「やあ、また会いました。すごい休みですね。」
「今から列車でAgrigentoに行くのです。」
「そうですか。あそこはシチリアの京都のようなところです。」
このシチリア人とは先日バス停で会い、新宿のHISで働いていた、ということを聞いていました。なんだか人の繋がりとは妙なものだと思ったりします。
シチリア島はイタリア半島の靴の先から飛び出すようにして、二等辺三角形をしています。頂点はTrapani。残りの二角はMessinaとSiracusa。Messinaがイタリア半島の靴の先と接するような形になっています。
TrapaniとMessinaを結ぶ辺にPalermoがあってティレニア海に面しており、そして、TrapaniとSiracusaを結ぶ辺にAgrigentoがあって地中海に面しています。
だから、今日はティレニア海から地中海に向かうわけです。列車の車窓からは起伏のなだらかな丘が次々と見え、オリーブや柑橘類を植えた畑が続きました。
そして、Agrigentoの街が見えてきました。急な斜面に張り付くように、7-8階建てのビルがびっしりと並んでいます。Palermoとは異質の風景。そして、はるか眼下に見える地中海は太陽が射すと、澄んだブルーの海がキラキラと輝きました。
このAgrigentoは海の民であるギリシャ人によって建設されました。その遺跡が「神殿の谷」として残っているのです。
この遺跡の中でも、コンコルディア神殿はかなり完全な形で残っています。しかし、アテネのパルテノン神殿と比較しては可哀想なのかもしれないけど、規模は一回りも二回りも小さく、素材は大理石でなく砂岩です。
でも、私はこのコンコルディア神殿に深く心を揺さぶられました。アテネから離れて遠いシチリアのこの地に来てまでも、この神殿を建設してオリンポスの神々を奉じているのです。
海に出て様々な困難にぶつかっても信じる神を疑わずに奉仕し続ける姿勢。信仰とはそんなに簡単に変わるものではないと思ったのです。
今、私は古代日本についての記事を書いていますが、そのヒントがこのAgrigentoでした。
海の民ギリシャ人がオリンポスの神々を信じて疑わなかったように、古代日本人も海にまつわる神々を信じて疑わなかったのだろうと。
次の日、Agrigentoを8時30分に出発して、バスでTrapaniに向かいました。
左手に地中海を見ながら、延々とバスは走りました。起伏のゆるいなだらかな斜面に、区画毎に整列して、様々な柑橘類が栽培されてます。大規模な農園です。燦々と輝く南国の太陽の下で、シチリア産の美味しい果実がここから供給されているのでしょう。
4時間近くかかって、ようやくTrapaniへ到着。
今日泊まるホテルは標高700mの山頂にあるEriceにあるので、Erice行きのバスを探しました。次の出発は2時10分。1時間30分も待たねばなりません。15分かそこらで着きそうな距離なのに、それだけ待つのも無駄なような気がし、タクシーでEriceまで向かうことにしました。
タクシーは一路、山に向かいます。右に折れて、山の裾野をぐるっと反対側に回ったところから、今度は左に曲がります。
ここからつづら折りの急カーブを曲がりながら高度をどんどん上げていきました。高度計が、400メートル、500メートル、600メートル、700メートルという数字を表示。
はるか下に見渡す景色は絶景です。蒼いティレニア海、その波が長い白い砂浜に打ち寄せます。海を隔てたその先は昔、カルタゴでした。
Ericeは山頂の要塞の街です。その展望からはティレニア海を通過するすべての船が分かります。
「とうとうここまで来てしまった!」 ゆっくりと深呼吸をしました。
翌日、標高700メートルの山頂の朝は冷えました。そして、雷と共にざーっと雨が降りました。
シチリア島の北東端を一望に出来るEriceは素晴らしいのですが、弱点もあります。ここを拠点に行動する場合、必ずこの標高700メートルの山を下らねばならないし、帰って来るときはこれを上らねばなりません。
今日は港町Trapaniに行くことにしました。Ericeでバスに乗ると、Trapaniまで一気に駆け下りました。Trapaniの街はPalermoやAgrigentoと違い、 碁盤目状に区画整理がされています。港町であるが故に、船や人魚をあしらった装飾も多く、建物はオレンジ、イエロー、薄いピンク色に塗られてカラフルです。
南国の蒼い空と海、そして、強い太陽の日差し。これぞまさにシチリア!
私が日本で想像していたシチリアがここにありました。TrapaniとEriceはシチリアの宝石と言っても過言ではありません。
ここEriceでもクライミングに行きたかったのですが、トポに書いてあるクライミングエリアのある街までは遠いのです。たとえ、そのクライミングエリアのある街にたどり着いたとしても、今回の経験が物語るように実際のクライミングエリアに到達するまで四苦八苦するはずです。結局、もう一日はここEriceで過ごすことになりました。
私は眼下の平原とティレニア海がきれいに見えるお気に入りの場所で、のんびりと本を読むことにしました。
その本とは塩野七生著「ローマ人の物語」ですが、その話はコンスタンティヌス帝まで 進んでいます。AD313年にミラノ勅令を発し、ローマは正式にキリスト教を容認しました。統治の委託者を不安定な「人間」から「神」へ変更する模索が始まったのです。ここから中世の扉が開かれることになります。
本の主要部分をノートに写し取っていると、私の前を何度も通り過ぎる人がいます。ふと顔を上げると、このEriceの教会の神父でした。
「どちらから来たのですか。」と問われ、二言三言挨拶を交わしました。そして、握手を求められました。
「良い旅を。」
ここEriceから、私の中世が始まろうとしていました。