[素晴らしい教材から] 宇佐氏の卓越した政治力
- オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。
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<目次>
1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏の卓越した政治力
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(前編)
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1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏の卓越した政治力
前回、大和東征において、淡路島以西で一度も戦いがなく、政治的にまとめ上げていることが不思議だと書きました。
裏を返せば、それほど、宇佐氏は卓越した政治力を持っていたということになります。その理由として次の3点を挙げてみましょう。
(1)情報収集力
以前、ヨーロッパから大西洋を渡った移民者の受け入れ先が新大陸アメリカのニューヨークであったのと同じように、宇佐は朝鮮半島から渡って来た渡来人の新島日本における受け入れ先だと書きました。そして、彼ら渡来人は新しい技術を持った工人が多く、この宇佐から引く手あまたの状態で古代日本の各地に送られ、住み着いていったと考えられます。宇佐はまさに渡来人のリクルートセンターだったわけです。
ここで重要なことは、各地に送られた渡来人が送られた先の現地の情報を再び、宇佐に返していたのではないかと思われることです。新しい技術を持った工人としての渡来人は各地の産業基盤の中枢に速やかに入っていったと考えられるわけで、その各地で収集した情報も極めて正確で詳細だったことでしょう。ここに、宇佐を中心とした渡来人ネットワークが構築されたと考えます。
すでに弥生時代に古代日本に渡って来て住み着いている弥生人の各氏族もまた、各地に密偵を送って情報の収集を行っているとは思いますが、情報の質は渡来人ネットワークに比べて格段に劣っていたに違いありません。
そのように考える物証が何か残っているのかと問われれば、何も残っていないと答えるしかないのですが、あえて答えるとすれば、宇佐に大規模な古墳群がなく、大和東征が成就した後、河内に誉田山古墳(伝応神天皇陵)を含む古市古墳群、そして、大山古墳(伝仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群が造られたことです。
宇佐氏は当初から、古代日本を統一した後、統治する場所として古代日本のほぼ中央にある大和附近を考えていたわけです。九州の宇佐では西に寄り過ぎて、統治の場所として相応しくないと思っていたのでしょう。いわば、宇佐という地は宇佐氏にとっては持ち家ではなく賃貸のような借りの地だったということになります。
(2)地理的優位性
宇佐氏の支配する周防灘、伊予灘を中心に見ると、東に吉備氏、南に日向の蘇我氏、北西に宗像氏が隣接しています。彼らをまとめ上げるには最適の位置にあります。淡路島以西を政治的にまとめ上げた要因もこの地理的な優位性にあります。そして、当時、最も勢力の大きかった博多湾岸の勢力、そして、大和の勢力の間にありますので、双方からの情報をいち早く入手出来たに違いありません。情報収集のスピードという点においても各氏族より優っていたわけです。
(3)兵法『六韜』の熟知
中大兄皇子の腹心である中臣鎌足は蘇我氏を分裂させ、大化の改新(645年)で蘇我氏を滅亡へと追い込んだ、その政治的手腕は空恐ろしいものがあります。その中臣鎌足は兵法『六韜』を丸暗記するほど熟知していたと伝えられています。
私は、その中臣氏が宇佐氏から派生した一氏族だと考えています。故に、中臣氏の前身である宇佐氏の中で、すでに兵法『六韜』を入手し、中臣鎌足と同じように、それを熟知した政治的実力者がいたとも考えられないでしょうか。
政治、及び、軍事のノウハウを知っているか否かの差は非情に大きな違いです。
その兵法『六韜』の第一巻「文韜」の中に次のような文章があります。
「・・・魚はその餌を食うので釣り糸で引き上げることが出来るのですが、人間も同じことで、その碌によって君に服するものです。士大夫の地位を餌に賢士を集めるならば諸侯の国が釣れるでしょうし、諸侯の地位を餌ににして人材を集めたならば天下を手にすることができるでありましょう。・・・」
具体的に、宇佐氏は宗像氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。
以前、アマテラスと同世代の神である綿津見三神を奉じる安曇氏、そして、住吉三神を奉じる住吉氏はアマテラスの次の世代である宗像三女神を奉じる宗像氏よりも朝鮮半島の交易で先行していたと書きました。つまり、宗像氏も利潤の大きい朝鮮半島の交易に参加したかったのですが出来ていなかったのです。
宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には、朝鮮半島の交易権を宗像氏の独占にしてもよいという密約を交わしたのではないでしょうか。宗像氏はその餌に食いついたのです。このことが後に、古代最大の内戦と言われる磐井の乱(527年)へと繋がっていくことになります。
そして、もう一方で、宇佐氏は日向の蘇我氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。
蘇我氏は日向に渡って来た中国南朝呉の末裔に使える近臣です。とすれば、蘇我氏は何よりも中国南朝呉の復興を古代日本の中で起こそうと考えるはずです。宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には呉の末裔を大王の座に付けてもよいと確約したのではないでしょうか。蘇我氏はその餌に食いついたのでです。
古代日本を統一する上で、この効果は非常に大きなものがあったと思います。どんなに実力があってもどこの馬の骨かわからない人物に人は付いて行きません。中国南朝呉の末裔という血筋の良さは錦の御旗になります。故に、統一する過程で帰属する氏族には、呉の技術者にデザインさせた三角縁神獣鏡を下賜し、勢力を広げていったと考えます。
しかし、後に、蘇我氏の勢力が強くなり過ぎたことが大化の改新(645年)を引き起こすことになります。
宇佐氏は大王の座や海外との交易権を与えても、摂政・関白(中国で言うと宰相)という実権さえ手に入れればよいと考えていたのではないでしょうか。
次回は「古事記のトリックの解明」について語ります。
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品
作品名 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(前編)
制作 Original CV
作品時間 52分
第3回目のイタリアへの歴史探訪の旅の目的地はラベンナ。イタリア半島の長い靴の東の付け根にあります。
しかし、その前にクライミングをしようとフィナーレ・リグレに行くことにしました。こちらはイタリア半島の長い靴の西の付け根にあり、ジェノバから車で小一時間ぐらいのところにあります。つまり、誰しもが憧れるリビエラにあるのです。
今回はジェノバからフィナーレ・リグレに車で向った一日の模様を紹介することにしましょう。
ジェノバの朝は澄み渡った空で明るく、リグリア海の港街にふさわしい陽光でした。
さて、今日はまずレンタカーを借りに行かねばなりません。日本で得た情報ではレンタカーは街中にあるということです。ホテルのカウンターのお兄さんに聞くと、地図を差し示して、「このホテルから歩いて15分のところにあるよ」とアドバイスしてくれました。
重い荷物を抱えて15分も歩くわけには行かないので、タクシーを呼びました。
タクシーに荷物を積み込み、いざ出発せんと、レンタカーのアドレスをタクシーの運転手に見せると、タクシーの運転手は「これはジェノバ空港内のアドレスだよ、街中じゃないよ」と言います。こちらは、「空港ではなくて街中だと日本で聞いた」と主張。タクシーに乗ったというのに目的地を定めることが出来ないわけです。
タクシーの運転手は携帯でレンタカーの電話番号に電話をかけました。
「アドレスを見ると空港内になっているのに、客は街中にあると言って空港内じゃないと言い張る。どうなってるんだ?」
結局、タクシーの運転手が正しく、このレンタカーはジェノバに一ヶ所しかありません。そして、それは空港内だということで一件落着となりました。
ということは、あのホテルのお兄さんのアドバイスは一体何だったんだ?
さて、無事にレンタカーを借りて、フィナーレリグレに向かいました。高速に乗るとジェノバから小一時間でフィナーレリグレに着きました。しかし、目的地の本日のお宿Residence Gliciniがどこにあるのかがわかりません。こちらもすぐに見つかると思っていた当てが外れました。
ある人に聞くと、「海岸線に出てSavonaの方に戻り、ひとつ目のトンネルの前を左に上れ。」と言います。 行ってみると、トンネルの前を左に上がる道はありません。
そこでまた、ある人に聞くと、「フィナーレリグレは3キロメートル向こうだよ。」と言います。 そりゃそうでしょ。そちらから来たんだから。確実に分かるひとつのことはSavona方向へ行き過ぎたということです。
また戻り、それらしい雰囲気の小道を右に入って行きました。車を停めて、バーに入り聞いてみると、「来た道を200メートル戻り左に曲がれ」と言います。 それらしいところを探しながら、左に上って行っても見当たりません。
小さなホテルに入り、聞いてみると、「来た道を戻り右に曲がって、再び右にまがれ」と言います。 それらしいところを注意深く探してみましたが、やはりわかりません。
お手上げです。小さなホテルの前に車を停めて、目的地の宿に電話をしました。そうすると、「もう近くまで来ているよ、チャリンコで迎えに行くから待ってて。」と言います。
そして待っていると、顔立ちの優しいお兄さんがチャリンコで迎えに来ました。チャ リンコに誘導されながら、5人が乗った車はとうとう目的地へ着きました。ホッとしたと同時に、こりゃわからないわけだと納得しました。
この宿の表札はA5ほどの大きさでしかありません。大きな看板はないのも道理で、この宿は普通のアパートを改築した程度のものだから。
つまり、これを日本風に言うと、横浜駅で降りて、南区大岡にある末次さんの家はどこですかと聞いて、末次さん宅を訪ねることと大差ありません。
だからといって、この宿が悪いというわけでは決してありません。
満面に笑みをたたえる宿のご主人とそのお父さん。お世話になる部屋のドアには「ようこそ」と日本語で書かれた紙が貼られていました。
おまけにお父さんからは日本語の「ようこそ」の文字を指差して、「これはなんと呼んだらいいんだ」と言われる始末。 「ようこそ」という呼び方もわからないまま、お気持ちで私たちを歓待してくれたのです。そのお気持ちを本当に大切にしたいと思いました。
この宿に日本人が泊まるのは初めてとのことでした。