▲Top

メルマガ検索

検索

No. 189 2019-05-01 [素晴らしい教材から] 仲哀記の真相!?

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 今回がビデオ作品を紹介するメルマガとしては最後になります。

 これまで、のべ約1万人の皆さんの映像を撮影・編集して来ました。

 その中には、ノーベル賞受賞者がいるかと思えば、目をキラキラと輝かせる保育園児がいます。
 首相経験者がいるかと思えば、公害訴訟原告団団長もいます。
 70歳で単独太平洋処女航海したヨットマンがいるかと思えば、魯をうまく操れないボートマンもいます。
 未踏峰を登頂した登山家がいるかと思えば、5.7をビビッて登れないトウェルブ・クライマーもいます。
 華麗なバレリーナがいるかと思えば、妖艶なヒップホップダンサーがいたり、気合十分のよさこい踊りの踊り子たちもいます。
 結婚披露宴でウェディングドレスを着て登場する新郎(!)がいるかと思えば、プラチナ婚式で曾孫にせがまれて、80歳のおばあちゃんのほっぺにチューをする88歳のおじいちゃんもいます。

 このように、ジャンル、カテゴリーなどという垣根を越えて、たくさんの皆さんから撮影・編集の機会を与えて頂いたことを心より感謝します。

 また、16年の長きにわたり、このメルマガにお付き合いいただいた読者の皆さんに感謝します。そして、最後にサポートをして頂いたすべての皆さんに、特に4年間もイラストを描き続けていただいた高橋ちずこさん、両親、家族、親族に心より感謝します。

 メルマガが終了するとはいえ、お客様からご依頼がある限り、オリジナル・シー・ヴイは続いていきますので、今後とも宜しくお願いいたします。

 そして、今、書いている歴史については今回で終わりになりませんでした。今後も「歴史の底流」と題して書き続けていきたいと思います。歴史のお遊びにお付き合い頂ける方は「歴史の底流購読希望」と書いて返信してください。その方のみ、今後も月一回程度で配信を続けていきます。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 仲哀記の真相!?
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「Jeff s World」
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 仲哀記の真相!?

 具体的に仲哀記を見ていく前に、これまで述べて来たことから、九州の情勢について整理しておきましょう。

 大和東征の旗揚げの地となった宇佐に宇佐水軍があり、この宇佐氏を中心として、宗像水軍と呉の末裔がいる日向の蘇我騎馬軍がこの遠征に参加します。

 一方、北部九州には博多湾岸に朝鮮半島との交易があり、九州随一の実力を持っている住吉水軍、そして、安曇水軍がいます。

 宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍の連合軍が大和東征を行うならば、その背後の守りを抑えておくことが絶対条件となります。つまり、住吉水軍と安曇水軍に「動かない」ということの確約を取っておく必要があります。

 さて、この確約を簡単に取ることは出来るでしょうか。

 新興勢力の宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍の連合軍よりも、既存勢力の住吉水軍、安曇水軍の方がはるかに実力が優っているのです。また、もともと住吉氏と安曇氏は中国北朝の魏と関係があり、蘇我氏が側近にいる中国南朝の呉の末裔といっても、「何する者ぞ」というぐらいの気位の高さはあったと思います。

 極端な話をすれば、魏の曹操と呉の孫権を同じテーブルの席に着かせようとしていることと代わりありません。犬猿の仲なのです。

 まずは両者を同じテーブルに着かせること。宇佐氏はこれを実現させるために、妙案を考え出しました。その妙案とは、

 『加羅国から皇女を迎え入れ、呉の末裔に嫁がせること。これには付帯条件があり、加羅国からの依頼として、皇女の後見人を住吉氏とすること。』

 これは一石二鳥の妙案で、加羅国と軍事同盟を結ぶことが出来ると共に、住吉氏を同じテーブルに着かせることができます。つまり、加羅国と交易の関係をもつ住吉氏にとっては加羅国の依頼を断ることは出来ませんし、皇女の後見人となったならば、皇女が出席する会議に「皇女の後見人として出席して欲しい」と言えば住吉氏は断ることは出来ません。

 このような状況下で行われたことが、『仲哀記』の中に描かれていることではないでしょうか。

 先に、私が考えている古事記のトリックの解明をしておきましょう。

 第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え ・・・ どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。

 仲哀天皇は「熊襲」征伐に行くのではなく、「熊襲」方面である「日向」から来たということ。
 そして、神功皇后は「新羅」征伐に行くのではなく、「新羅」方面である「加羅」から来たということ。

 どうして、そのように考えるのかは後日、詳述しますが、ここは先へ進みましょう。

 これを考慮して、私が考えている『仲哀記』に登場する人物は次の通り。

 仲哀天皇 ・・・ 日向の蘇我氏が側近にいる呉の末裔
 神功皇后 ・・・ 加羅国の皇女
 建内宿禰 ・・・ 宇佐氏
 神(住吉三神) ・・・ 住吉氏

 古事記に書かれている仲哀記の言動部分を記します。

神功皇后 「西の方に國有り。金銀をはじめとして、目のかがやく種々の珍しき宝、多にその國にあり。吾今その國をよせたまはむ。」

仲哀天皇 「高きところに登りて西の方を見れば、國土は見えず。ただ大海のみあり。」よって、「いつわりをなす神」と謂う。

神 大く怒りて、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず。汝は一道(死の国)に向ひたまへ。」

建内宿禰 「恐し、我が天皇、なほその大御琴あそばせ。」

 仲哀天皇は御琴の音をさせず、そのまま崩御。

神 「およそこの國は、汝命(神功皇后)の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。」

建内宿禰 「恐し、我が大神、その神(神功皇后)の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」

神 「男子ぞ。」

建内宿禰 「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまく欲し。」

神 「こは天照大神の御心ぞ。また底筒男、中筒男、上筒男の三柱(住吉三神)の大神ぞ。・・・」

 まず、神功皇后の述べた「西の方に國有り。」の『西』を『東』に置き換えて解釈すれば、新羅征伐ではなく、大和東征の話になります。造作もありません。

 その後、仲哀天皇(呉の末裔)と神(住吉氏)との間で口論となりますが、何について口論しているのでしょうか。仲哀天皇の「高きところに登りて・・・國土は見えず。」に着目します。

 『高きところに登りても國土は見えず。』

 ここで『國土』を『先』という文字に代えてみます。

 『高きところに登りても先は見えず。』

 意味としては何も変わらないように見えますが、主語が省略されているので、その主語が「私が」ではなく「あなたが」に代えてみます。

 『(あなたが)高きところに登りても先は見えず。』 → 『あなたが総大将になっても未来は見えない。』 → 『あなたに総大将の能力はない。』

 つまり、仲哀天皇{呉の末裔)と神(住吉氏)との間で、大和東征の総大将の地位について口論になったのではないかと思います。そして、突然、仲哀天皇は崩御します。心臓発作なのか、殺められたのか、何の記述もないのでわかりませんが、一番驚いたのが、建内宿禰(宇佐氏)であったことは容易に想像出来ます。

 これまで準備をして来たことが、すべて水の泡になってしまいます。仲哀天皇(呉の末裔)の崩御が蘇我氏に知られる前に対策を講じなければなりません。その対策とは仲哀天皇と神功皇后の子である応神天皇を大和東征の総大将にするという妥協案ではなかったでしょうか。

 そうすれば、蘇我氏にも住吉氏にも双方の面子を立てることが出来ます。この応神天皇を総大将にするということで、九州はひとつにまとまったと言えます。宇佐氏においてはこの瞬間、大和東征の八割は成功したと確信したのではないでしょうか。

 次回は「軍事基地 洞海湾」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「Jeff s World」
制作 神奈川県男性
作品時間 84分

 メルマガ最後に紹介するビデオ作品はこれ以外に考えられません。

 『Jeff s World』

 米国・ヨセミテのビッグ・ウォールの中での信じられない演出。こんなことを誰が予測出来るでしょうか。

 2008年、Aさんの誘いで米国・ヨセミテのビッグ・ウォールにチャレンジすることになりました。ヨセミテに行くのは初めての私に、Aさんは気遣ってくれ、著名な写真家ハインツ・ザックさんが撮影した豪華なヨセミテ写真集を贈ってくれました。1枚、1枚めくる度に、ため息が出るほど美しいヨセミテのショット。

 さて、ロサンゼルスに着くと、すぐにBさんの家に転がり込みました。Bさんは横浜の私のマンションに1週間程滞在したこともあるので周知の仲です。ロサンゼルス郊外のあちらこちらの岩場を登り、そして、ジョシュアトリーの彼の父親が持っているゲストハウスにも泊まりました。

 そして、今回の最大の目標であるヨセミテに到着。当初の予定とは違うのですが、ロストアロー・スパイアーを登ることになりました。と言っても、クライミングに興味の無い方はピンと来ないかもしれません。

 そこで、634メートルの高さがある東京スカイツリーを頭の中に描いて見てください。この頂上から70メートルほど下がり、そこを起点として斜めに鉄塔が突き刺さっていると仮定して下さい。その鉄塔の頂上は東京スカイツリーの頂上とほぼ同じ高さです。下から見たら、爪楊枝が突き刺さっているぐらいにしか見えませんが、その爪楊枝の先端に実際に行くのは相当な高度感です。

 私たち3人はまず、東京スカイツリーの頂上まで歩いて登ります。そして、2本の長いロープを使います。1本はバックロープとしてその末端を東京スカイツリーの頂上に固定し、これを利用して70メートル下の突き刺さった鉄塔の基部まで下降します。次に、もう1本のロープで鉄塔の先端まで登り、再び、バックロープを利用して、鉄塔の先端から東京スカイツリーの頂上に戻るというわけです。

 当日、地元フレズノに住む2人のクライマーが私たちよりも先に東京スカイツリーの頂上に到着しており、彼らが先に取り付きました。その後を追って、私たち3人も取り付きました。

 東京スカイツリーの頂上から70メートル下の鉄塔の基部まで下降。Bさん、Aさんが登り、最後に私が登りました。私は鉄塔の先端まで数メートルのところまで来て、東京スカイツリーの頂上を見ると、すでに登り終って東京スカイツリーの頂上に戻っているフレズノの2人のクライマーがいました。

 ということは、鉄塔の先端には私よりも前に登っているBさんとAさんの2人がいるはず。

 そして、私がとうとう鉄塔の先端に到達すると、BさんとAさんの他に、もう一人いるんです。

 『えっ! この人、何処から来たの?』

 呆然としている私に、Aさんはニコニコとしてこちらを向いて、

 「スエさん。この方、知ってますよね?」

 「???」

 「写真家のハインツ・ザックさんです。」

 「ん! あの著名な・・・」

 私はすかさず握手を求めると、ザックさんは愛想よく応じてくれました。

 状況を呑み込めていない私に、Aさんが説明するには、ザックさんは先行したフレズノの2人のロープを利用させてもらって、鉄塔の先端まで来て、これから綱渡りをするためにスラックラインを張るとのこと。

 ふーん、すごい人達はすごいことをするもんだ。


 さて、実際のヨセミテとはどういうところかというと氷河が削った深いU字谷になっていて、両側の大岩壁の高さは800メートルほどあります。その片側の頂上付近に、東京スカイツリーの鉄塔に譬えたロストアロー・スパイアがあるというわけです。

 そのすぐ側にはこの標高差800メートルを流れ落ちるヨセミテフォールがあり、春の雪解け水で水かさが増したこの滝は迫力、豪快さとも圧巻でした。飛び散ったしぶきがあたり一面を潤し、ロストアロー・スパイアーの頂上から見ると、陽が照っている限り、弧を描いた虹が消えることはありませんでした。

 そして、振り返って、反対側の大岩壁を見ると、豪快なハーフドームがあります。800メートル下の谷は新緑で埋まり、春の最も美しい時期だったのではないでしょうか。

 ただ、私にとってはこの美しさに浸る余裕はまったくありませんでした。800メートルという高さの緊張感で、頭が真っ白だったのです。

 米国で楽しかったクライミングを終えて、横浜に戻り、しばらくしてからふと思いました。

 Aさんは写真家のハインツ・ザックさんがロストアロー・スパイアの先端に来ることを知っていて、予め、日本を出発する前に、彼の写真集を私に贈ったということ!?

 あり得ない。決して、あり得ないよ、そんなすごい演出!!


No. 188 2019-04-01 [素晴らしい教材から] 古事記のトリックの解明

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「2」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 古事記のトリックの解明
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(後編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 古事記のトリックの解明

 さて、いよいよ古事記のトリックの解明に入ります。

 以前、『上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。』と書きました。

 この中つ巻にメスを入れていきますが、私の考え方のベースは古事記といえども同じ人間が作りあげたもの。考え方のベースは変わらないだろうというところから入ります。

 まず、骨子を作り、そして、肉付けに入るということです。

 古事記の中での骨子とは、『天皇が何をしたか』ということだけ。それ以外は後から肉付けしたものだと考えます。そして、骨子を作る場合でも、まるまる空想から作り上げるということは不可能なので、実際に起こった事柄にトリックを入れて書き換えたと考えます。そのトリックの条件はシンプル、かつ、大胆であるということ。複雑なトリックを入れると前後の辻褄合わせの書き換えが大変な作業になるので行わないと考えます。

 そして、私がたどり着いた結論は次の3つのシンプル、かつ、大胆なトリックが行われたということ。

(1)第一のトリック 主人公の入れ替え

 実在の天皇が行ったことを、架空の天皇を作り上げて、その架空の天皇が行ったように見せかけること。

(2)第二のトリック 時系列の入れ替え

 架空の天皇が行ったことを、実際に起こった事柄よりも時系列で古く見せかけること。

(3)第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え

 どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。

 そのトリック解明の突破口はやはり宇佐です。宇佐神宮のホームページには次のように紹介されています。

 『八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。』

 この文章をご覧になって、「へぇー、すごいね。」だけで終わっていませんか。約4割の神社を支配しているのです。古くから長きにわたって、八幡大神こそがこの日本を支配して来たと言えるのではないでしょうか。この単純な事実を見逃してはなりません。

 そして、725年、八幡大神とは応神天皇だとして、現在の地に創建されたのです。710年に古事記が、そして、720年に日本書紀が編纂されていますので、その直後ということになります。

 ところがこれらの記紀の『応神天皇』の記述の中に『宇佐』の一言の文字も入っていませんし、応神天皇が英雄視されるようなことは一切書かれていません。これはまことにおかしい。

 第一の宗廟である伊勢神宮が高天原のヒロインである天照大御神を祀っているのならば、第二の宗廟である宇佐神宮には葦原中国のヒーローを祀っているのが筋。当時の政府はそこに応神天皇が相応しいと言っているのです。ところが記紀の中にはそこのところの何の記述もない。

 これは当時の政府がこの矛盾を知っていながら、放置している感があります。

 では、記紀の中で葦原中国のヒーローと言えば、大和東征を行った神武天皇に違いありません。

 ここで応神天皇と神武天皇は同一人物ではないかと思えてくるのです。言い方を換えれば、神武天皇とは架空の天皇で、応神天皇が行ったことを神武天皇が行ったように見せかけているということです。

 これを断定するには清水の舞台から飛び降りるようなものですが、一度、飛び降りてしまえば後はとんとん拍子で進みます。

 古事記の中で『崇神天皇』は『初国知らしし天皇』とありますので、これも応神天皇のことではないかと考えられます。よって、中つ巻の神武天皇から崇神天皇までは応神天皇と同一人物。つまり、応神天皇が行ったことを架空の天皇である神武天皇から崇神天皇に置き換えたと考えられます。

 そして、次の垂仁天皇から成務天皇も架空の天皇で、仁徳天皇が行ったことを置き換えていると思われます。そうすれば倭建命の全国統一は仁徳天皇のときに行われたことになり、「世界三大墳墓」と言われる大山古墳が仁徳天皇陵と伝えられる通説にも合致することになります。

 前述した第一のトリックと第二のトリックは神武天皇から成務天皇までを対象としたということ。そして、実際は応神天皇と仁徳天皇が行ったことだと考えたわけです。

 このように考えると、私には嬉しいことがあります。私たちの古事記の中つ巻のトップバッターとして登場するのは仲哀天皇になります。以前、不可解な古事記と称して書いた仲哀天皇の出だし部分が不可解でなくなってくるのです。

 「帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」

 大和東征を行ったのは応神天皇なので、仲哀天皇が豊浦宮や香椎宮に坐してもまったくおかしくないのです。そして、さらに言えることはこの仲哀記こそは大和東征前の九州の情勢を知る貴重な題材になるということ。ここでも最大のトリックを解かなければなりませんが、古代史の謎の核心部に触れていくことになります。

 そして、ここで事件が起こるのです。

 次回は「仲哀記の真相!?」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(後編)
制作 Original CV
作品時間 52分

 リグリア海沿岸のフィナーレ・リグレから山を越えて、ポー川沿いのロンバルディア平原に入ってくると気温が10度ぐらい下がったように感じました。

 今回の旅の最終目的地ラベンナはイタリア半島の長い靴の東の付け根にあり、西ローマ帝国滅亡時の首都でした。ここでも様々な歴史が展開されますが、そのひとつを紹介しましょう。

 時代の中で人生が大きく翻弄される女性たちがいます。

 織田信長の妹であるお市の方や、その子であるお茶々の運命は日本人でなくても悲哀を感じるでしょう。そして、ヨーロッパでは5世紀という時代を生きたガッラ・プラチディアもその一人でしょう。

 ガッラ・プラチディアはテオドシウス帝の子として生まれましたが、二人の兄がいました。

 アルカディウスとホノリウスです。テオドシウス帝は亡くなる前に、軍総司令官のスティリコにこの二人の兄弟を託しました。18歳のアルカディウスはローマ帝国の東側を、10歳のホノリウスはローマ帝国の西側を治めることになりました。

 しかし、23歳になったホノリウスは嫌気が差して軍総司令官のスティリコを処刑してしまいます。無防備となった西ローマ帝国を西ゴート族のアラリックが攻めます。そして、ローマ劫掠が行われました。つまり、ローマは徹底的に略奪されたのです。そのときに、ガッラ・プラチディアは捕囚されました。

 そして、アラリックの後継であるアタウルフと結婚することになりました。得意満面であったアタウルフですが、イベリア半島に移ってから他の諸部族と対立し窮してしまいました。

 これを打開しようと次の族長となるヴァリアはローマと関係改善を謀りました。その条件とはアタウルフの殺害、ガッラ・プラチディアの返還、そして、食糧援助です。こうやって、北アフリカから送られた大量の小麦と引き換えに、ガッラ・プラチディアは5年ぶりにイタリアへ戻って来たのでした。

 間も無く、ガッラ・プラチディアはホノリウス帝の承認の下に、貧農の生まれの将軍コンスタンティウスと結婚させられました。この二人の間にヴァレンティニアヌスという男子が生まれます。

 2年後、子のいないホノリウス帝が亡くなると、ヴァレンティニアヌスが西ローマ帝国の後継となりました。まだ6歳のヴァレンティニアヌス帝は母であるガッラ・プラチディアの後見を必要としました。ここに来て、ガッラ・プラチディアは西ローマ帝国を統治することになったのです。このとき彼女は30歳代の半ばであったといいます。

 何という波乱の人生!!

 現在、ラベンナの『ガッラ・プラチディアの廟』に彼女の亡骸はなく、他に埋葬されていると聞きました。貧農の出であるコンスタンティウスと一緒に埋葬されることは、彼女の中にあるテオドシウス帝の娘としてのプライドが許さなかったのでしょう。

No. 187 2019-03-01 [素晴らしい教材から] 宇佐氏の卓越した政治力

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「3」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏の卓越した政治力
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(前編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏の卓越した政治力

 前回、大和東征において、淡路島以西で一度も戦いがなく、政治的にまとめ上げていることが不思議だと書きました。

 裏を返せば、それほど、宇佐氏は卓越した政治力を持っていたということになります。その理由として次の3点を挙げてみましょう。

(1)情報収集力

 以前、ヨーロッパから大西洋を渡った移民者の受け入れ先が新大陸アメリカのニューヨークであったのと同じように、宇佐は朝鮮半島から渡って来た渡来人の新島日本における受け入れ先だと書きました。そして、彼ら渡来人は新しい技術を持った工人が多く、この宇佐から引く手あまたの状態で古代日本の各地に送られ、住み着いていったと考えられます。宇佐はまさに渡来人のリクルートセンターだったわけです。

 ここで重要なことは、各地に送られた渡来人が送られた先の現地の情報を再び、宇佐に返していたのではないかと思われることです。新しい技術を持った工人としての渡来人は各地の産業基盤の中枢に速やかに入っていったと考えられるわけで、その各地で収集した情報も極めて正確で詳細だったことでしょう。ここに、宇佐を中心とした渡来人ネットワークが構築されたと考えます。

 すでに弥生時代に古代日本に渡って来て住み着いている弥生人の各氏族もまた、各地に密偵を送って情報の収集を行っているとは思いますが、情報の質は渡来人ネットワークに比べて格段に劣っていたに違いありません。

 そのように考える物証が何か残っているのかと問われれば、何も残っていないと答えるしかないのですが、あえて答えるとすれば、宇佐に大規模な古墳群がなく、大和東征が成就した後、河内に誉田山古墳(伝応神天皇陵)を含む古市古墳群、そして、大山古墳(伝仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群が造られたことです。

 宇佐氏は当初から、古代日本を統一した後、統治する場所として古代日本のほぼ中央にある大和附近を考えていたわけです。九州の宇佐では西に寄り過ぎて、統治の場所として相応しくないと思っていたのでしょう。いわば、宇佐という地は宇佐氏にとっては持ち家ではなく賃貸のような借りの地だったということになります。

(2)地理的優位性

 宇佐氏の支配する周防灘、伊予灘を中心に見ると、東に吉備氏、南に日向の蘇我氏、北西に宗像氏が隣接しています。彼らをまとめ上げるには最適の位置にあります。淡路島以西を政治的にまとめ上げた要因もこの地理的な優位性にあります。そして、当時、最も勢力の大きかった博多湾岸の勢力、そして、大和の勢力の間にありますので、双方からの情報をいち早く入手出来たに違いありません。情報収集のスピードという点においても各氏族より優っていたわけです。

(3)兵法『六韜』の熟知

 中大兄皇子の腹心である中臣鎌足は蘇我氏を分裂させ、大化の改新(645年)で蘇我氏を滅亡へと追い込んだ、その政治的手腕は空恐ろしいものがあります。その中臣鎌足は兵法『六韜』を丸暗記するほど熟知していたと伝えられています。

 私は、その中臣氏が宇佐氏から派生した一氏族だと考えています。故に、中臣氏の前身である宇佐氏の中で、すでに兵法『六韜』を入手し、中臣鎌足と同じように、それを熟知した政治的実力者がいたとも考えられないでしょうか。

 政治、及び、軍事のノウハウを知っているか否かの差は非情に大きな違いです。

 その兵法『六韜』の第一巻「文韜」の中に次のような文章があります。

「・・・魚はその餌を食うので釣り糸で引き上げることが出来るのですが、人間も同じことで、その碌によって君に服するものです。士大夫の地位を餌に賢士を集めるならば諸侯の国が釣れるでしょうし、諸侯の地位を餌ににして人材を集めたならば天下を手にすることができるでありましょう。・・・」

 具体的に、宇佐氏は宗像氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。

 以前、アマテラスと同世代の神である綿津見三神を奉じる安曇氏、そして、住吉三神を奉じる住吉氏はアマテラスの次の世代である宗像三女神を奉じる宗像氏よりも朝鮮半島の交易で先行していたと書きました。つまり、宗像氏も利潤の大きい朝鮮半島の交易に参加したかったのですが出来ていなかったのです。

 宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には、朝鮮半島の交易権を宗像氏の独占にしてもよいという密約を交わしたのではないでしょうか。宗像氏はその餌に食いついたのです。このことが後に、古代最大の内戦と言われる磐井の乱(527年)へと繋がっていくことになります。

 そして、もう一方で、宇佐氏は日向の蘇我氏をどのような餌で抱き込んだのでしょうか。

 蘇我氏は日向に渡って来た中国南朝呉の末裔に使える近臣です。とすれば、蘇我氏は何よりも中国南朝呉の復興を古代日本の中で起こそうと考えるはずです。宇佐氏はそこに目を付け、大和東征が成就した暁には呉の末裔を大王の座に付けてもよいと確約したのではないでしょうか。蘇我氏はその餌に食いついたのでです。

 古代日本を統一する上で、この効果は非常に大きなものがあったと思います。どんなに実力があってもどこの馬の骨かわからない人物に人は付いて行きません。中国南朝呉の末裔という血筋の良さは錦の御旗になります。故に、統一する過程で帰属する氏族には、呉の技術者にデザインさせた三角縁神獣鏡を下賜し、勢力を広げていったと考えます。

 しかし、後に、蘇我氏の勢力が強くなり過ぎたことが大化の改新(645年)を引き起こすことになります。

 宇佐氏は大王の座や海外との交易権を与えても、摂政・関白(中国で言うと宰相)という実権さえ手に入れればよいと考えていたのではないでしょうか。

 次回は「古事記のトリックの解明」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(前編)
制作 Original CV
作品時間 52分

 第3回目のイタリアへの歴史探訪の旅の目的地はラベンナ。イタリア半島の長い靴の東の付け根にあります。

 しかし、その前にクライミングをしようとフィナーレ・リグレに行くことにしました。こちらはイタリア半島の長い靴の西の付け根にあり、ジェノバから車で小一時間ぐらいのところにあります。つまり、誰しもが憧れるリビエラにあるのです。

 今回はジェノバからフィナーレ・リグレに車で向った一日の模様を紹介することにしましょう。

  ジェノバの朝は澄み渡った空で明るく、リグリア海の港街にふさわしい陽光でした。

 さて、今日はまずレンタカーを借りに行かねばなりません。日本で得た情報ではレンタカーは街中にあるということです。ホテルのカウンターのお兄さんに聞くと、地図を差し示して、「このホテルから歩いて15分のところにあるよ」とアドバイスしてくれました。

 重い荷物を抱えて15分も歩くわけには行かないので、タクシーを呼びました。

 タクシーに荷物を積み込み、いざ出発せんと、レンタカーのアドレスをタクシーの運転手に見せると、タクシーの運転手は「これはジェノバ空港内のアドレスだよ、街中じゃないよ」と言います。こちらは、「空港ではなくて街中だと日本で聞いた」と主張。タクシーに乗ったというのに目的地を定めることが出来ないわけです。

タクシーの運転手は携帯でレンタカーの電話番号に電話をかけました。

 「アドレスを見ると空港内になっているのに、客は街中にあると言って空港内じゃないと言い張る。どうなってるんだ?」

 結局、タクシーの運転手が正しく、このレンタカーはジェノバに一ヶ所しかありません。そして、それは空港内だということで一件落着となりました。

 ということは、あのホテルのお兄さんのアドバイスは一体何だったんだ?

 さて、無事にレンタカーを借りて、フィナーレリグレに向かいました。高速に乗るとジェノバから小一時間でフィナーレリグレに着きました。しかし、目的地の本日のお宿Residence Gliciniがどこにあるのかがわかりません。こちらもすぐに見つかると思っていた当てが外れました。

  ある人に聞くと、「海岸線に出てSavonaの方に戻り、ひとつ目のトンネルの前を左に上れ。」と言います。 行ってみると、トンネルの前を左に上がる道はありません。

 そこでまた、ある人に聞くと、「フィナーレリグレは3キロメートル向こうだよ。」と言います。 そりゃそうでしょ。そちらから来たんだから。確実に分かるひとつのことはSavona方向へ行き過ぎたということです。

 また戻り、それらしい雰囲気の小道を右に入って行きました。車を停めて、バーに入り聞いてみると、「来た道を200メートル戻り左に曲がれ」と言います。 それらしいところを探しながら、左に上って行っても見当たりません。

小さなホテルに入り、聞いてみると、「来た道を戻り右に曲がって、再び右にまがれ」と言います。 それらしいところを注意深く探してみましたが、やはりわかりません。

お手上げです。小さなホテルの前に車を停めて、目的地の宿に電話をしました。そうすると、「もう近くまで来ているよ、チャリンコで迎えに行くから待ってて。」と言います。

 そして待っていると、顔立ちの優しいお兄さんがチャリンコで迎えに来ました。チャ リンコに誘導されながら、5人が乗った車はとうとう目的地へ着きました。ホッとしたと同時に、こりゃわからないわけだと納得しました。

この宿の表札はA5ほどの大きさでしかありません。大きな看板はないのも道理で、この宿は普通のアパートを改築した程度のものだから。

つまり、これを日本風に言うと、横浜駅で降りて、南区大岡にある末次さんの家はどこですかと聞いて、末次さん宅を訪ねることと大差ありません。

 だからといって、この宿が悪いというわけでは決してありません。

 満面に笑みをたたえる宿のご主人とそのお父さん。お世話になる部屋のドアには「ようこそ」と日本語で書かれた紙が貼られていました。

 おまけにお父さんからは日本語の「ようこそ」の文字を指差して、「これはなんと呼んだらいいんだ」と言われる始末。 「ようこそ」という呼び方もわからないまま、お気持ちで私たちを歓待してくれたのです。そのお気持ちを本当に大切にしたいと思いました。

 この宿に日本人が泊まるのは初めてとのことでした。

No. 186 2019-02-01 [素晴らしい教材から] 宇佐氏による大和東征計画

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「4」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏による大和東征計画
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「シチリア、その夢」(後編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 宇佐氏による大和東征計画

 前回、大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと書きました。

 この遠征の主力部隊は水軍です。しかし、大和というのは奈良盆地にあるわけですから、ここを攻めるには水軍だけでは不十分です。

 今風に言うならば、自衛隊は専守防衛なので上陸作戦に力を入れていないと思いますが、在日米軍で例えれば、「すでに宇佐水軍と宗像水軍を持っているから、横須賀のネイヴィはいらない。今、最も必要なのは沖縄のマリーンだ。」ということになるでしょう。

 古代において、マリーンなんてないですから、それに対応するにはやはり馬を使った騎馬軍だと思います。さて、古代日本の中で優れた馬なんていうのはあるの?

 そのヒントになるものがないかを記紀の中で探してみたら、ありました。

 推古二十年(613)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があり、蘇我馬子の作った歌に和して推古女帝は蘇我をたたえる歌を作りました。

 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき (『日本書紀』)

 私はこの歌に非常に興味があります。日向 ・・・ 呉 ・・・ 大君の側近としての蘇我氏 を結びつけるものだからです。蘇我馬子の墓は奈良県明日香村にある石舞台古墳とされていますが、周囲に土塁をめぐらした珍しいもので日本に4つしかありません。その内の2つが宮崎県の西都原古墳群の中にあるということは先の結びつきを深めているように思います。また、宮崎県串間市から直径33cm、厚さ6mm、重さ1600gというとんでもない超大型の壁が出土しており、呉との関係を窺わせます。

 そこで次の仮設を立てます。

 ”中国南朝の呉の末裔である大君は日向に渡って来て、その側近に蘇我氏がいる”

 ここでは、日向の蘇我氏、或いは、蘇我騎馬軍と呼ぶことにしておきましょう。

 話は戻って、宇佐氏はこの蘇我騎馬軍を上陸部隊として抱き込んだと考えられます。宇佐神宮の境内の西参道に日本百名橋のひとつである屋根付きの木造橋があり、呉橋と呼んでいます。これも宇佐氏と、呉(橋)を通じて、蘇我氏と繋がっていることの証とはならないでしょうか。

 いよいよ大和東征の主力の陣容が固まりました。宇佐水軍、宗像水軍、蘇我騎馬軍。

 「・・・、吉備の高島宮に八年坐しき。」(古事記) ここで吉備水軍も合流。その後、

 「故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ打ち羽拳き来る人、速吸門に遇いき。ここに呼び寄せて、『汝は誰ぞ。』と問ひたまへば、『僕は国つ神ぞ。』と答へ日しき。また、『汝は海道を知れりや。』と問ひたまへば、『能く知れり。』と答へ日しき。・・・」

 ここでいう速吸門とは鳴門海峡のことだと考えられます。古事記ではここを通り、難波の渡りを過ぎて楯津で合戦後、痛手を負って引き下がり、南を回って熊野から侵入し成功したことになっていますが、実際の作戦はそのような直線的なものではないように思います。

 淡路島手前の播磨灘で、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍、そして、別働隊として吉備水軍の船に乗り換えた蘇我騎馬軍に分かれます。

 まず、主力部隊である宇佐水軍と宗像水軍は堂々と明石海峡を通って、大阪湾に入り、そして、古代に存在した河内湖に入って敵の大和の軍隊を引き付けます。

 一方、蘇我騎馬軍を乗せ、水先案内人を付けた吉備水軍は少し時間を置いて、難所の鳴門海峡を渡り、手薄の紀の川河口に入ります。蘇我騎馬軍はここで上陸。ここから紀の川を遡行して東にさかのぼり、吉野の手前の奈良盆地の南端から盆地内に突入。

 これが理に適った作戦ではないでしょうか。

 と、ここまで大和東征がどのように行われたかを見て来ましたが、皆さん、不思議に思うことはないでしょうか。それは淡路島に至る西側で一度も戦いがないということ。つまり、淡路島以西を政治的にまとめ上げていることです。

 卑弥呼の時代、倭国は乱れて、ようやく卑弥呼を共立することによって、国を治めていたのですから、それから時が経っているとはいえ、これだけの政治力を発揮できる実力者が従来の国の中から突然変異的に現れたとは考えにくいのです。

 やはり、4世紀以降、渡来人としてわたって来た宇佐氏の中にその実力者がいたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 次回は「宇佐氏の卓越した政治力」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「シチリア、その夢」(後編)
制作 Original CV
作品時間 47分

 Palermoで1週間を過ごした後、Agrigentoに行くため駅に向かいました。

 Palermo駅のプラットホームで、シチリア人が日本語で話しかけて来ました。

「やあ、また会いました。すごい休みですね。」

「今から列車でAgrigentoに行くのです。」

「そうですか。あそこはシチリアの京都のようなところです。」

 このシチリア人とは先日バス停で会い、新宿のHISで働いていた、ということを聞いていました。なんだか人の繋がりとは妙なものだと思ったりします。

 シチリア島はイタリア半島の靴の先から飛び出すようにして、二等辺三角形をしています。頂点はTrapani。残りの二角はMessinaとSiracusa。Messinaがイタリア半島の靴の先と接するような形になっています。

 TrapaniとMessinaを結ぶ辺にPalermoがあってティレニア海に面しており、そして、TrapaniとSiracusaを結ぶ辺にAgrigentoがあって地中海に面しています。

だから、今日はティレニア海から地中海に向かうわけです。列車の車窓からは起伏のなだらかな丘が次々と見え、オリーブや柑橘類を植えた畑が続きました。

そして、Agrigentoの街が見えてきました。急な斜面に張り付くように、7-8階建てのビルがびっしりと並んでいます。Palermoとは異質の風景。そして、はるか眼下に見える地中海は太陽が射すと、澄んだブルーの海がキラキラと輝きました。

 このAgrigentoは海の民であるギリシャ人によって建設されました。その遺跡が「神殿の谷」として残っているのです。

 この遺跡の中でも、コンコルディア神殿はかなり完全な形で残っています。しかし、アテネのパルテノン神殿と比較しては可哀想なのかもしれないけど、規模は一回りも二回りも小さく、素材は大理石でなく砂岩です。

 でも、私はこのコンコルディア神殿に深く心を揺さぶられました。アテネから離れて遠いシチリアのこの地に来てまでも、この神殿を建設してオリンポスの神々を奉じているのです。

 海に出て様々な困難にぶつかっても信じる神を疑わずに奉仕し続ける姿勢。信仰とはそんなに簡単に変わるものではないと思ったのです。

 今、私は古代日本についての記事を書いていますが、そのヒントがこのAgrigentoでした。

 海の民ギリシャ人がオリンポスの神々を信じて疑わなかったように、古代日本人も海にまつわる神々を信じて疑わなかったのだろうと。

 次の日、Agrigentoを8時30分に出発して、バスでTrapaniに向かいました。

 左手に地中海を見ながら、延々とバスは走りました。起伏のゆるいなだらかな斜面に、区画毎に整列して、様々な柑橘類が栽培されてます。大規模な農園です。燦々と輝く南国の太陽の下で、シチリア産の美味しい果実がここから供給されているのでしょう。

4時間近くかかって、ようやくTrapaniへ到着。

今日泊まるホテルは標高700mの山頂にあるEriceにあるので、Erice行きのバスを探しました。次の出発は2時10分。1時間30分も待たねばなりません。15分かそこらで着きそうな距離なのに、それだけ待つのも無駄なような気がし、タクシーでEriceまで向かうことにしました。

タクシーは一路、山に向かいます。右に折れて、山の裾野をぐるっと反対側に回ったところから、今度は左に曲がります。

 ここからつづら折りの急カーブを曲がりながら高度をどんどん上げていきました。高度計が、400メートル、500メートル、600メートル、700メートルという数字を表示。

 はるか下に見渡す景色は絶景です。蒼いティレニア海、その波が長い白い砂浜に打ち寄せます。海を隔てたその先は昔、カルタゴでした。

 Ericeは山頂の要塞の街です。その展望からはティレニア海を通過するすべての船が分かります。

「とうとうここまで来てしまった!」 ゆっくりと深呼吸をしました。


 翌日、標高700メートルの山頂の朝は冷えました。そして、雷と共にざーっと雨が降りました。

 シチリア島の北東端を一望に出来るEriceは素晴らしいのですが、弱点もあります。ここを拠点に行動する場合、必ずこの標高700メートルの山を下らねばならないし、帰って来るときはこれを上らねばなりません。

 今日は港町Trapaniに行くことにしました。Ericeでバスに乗ると、Trapaniまで一気に駆け下りました。Trapaniの街はPalermoやAgrigentoと違い、 碁盤目状に区画整理がされています。港町であるが故に、船や人魚をあしらった装飾も多く、建物はオレンジ、イエロー、薄いピンク色に塗られてカラフルです。

 南国の蒼い空と海、そして、強い太陽の日差し。これぞまさにシチリア!

 私が日本で想像していたシチリアがここにありました。TrapaniとEriceはシチリアの宝石と言っても過言ではありません。

 ここEriceでもクライミングに行きたかったのですが、トポに書いてあるクライミングエリアのある街までは遠いのです。たとえ、そのクライミングエリアのある街にたどり着いたとしても、今回の経験が物語るように実際のクライミングエリアに到達するまで四苦八苦するはずです。結局、もう一日はここEriceで過ごすことになりました。

 私は眼下の平原とティレニア海がきれいに見えるお気に入りの場所で、のんびりと本を読むことにしました。

 その本とは塩野七生著「ローマ人の物語」ですが、その話はコンスタンティヌス帝まで 進んでいます。AD313年にミラノ勅令を発し、ローマは正式にキリスト教を容認しました。統治の委託者を不安定な「人間」から「神」へ変更する模索が始まったのです。ここから中世の扉が開かれることになります。

 本の主要部分をノートに写し取っていると、私の前を何度も通り過ぎる人がいます。ふと顔を上げると、このEriceの教会の神父でした。

 「どちらから来たのですか。」と問われ、二言三言挨拶を交わしました。そして、握手を求められました。

 「良い旅を。」

 ここEriceから、私の中世が始まろうとしていました。


No. 185 2019-01-01 [素晴らしい教材から] 海にまつわる神と水軍

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 あけましておめでとうございます。本年も皆様のご健康とご多幸をお祈りしています。
 メルマガ終了までのカウントダウン、「5」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 海にまつわる神と水軍
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「シチリア、その夢」(中編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 海にまつわる神と水軍

 古代日本において、交通手段の主役は日本が海に囲まれているという環境を考えても船だったに違いありません。

 電話やインターネットもない中で、情報伝達手段の主役もまた船だったとすれば、水軍をもっている氏族が政治や経済においても圧倒的な優位に立っていただろうことは容易に想像出来ます。

 そこで古事記の中で有力な水軍の手がかりになるのは海にまつわる神だと考えました。

 「禊祓いと神々の化生」の段を読むと

 「・・・次に水の底にすすぐ時に、成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒之男命。中にすすぐ時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒之男命。水の上にすすぐ時に、成れる神の名は、上津綿津見神。次に上筒之男命。この三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ちいつく神なり。・・・その底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。ここに左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は月読命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は建速須佐之男命。・・・」

 底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神は綿津見三神と呼ばれ、福岡県福岡市東区志賀島にある志賀海神社に祀られています。ここを拠点とする水軍を安曇水軍、或いは安曇氏と呼ぶことにしておきましょう。

 底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命は住吉三神と呼ばれ、ここでは摂津ではなく、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社を考えています。ここを拠点とする水軍を住吉水軍、或いは住吉氏と呼ぶことにしておきましょう。そして、この住吉神社には神功皇后も合祀されています。

 この綿津見三神と住吉三神は天照大御神、須佐之男命と同世代の神になります。

 次に「天の安の河の誓約」の段を読むと

 「ここに天の安の河を中に置きて誓ふ時に、天照大御神、まづ建速須佐之男命の佩ける十拳剱を乞ひ度して、三段に打ち折りて、瓊音ももゆらに、天の眞名井に振りすすぎて、さ嚙みに嚙みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、多紀理毘売命。亦の御名は奥津島比売命と謂ふ。次に市寸島比売命。亦の御名は狭依毘売命と謂ふ。次に多岐都比売命。・・・」

 多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命は宗像三神と呼ばれ、福岡県宗像市にある宗像大社に祀られています。天照大御神から生まれていますから、天照大御神の次の世代の神になります。

 以上の世代間のことと、地理的な関係から考えますと、魏志倭人伝に書かれている朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦半島の交易ルートがあった時代は安曇氏と住吉氏が先行してこのルートを牛耳っていたと考えられます。安曇氏のいる志賀島からは「漢倭奴国王」の金印が出土していますし、住吉氏のバックにある春日市の須玖岡本遺跡一帯は北部九州における青銅器鋳造センターですので、その実力とも随一であったに違いありません。

 次の新興勢力である宗像氏は利潤の大きいこの朝鮮半島との交易ルートに割り込みたいと考えていますが、まだ成しえていないという状況だったのではないでしょうか。

 では前回、大和東征の旗揚げの地とした宇佐にある宇佐神宮の主祭神を見てみましょう。

 一之御殿 八幡大神(応神天皇)
 二之御殿 比売大神(多岐都姫命、市寸島姫命、多紀理姫命・・・・宗像三女神)
 三之御殿 神功皇后

 これを見て、あっと思わないでしょうか。

 宇佐氏は宗像三女神を取り込むことによって直接的に宗像氏と繋がっており、神功皇后を媒介することによって間接的に住吉氏と繋がっていると。

 もう私の意図するところはおわかりでしょう。

 大和東征の総大将は応神天皇、遠征の主力部隊は宇佐水軍と宗像水軍、そして、九州の後ろの守りとして住吉水軍を配置したと。安曇水軍はこの東征に関わっていません。

 これだけではないのです。大和東征はもっと用意周到で入念に計画されています。

 次回は「宇佐氏による大和東征計画」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「シチリア、その夢」(中編)
制作 Original CV
作品時間 47分

 旅はいつも想定通りに進むとは限りません。現地に行ってこそ、知る事実もあります。
 シチリアのパレルモ。貧富の格差がこれほど大きいとは・・・。

 ある日の未明、日の出を撮影しようと暗いうちからホテルを出て海岸沿いにある公園で三脚を立てていると、浮浪者が寄って来て、流暢な英語で「パスポートを失くしたんだ。1ユーロ、恵んでくれよ。」と声をかけて来ました。

 バルデシのクライミングエリアの中に洞窟があり、近付いてみると、そこに人が住んでました。

 テーブルマウンテンの下にある公園に入ると、まだ明るい昼下がりであるというのに、明らかにそれとわかる女性が立っていました。

 メイン通りからひとつ入った路地を歩いていたときのことです。私の横で急に車が停まり、ウィンドウを開けて話かけて来ました。
 「良い写真が撮れたかい。車道側の肩にカメラをかけていたら、二人組のバイクに盗られちゃうぞ。気を付けろよ。」

 私たち3人はクライミングの帰りに、小さなハム・チーズ屋に行きました。店は狭いので私たち3人がそれぞれもつリュックは大きくて邪魔です。そこでリュックを店の玄関の横に置き、一人が見張りに立ち、二人が店の中に入ってハム・チーズを買おうとしていたときのことです。もう一人のお客さんが入って来て、その店の女主人にひとこと言うと、その女主人は私たち二人に突然、「ピーチクパーチク雲雀の子」状態になってけしかけて来ます。何か悪いことでもしたのかと思うと違うんです。
 「リュックを外に置いていたら盗られちゃいます。すぐに店の中に入れなさい。」

 海外の旅に慣れている私たち3人だと思っていましたが、パレルモに住む彼らから見ると、無防備同然の危なっかしい日本人としてしか映らなかったようです。逆に言えば、旅の期間中に盗難などの事件に巻き込まれなかったことの方がラッキーだったということなのでしょう。

 地中海の真ん中に浮かぶ美しい島、シチリア。

 しかし、地中海の真ん中にあるという地理的な特長はそこがいつの時代においても重要な戦略的拠点であったことを物語っています。シチリアを支配した民族はギリシャ人、カルタゴ人、ローマ人、ゲルマン民族、アラブ人、ノルマン人、イスパニア人・・・。新しい民族が来るたびにシチリアの人々は新しい人間関係を築こうとしたのであろうし、逆に良好な人間関係が築けなければ自らの防衛は自らで行うというマフィアの組織が生まれる下地がそこに出来上がったのでしょう。

 フランシス・フォード・コッポラ監督の映画「ゴッドファーザー」はパレルモをロケ地として制作しています。パート3のクライマックスシーンであるコルレオーネ家の令嬢が凶弾に倒れるシーンは豪華なロイヤルボックスがあるマッシモ劇場で撮影されています。

 このパレルモの街を歩き、その街の雰囲気を直接肌で感じることによって、「ゴッドファーザー」という映画がもつ深い人間の絆に少し近づけたように思います。そして、ニーノ・ロータの「愛のテーマ」が頭の中にいつでも響き渡るのです。

No. 184 2018-12-01 [素晴らしい教材から] 宇佐と古事記

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「6」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 宇佐と古事記
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「シチリア、その夢」(前編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 宇佐と古事記

 古事記の中で宇佐が登場するのは神武天皇の東征においてです。

 「・・・日向より発たして筑紫に行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、その土人、名は宇沙都比古、宇沙都比めの二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその國より上りいでまして、阿岐國の多け理宮に七年坐しき。またその國より遷り上りいでまして、吉備の高島宮に八年坐しき。・・・」

 宇佐でのみ大御饗が行われ、他の地では滞在をしているだけ。ということは宇佐で軍の結団式、つまり、旗揚げをしているように見えます。旗揚げで行われるのは古今東西変わりなく、戦勝祈願です。兵士の士気を高めるために行います。もちろん、士気が低い軍団では勝てるわけがありません。東征するには大軍団でしょうから、戦勝祈願する神社もそれなりに大きいところと考えると、それは宇佐神宮の他には考えられません。

 では、宇佐神宮に祀られている八幡大神は、現在、応神天皇とされていますが、神武天皇の頃にはまだ生まれていません。他に、比売大神(宗像三女神)、神功皇后も祀られていますが、応神天皇が祀られて以降です。ここら辺りは政治的な臭いがプンプンとするところです。

 神武天皇の頃の宇佐神宮に祀られている八幡大神とは一体どのような神だったのでしょうか。

 『八幡宇佐宮御託宣集』(略称『宇佐託宣集』)巻六によれば、豊前国の宇佐宮に鎮座する八幡大神は、聖武天皇の天平二十年(748)九月一日、みずから託宣して「古ヘ吾レハ震旦国ノ霊神、今ハ日域(日本国)鎮守ノ大神ナリ」と告げられたといいます。震旦国とは古代のインドや西域の人々が東方の中国を呼ぶ言葉でした。

 つまり、八幡大神とは中国の霊神だったということになりますが、中国の霊神って何?

 中国の南北朝時代、道教、儒教、仏教が三つ巴の抗争をしていたと言われています。しかし、私は今の時代においても中国の民間信仰の中で、これらは共存しているように思えるのです。

 一枚の有名な絵があって、老人になった老子に、青年の孔子が赤ん坊の仏陀を手渡してるところがあります。

 万物(自然)の道を説いたのが老子。
 人の生きる道を説いたのが孔子。
 人の死後の世界を説いたのが仏陀。

 これらはそれぞれ説いている世界が違うのであって相反するものではありませんから、すべてを大きな心で包容してもいいのだと中国の民間信仰の中では言っているように思えるのです。

 そのような目で八幡大神を見ると、なんだか大きく見えます。

 宇佐の地に鎮座する八幡大神。少し仏の方に力点を置くと、東の国東半島の石仏になり、そして、少し神の方に力点を置くと西の英彦山、求菩提山の修験道になるといった具合です。

 大分、話がそれてしまいました。ここでは宇佐が大和への東征の旗揚げになった地であるということだけを覚えておいてください。

 次回は「海にまつわる神と水軍」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「シチリア、その夢」(前編)
制作 Original CV
作品時間 47分

 ギリシャ、ローマと訪れて、3度目の旅の今回はシチリアです。旅の目的はポエニ戦争に関する何かしらの遺跡があるのではないかと思ったからです。

 ポエニ戦争とは何か。

 ローマがイタリア半島を統一すると、北アフリカのカルタゴとシチリア島を間に挟んで直接対峙することになりました。当時のカルタゴは地中海の制海権を得た強国です。ローマは街道を延ばして大きくなった国ですので、船団などは持っていません。カルタゴにとってローマは赤子の手をひねるようなもの。

 両国の間に挟まったシチリア島は小麦の供給地でした。ローマはもともと小麦の自給率が低く、ほとんどがシチリア島や北アフリカからの輸入に頼っていましたので、この小麦が抑えられてしまったら死活問題です。よって、シチリア島の領土権に対して戦争が勃発しました。これがポエニ戦争です。

 ポエニ戦争は1次、2次、3次と3度行われますが、何といっても2次の名将ハンニバルが最も有名でしょう。

 ハンニバルはカルタゴの領有地であったスペインからゾウを連れてアルプスを越え、イタリアに入って来ました。驚くべきことにハンニバルが連れて来た軍隊とは傭兵なのです。この傭兵をして、10万人のローマ正規軍を2度にわたり殲滅したのです。

 20万人の兵士を失ってもさらに軍団を作って戦ったローマも凄い。しかし、ローマはハンニバルに対して会戦を行うと負けることが分かっていますので、ゲリラ作戦を行いました。ハンニバルが出て来たら逃げる。ハンニバル以外の部将とは戦う。この持久戦を続けていても決着はつきません。

 ここでローマの若きエース・スキピオの登場となります。スキピオはハンニバルのスペインの拠点を叩きました。これによって、ハンニバルはイタリア半島から撤退せざるを得なくなり、カルタゴに戻って行きます。そして、ザマにおいて、スキピオ対ハンニバルの会戦が行われ、スキピオが勝利しました。

 紀元前202年のことでした。

 この年は中国においても劉邦が項羽を破って漢を樹立し、東西において大国が生まれて、時代の転換点となりました。

 前置きが長すぎて、すみません。

 私たちはシチリアのパレルモに入って、クライミング・エリアを捜しました。今回もレンタカーは使わず、鉄道とバスの公共機関を使っての旅ですので、クライミング・エリアに到達するまで難儀しました。何番のバスに乗って、乗り換えて、次の何番のバスに乗る。降りたところに確実にクライミング・エリアがあるわけではありませんので、地元の人に道を聞き回って、漸くクライミング・エリアに着く。

 クライミング・エリアを捜すだけで、まるまる一日が潰れてしまうといった有様。だから、実際にクライミングが出来るのは2日目からとなりました。

 また、クライミング・オフのとき、パレルモの街中を観光するのですが、紀元前3世紀頃の話であるポエニ戦争に関する遺跡なんて残っていません。

 あーあ、と思いながら、毎日、バルデシという岩場を登っていたのです。このバルデシという岩場はテーブルマウンテンの側壁になります。

あるとき、このテーブルマウンテンにも名前があることを知りました。モンテ・ペレグリーノと言い、直訳すると外国人の山という意味になります。

 さらに調べると、その外国人とはカルタゴ人のことであることがわかりました。さらに調べると、このカルタゴ人を指揮していたのが、なんとハンニバルの父であるハミルカルだったのです。

 私たちは知らない間に、将軍ハミルカルが占領する山に突撃をするローマの一兵士になっていたわけです。このバルデシから見るシチリアの白い砂浜は美しい。シチリアに来た目的をひとつ達成したときでした。

 2分の動画です。シチリアの美しさをご覧いただけます。
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=30

No. 183 2018-11-01 [素晴らしい教材から] 不可解な古事記

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「7」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 不可解な古事記
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(後編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 不可解な古事記

 1620年 メイフラワー号でピルグリムファーザーズが新大陸アメリカに上陸してから、1776年 アメリカ合衆国が独立するまで156年かかっています。

 そして一方、266年 倭女王壱与が西晋に朝貢して以降、147年間中国との国交、史書に倭の記録は見つかりません。俗に「謎の4世紀」と言われ、教科書には大和朝廷による統一が進んでいると書かれています。私はこの頃から続々と渡来人が日本に渡って来ているのではないかと考えています。

 この双方の約150年という期間が新大陸アメリカの独立と新島日本の統一するスパンとしてマッチしているように見えるのです。

 アメリカ合衆国が独立した後も続々と移民が上陸しているので、その移民達にとっては不安と希望が混ざり、今日オリンピックで見られるような「ユー、エス、エー! ユー、エス、エー!」と大合唱するようなアメリカ人としての愛国心を持つ余裕はまだなかったでしょう。

 同じように、新島日本が統一した後も、続々と渡って来た渡来人においても「ニッポン、チャチャチャ! ニッポン、チャチャチャ!」というような日本人としての愛国心を持つ余裕はなかったと思います。そこにあるのはあえて言うならば、秦系日本人、漢系日本人、呉系日本人、新羅系日本人、百済系日本人、加羅系日本人、高句麗系日本人・・・。

 その人々が同じ日本人としての意識を持ち始めるにはかなりの時間が必要であったと思いますし、そして、同じ日本人としての意識を持ち始める手段として、日本最古の歴史書である古事記、或いは日本書紀が果たした役割は計り知れないほど大きいと思います。

 では、その古事記とはどのような書物であるのかを見ていきましょう。

 古事記は上つ巻、中つ巻、下つ巻の3部で構成されています。上つ巻は高天原の神の話で、イザナギノミコト、イザナミノミコトの国造りからニニギノミコトが葦原の中つ国に天孫降臨する辺りまで。中つ巻はニニギノミコトの末裔である神武天皇の東征、ヤマトタケルノミコトによる全国平定後、仲哀天皇の后である神功皇后の新羅征討、そして、応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇まで。

 つまり、上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。

 この中つ巻の中で、私は何度読んでも腑に落ちない、奥歯に物が挟まったような感じがする所があります。それは仲哀天皇の出だしです。

 「帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」

 中つ巻の天皇の中で、神武天皇は日向から大和に東征するので別として、その他の天皇は仲哀天皇以外すべて大和、或いは大和の近くの宮に

 「**宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」

となっているのです。

 なぜ、仲哀天皇だけは大和近辺ではなく、突如として山口県の豊浦宮、或いは、福岡県の香椎宮に来たのでしょうか。そして、香椎宮にて突然崩御、神功皇后がピンチヒッターに立って新羅遠征となります。あまりの話の急展開で付いていけないばかりでなく、古事記全体のストーリーの中でも前後の繋がりがなく浮き上がってしまっています。

 この仲哀記を省いてしまった方が古事記のストーリー性としては完ぺきなのです。なぜ、古事記の編纂者はこの仲哀記を無理に挿し込んだのでしょうか。

 私にはこれを挿し込むことによって、白村江の戦いの敗北によって、すでに朝鮮半島から勢力を駆逐されているにも関わらず、未だに朝鮮半島の中にその勢力は存在するのだということを内外に誇示しておきたいがための脚色であったとしか考えられないのです。

 次回は「宇佐と古事記」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(後編)
制作 Original CV
作品時間 59分

 阿部寛、上戸彩共演で『テルマエ・ロマエ』という映画が2012年に上映されました。

 この冒頭のシーンで、フォロロマーノが完全に復元されている舞台設備に驚きました。「あー、ローマ帝国全盛の五賢帝時代に、フォロロマーノはこのような姿をしていたんだろうなあ」と感心してしまったのです。

 映画の各シーンでのロケ地も完ぺきで「このシーンは元老院の前で、そして、このシーンはパラティーニの丘で撮ったんだ」とこちらにも重ねて感心してしまったのです。ロケ地の選択には地元イタリア人スタッフが十分に関与しているに違いないと思いました。

 おー、ローマ!

 紀元前753年4月21日、ロムルスが建国して以来、数々の栄光と挫折を繰り返して来たこの都市。何から話してよいのか・・・。

 ローマ建国からローマ帝国滅亡までは、塩野七生氏の『ローマ人の物語』(文庫本で43冊)、Edword Gibbonの名著『The History Of The Decline And Fall Of The Roman Empire』(6巻、私はこれを読み切るのに2年かかってしまった)がありますので、そちらで堪能していただくとして、今回は私が見て来たローマの教会について話してみたいと思います。

 サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂

 この教会こそが中世の始まりを告げると言ってもよいのではないでしょうか。キリスト教を初めて公認したコンスタンティヌス帝が314年に建設し、法王に寄進した教会です。正面の天蓋の棚の中にあるペテロとパウロ像の頭の中にはそれぞれの頭蓋骨が納められていると言われています。現在でも新しい法王の就任式はこの教会で行われます。

 私たちはこの教会に入り、大聖堂の中に並べられていた席に座っていたのですが、急に周りが慌ただしくなって来ました。そのまま気にせず、席に座っていたらミサが始まったのです。

 「しまった。出るタイミングを失った。」

 世界中から集まって来た多くの神父たちが列を作って入場して来ました。大聖堂の中をぐるりと回り、厳粛にミサが始まりました。
 私には「・・・パードレ・・・パードレ・・・パードレ・・・」しかわかりませんでしたが、説教が終わり、アフリカから訪れた信者たちのミサ曲が歌われ、そして、最後は席に座った周りの人々と握手をして終わりました。私にとっては大変貴重な体験でした。

 この教会の隣にあるラテラノ宮殿に歴代の法王は住んでいたのです。ところが、法王がアヴィニョンに幽囚されるという事件が発生して以降、法王の住居はヴァチカン宮殿に変わりました。

 つまり、ヴァチカン宮殿とはひとつの要塞なのです。そして、ここにその後の歴代の法王が美術品を収集し始めました。免罪符を発行しなければならなかったほど高価な美術品収集や礼拝堂建設のために・・・。後に数百年戦争が続くカトリックとプロテスタントの火種がここにあるのです。

 このヴァチカン宮殿(博物館)を訪れるとき、Aご夫妻に次のように言われました。

 「ここはチケットの予約なんて出来ないから、入場する前に1-2時間は並ばなければならないけど、それを押しても見る価値は十分にあります。一生に一度は必ず見ておかなければならないところです。」

 驚きました。

 入場して以降、延々と続く価値の高い美術品の陳列。次の部屋も、次の部屋も、次の部屋も・・・。そして、圧巻はシスティーナ礼拝堂。世界中から訪れた入場者はトコロテン式に押し出されていくのですが、ここの天井・壁に描かれているアダムとイヴの創造を始めとしたフレスコ画を1分、1秒でも長く見ていたいのです。

 係員は「前へ進んで下さい。前へ進んでください。・・・」と掛け声をかけているのですが、入場者たちはこの数分間のために世界中から集まって来たと言ってもよいほどなので押されても踏み止まって、結局、ごった返していました。

 次はラファエロの間。アテネの学童を始めとした壁いっぱいのフレスコ画が見る者を圧倒します。

 このラファエロの間を出て、次の展示物を陳列している部屋に入ったとき、私はもう疲れて見ることに飽きてしまいました。次の部屋の扉の中にその次の部屋の扉が見え、その次の部屋の扉の中にその次の部屋の扉が見え、それが延々と続いているのです。フラクタルの世界に入ったように・・・。

 中国歴代の皇帝によって収集された宝物のある台北の故宮博物院、大英帝国が威信をかけて世界中から収集した遺跡物を有するロンドンの大英博物館。いずれもすごいとは思いますが、このヴァチカン宮殿を見てしまったら、何とちっぽけに見えてしまうことか・・・。

 私はずばり、ヴァチカン宮殿の中に世界の富の半分はあると信じています。富とは何かをここに来て初めて知るのだと思うのです。


No. 182 2018-10-01 [素晴らしい教材から] 宇佐

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「8」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 宇佐
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(中編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 宇佐

 宇佐と言えば、伊勢神宮につぐ第二の宗廟として知られる宇佐神宮でしょう。 

 ここに古事記に隠されたトリックを解く第一の鍵があるのですが、それを語る前にいくつかの準備をしておかなければなりません。

 宇佐を含む周防灘沿岸の豊前地域には3-7世紀にかけて多くの渡来人が住んでいたと考えられています。

 奈良東大寺の正倉院に残っている戸籍の断簡から、豊前地域の各地区では「秦部(はたべ)」、「・・・勝(すぐり)」を名乗る渡来人の人口比率が7割から9割を占めていることがわかります。圧倒的な数字です。

 また、遣隋使小野妹子に従って倭国に派遣された使者裴世清は「隋書倭国伝」で次のように記しています。

 ・・・又東して一支国(壱岐国)に至り、又竹斯国(筑紫国)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ、・・・。

 筑紫の東にあるのは豊前のことですから、それを秦王国と呼んでいるのです。周防灘は秦王灘をうつしたという説もありますから。そして、華夏というのは中国のことですから、そこに住んでいたのは中国人と同じだったと言っているわけです。

 ここで古代日本に渡って来た人々について考えてみましょう。それはその時々の東アジアの情勢を抜きにして考えることは出来ません。

 人類の歴史は小国への分裂と大国への統一を繰り返して発展して来ました。この大国へ統一する直前に大量の難民が発生します。東アジアでのその第一期は紀元前3世紀前後。中国では春秋戦国の分裂が終わり、秦が統一を果たし、その後に前漢へと続いていく時代。揚子江河口辺りから大量の難民が発生し東シナ海を渡って、朝鮮半島南岸や九州北部の博多湾沿いや遠賀川河口辺りに住み着きました。それらの人々を慣習的に弥生人と呼び、日本では縄文時代から弥生時代に変わる転機となりました。

 その後、前漢、後漢と約400年間の統一された大国としての安定期が続きますが、紀元3世紀から三国時代、五胡十六国、南北朝を経て隋、唐が統一を果たす7世紀まで再び分裂の時代が続きます。その分裂の時期、朝鮮半島では楽浪郡、帯方郡の滅亡。高句麗、百済、新羅、加羅の領土争い後、加羅、百済が滅亡し、新羅が統一を果たします。その期間も大量の難民が発生し古代日本に渡って来ました。これが第二期であり、それらの人々を慣習的に渡来人と呼んでいるのです。

 この頃の古代日本は17-19世紀にかけての新大陸アメリカと同じだったのではないかと思います。つまり、未開の肥沃な地。大陸ではなく島ですので、言うなれば新島日本ですが・・・。宗教戦争、皇位継承戦争が各地で続くヨーロッパ人が目指す新大陸アメリカと、領土争いが続く中国、朝鮮半島の人々が目指す新島日本は希望が叶えられる夢の地という意味で同じだったのではないでしょうか。

 第二期の朝鮮半島から渡って来た渡来人はすでに第一期の弥生人が定着している博多湾沿いや遠賀川河口での争いを避けて、関門海峡を回り、まだあまり人の住んでいなかった宇佐に上陸。渡来人は新しい技術をもった工人が多く、各地から引手数多であったと考えられますので、宇佐から北九州、瀬戸内海沿岸、大和へと移住していったのではないでしょうか。、宇佐は新大陸アメリカにおけるニューヨークと同じような位置付けだったと思います。

 次回は「不可解な古事記」について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(中編)
制作 Original CV
作品時間 59分

 ”花の都 フィレンツェ”。良い響きです。

 そして、副題に”ルネッサンスの栄光を今に伝える”とあります。

 この街のフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に降り立った時、正直、重苦しさを感じました。今まで私たちはティレニア海沿岸の明るい街スペルロンガに滞在していたのです。それが内陸の地、それもルネッサンスとはいえ中世に違いありませんから、そのような街にタイムスリップして来たのですから、当然感じる雰囲気に違いありません。

 ところがこの重苦しい街になんと観光客の多いことか。びっくりです。「皆さん、そんなに暗い世界が好きなんですか~。」

 陽が暮れるまで少し時間があったので、ミケランジェロのダヴィデ像のあるアカデミア美術館に行ってみると長蛇の列。すぐに入館するのを諦めました。

 翌日、私たちはフィレンツェの顔とも言えるウッフィツイ美術館に行きました。予約を入れていたので時刻通りに入れましたが、もし並んでいたら2時間は待たねばならなかったでしょう。

 メディチ家の財力を結集したルネッサンス美術館と言われるだけのことはあります。教科書にも載っているボッティチェリの「春:プリマヴェーラ」を見ただけでも満足でした。

 フィレンツェの街のこの重苦しさは何が原因かというとすべてが石で作られているということでしょうか。石畳の狭い路地、石で積み上げられた重厚な建築物。緑は南に流れるアルノ川を越えてミケランジェロ公園まで行かないと十分に見れない感じでした。

 もともと中世の街ですから、現代の車社会に対応していないのですが、イタリア人は逞しい。この狭い路地で見事に縦列駐車をします。私にはこちらを見ている方がすごいなと感じました。

 そうそう、TVのスイッチを入れるとたまたまコマーシャルが流れていました。若い青年が狭い路地で縦列駐車をしようと何度何度もトライするのですが、うまくいきません。そこに京塚昌子さんのような肝っ玉母さん(古い例えですみません)が出て来て、顔の前で人差し指を左右に振ります。若い青年から代わり、肝っ玉母さんが運転すると一回でぴたりと縦列駐車を決めてしまうのです。イタリアならではのコマーシャル。

 そして、食料は北にある中央市場で手に入れるのですが、逆にこの中央市場以外で売っているところが少ないのです。日本であちらこちらにあるコンビニに慣れてしまっている私にとってはこれも不便だなと感じました。

 たまたまサン・マルコ広場で開かれていた蚤の市に行ってみると嬉しいことにチーズがたくさん売っていました。日本で買ったら目が飛び出るような金額になるチーズをブロックごと買いました。本日飲むD.O.C.G.ワインに合わせます。こちらではチーズにも種類がたくさんあってどれを買ってよいのかわかりません。自分の感覚で美味しそうだなと思って買っても口に合わないことが多くあります。そこでこれも経験ですが、チーズを買うとき、自分の前に並んでいる地元の人が買うチーズをよく見ておきます。そして、地元の人が買ったチーズと同じものを買えば大体美味しくて値段もお手頃です。郷に入れば郷に従えということですね。

 ビバ ワイン! ビバ チーズ!

No. 181 2018-09-01 [素晴らしい教材から] 周防灘(すおうなだ)

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「9」。

-------------------------------
<目次>
1.[素晴らしい教材から] 周防灘(すおうなだ)
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(前編)
-------------------------------

1.[素晴らしい教材から] 周防灘(すおうなだ)

 このメルマガも残すところ9回になって来ましたので、過去の話をするだけなく、これから未来に向けての取り組み、興味について話してみたいと思います。

 九州へ帰って来て、父の書斎にある本を読んだり、北九州にまつわる伝記、神話を聴いたりしていると日本の古代について、物凄く興味が湧いて来ました。日本の古代については星の数ほどの文献がありますし、学者が語り、教科書が語る歴史があります。それをここで披露しても何の面白みもありません。

 まだまだ勉強不足で浅い歴史の知識しかない私ですが、ギリシャ、ローマを実際に歩き回り見て来た視点から、日本の古代を見たらどのように映るのか、それを話してみたいと思います。「また、馬鹿なことを言っている」という程度に聴いていただければ結構です。しかし、私の話から歴史に興味を持つ方が増えたとしたら、これほど嬉しいことはありません。

 紀元前10世紀から6世紀にかけて、エーゲ海、地中海は海の民としてのギリシャ人、フェニキア人が活躍し、各地に植民都市を作りました。一方、日本海、東シナ海、黄海は文献がほとんどないので、海の民としてどれほどの活躍があったのかは何もわかりません。

 そこで、最初の私の視点ですが、古代より日本海、東シナ海、黄海においても、エーゲ海や地中海と同じように海の民が活躍していたのではないかというところから始まります。

 では、ここで東アジアの地図を広げて見てみましょう。海の民の拠点として利用できる理想的な場所はどこでしょうか。内には守りやすく、外には交易をしやすいところ。

 ズバリ、瀬戸内海にある周防灘です。そして、さらに伊予灘までを含めるとすればこれほど完ぺきな場所はありません。北西には穴門と言われた下関のある関門海峡、南には関サバで有名な速吸瀬戸と呼ばれる豊予海峡、西には伊予・松山の先にある釣島海峡、この狭い難所と言われる3つを抑えれば、その内海の安全は完全に保証されます。

 守りやすいということは大変重要なことです。

 今、税金というと社会保障費、教育費、国防費・・・など大変に複雑な用途に使われていますが、古代ローマにおいて、税金とは国防費だと言っても過言ではありません。ですから、守りやすいというのは防衛に人出をさかなくてよいので国防費が安くなり、税金が低くなります。よって、その地域の生産活動が活発になり、その地域が富むということに繋がっていくのです。


 では、日本の古代において、この地域をどのように見ていたのかを探ってみましょう。

 古事記の中に書かれている大八島国の生成です。イザナギノミコトとイザナミノミコトによって島が作られていくわけですが、これを大和から朝鮮半島を含む大陸との交易ルートと考えて聞いて下さい。

 まず、淡路島が作られ、次に伊予を含む四国、隠岐、筑紫を含む九州、壱岐、対馬、佐渡、そして、最後に畿内の大和。

 さらに、「然(しか)ありて後、還(かえ)ります時・・・」と続き、吉備の児島、小豆島、そして、周防大島、姫島と産んで行きます。数多ある瀬戸内海の島で、なぜ、この四つの島が選ばれたのでしょうか。もちろん、この四つの島は戦略的に重要な島だからこそ名前を残しているに違いありません。

 児島、小豆島を含む吉備は日本で四番目に大きい造山古墳があります。ここに吉備水軍があったとみてよいでしょう。次に、周防大島、姫島ですが、姫島は国東半島の先端にある小さな島です。この周防大島と姫島を線で結ぶと、その線の北西は周防灘、南東は伊予灘なのです。

 ここにも吉備水軍と同じような水軍があったと見ても差し支えないのでははいでしょうか。そして、その中心地として宇佐があるのです。

 次回は宇佐について語ります。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「クライミングと歴史探訪 ~スペルロンガ・フィレンツエ・ローマ~」(前編)
制作 Original CV
作品時間 59分

 ギリシャの次は古代ローマ。ヨーロッパの歴史を学ぶ人には当然の順番でしょう。

 そこで、今回の旅は古代ローマがテーマなので、クライミングはローマから列車で1時間程離れたスペルロンガという岩場を選びました。そして、もうひとつ、今回の旅の特長はレンタカーを使わず、すべて公共機関である鉄道やバスを使うということ。

 安くてすむということと、時間に余裕があるから出来ることなのですが、日本とはまったく違った交通システムに面食らいました。

 まずはチケットを買うというのはどこでも同じ。その後が違うのです。日本を含む東アジアの鉄道では自動改札機があり、そこにチケットを通して、プラットフォームに入っていきます。しかし、イタリアでは自動改札機などはなく、そのままプラットフォームに入ることが出来ますが、そのまま列車に乗ったのでは無賃乗車として捕まってしまいます。
ではどうするのかというと、駅の柱の横などところどころにチケットの自動刻印機が設置してありますので、そこにチケットを入れ、そのときの時刻を刻印してもらって始めてチケットが有効になるのです。有効時間は1日だったかな?

 この自動刻印機のやり方だけを覚えておけば、鉄道、バスともすべて同じなので、すぐに慣れてしまいます。

 次に鉄道です。発車の場合、日本ではブザーが鳴ったりして安全を喚起したりしますが、イタリアではそのような合図はありません。何の予兆もなく、時刻になると静かに発車します。下車の場合、日本では自動的に列車の扉が開きますが、イタリアでは手動すので、自分で扉を開けて降りなければなりません。また、事前に下車駅の案内など放送されませんので、自分で常に注意深く、どの駅に着いたのかをチェックしておかなければなりません。

 でも、まだ鉄道は楽です。やはり、公共機関の核心はバスでしょう。このバスを自由に乗りこなすことが出来れば海外へ出ても何も恐れるものはありません。

 ローマから鉄道で移動して、スペルロンガのホテルに入った後、早速、バスのチケットを売っている店に行きました。そのおじさんに、翌日から行こうとしている岩場に最も近いバス停留所の情報を聞いたのです。

「この地図の岩場に行きたいのだけど、どこのバス停留所で降りればよいでしょうか。」

「あーあ、それなら4つ目のトンネルを過ぎたバス停留所で降りればいいよ。」

「???」

 初めて行くところなのに、いきなり4つ目のトンネルを過ぎたバス停留所と言われても・・・。実はスペルロンガではバス停留所それぞれに固有の名前を与えてないのです。日本では「新宿3丁目」とか「新橋1丁目」とか、バス停留所に固有の名前が与えられているのですが、それがないので、おじさんのような回答になってしまいます。

 翌日、バスに乗った私たちはバス運転手に行きたいところの地図を見せて、その近くのバス停留所で降ろして欲しいと頼みました。バス運転手は頷いてバスを走らせ、「ここだよ」と言って私たちを降ろしてくれたのですが、そこはまったくの水平な砂浜。岩場の影も形もないところ。私たちに泳げって言ってるの?

 近くにあったレストランへ行き、その従業員に地図を見せて、岩場のある方向を聞いたところ、この道路上のずーーっと向こうだということです。仕方ない。私たちは荷物を担いで1時間以上延々と歩きました。そこで漸く岩場へつながる小さな階段を見つけたのです。

 クライミングを終えて、バスが通る元の道路まで戻って来たのですが、ホテルの方に向かう車線上にバス停留所がありません。手を振ればバスが停まるかとも思ったのですが、非情にもバスは停まってくれませんでした。窮しました。

 その時ほど携帯電話がありがたいと思ったことはありませんでした。ソフトバンクに移行する前のボーダフォンの携帯を持っていたのですが、日本では繋がりにくくて不満でしたが、さすがヨーロッパに行けばどこでも繋がりました。その時宿泊していたホテルに電話をかけ、状況を説明し、ホテルからタクシーを呼んでもらったのです。

 しばらくしてタクシーがやってきて乗り込むとドライバーは女性でした。話を聞くと夫婦でドライバーをしているとのこと。私たちにとっては女神のように見えたのです。

 数日が経って、クライミングの休暇日に隣町のガエタに行ってみようということになりました。再び、バスに乗るのですが、ガエタが終点というバスはありません。いずれもガエタを通って、他の町に向かうバスなのです。

 さて、バスに乗って周りの風景を見えていると、街中に入って来て賑やかなところに出て来ました。しかし、どこで降りればよいのか、そのタイミングがわかりませんでした。どこで降りようかと迷っている内にバスは街から出てしまい、田舎の風景に変わっていきます。

「Aさん、降りるタイミングを逃したみたいだけど、どうします?」

「こういうときは終着駅まで行くしかないじゃない。」

 というわけで、終着駅で降りました。ここはフォルミアという地名なのですが、スペルロンガ、ガエタから見てどのような方向になるのかがわかりません。早速、駅へ行き、地図を買って確認しました。「あ、なるほど、ここまで来ちゃったんだ。戻らなきゃ。」

 再び、ガエタ方面に行くバスに乗りますが、ここもガエタが終点というバスはありません。ガエタを通り過ぎてどこかの町に行くバスなのです。

 今度こそ、ガエタでちゃんと降りなきゃ。作戦はひとつだけ。乗客が最もたくさん降りるところで、私たちも降りる。

 見事、作戦は成功し、ガエタの中心部に着きました。一応、スペルロンガへ戻るため、スペルロンガ方面へ行くバス停留所を捜しておこうということになり、街行く人に英語で尋ねるのですが、誰一人、英語をしゃべれる人がいません。町の中心部をあっちでウロウロ、こっちでウロウロするのですが、バス停留所らしいところはどこにもないのです。今度も窮しました。

 すると、バール(イタリアの喫茶店)の中から、手を振る人がいたのです。誰かと思ってバールに入っていくと、あのタクシードライバーの夫婦がそこでコーヒーを飲んでいたのです。

 「ここで何してんの?」

 「スペルロンガ行きのバス停留所を捜してたんだ。」

 「あ、そう。まあコーヒー一杯おごるから、楽にすれば・・・。」

と言われて、私たちはコーヒーをおごってもらったのですが、同時に私たちの悩みも解決しました。彼らのタクシーに乗って、スペルロンガのホテルに戻ればいいのだから。

https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=25

No. 180 2018-08-01 [撮影四方山話] 歴史

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 メルマガ終了までのカウントダウン、「10」。

-------------------------------
<目次>
1.[撮影四方山話] 歴史
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「Homer sometimes ... - Climbing in Kalymnos -」(後編)
-------------------------------

1.[撮影四方山話] 歴史

 ヘロドトスの著書「歴史」は壮大なペルシャ戦争を描いた作品として有名ですが、この著書の中の巻二(エウテルペの巻)に、トロイ戦争に関して驚くべきことが書かれているのです。

 ヘロドトスがエジプトの祭司に聞いたところによると、パリスはスパルタからヘレネを奪い母国(トロイ)に向ったがエーゲ海に入って烈風に流され、エジプトに漂着したというのです。時のエジプト王であるプロテウスは次のように判決を下しました。

 「かりに余が、風によって流されわが国に漂着した外人は決して殺さぬことを信条としておらぬならば、必ずや予はかのギリシャ人に代わってお前に誅罰を加えたであろうぞ。もてなしを受けながら世にも非道な行為を働いた、この怪しからぬ不埒者め。歓待をしてくれた者の妻に手を出すとは何たることじゃ。しかもそれにあきたらず、女を唆し夫の許より奪いとって逐電をはかりおった。いやいやそれでもなお足らずとして、恩人の屋敷を荒し財宝を奪って参ったのじゃ。
 さてしかし、予は外人を殺さぬことを信条としておる故に、このように致そう。この女と財宝とはお前に持ち去らすわけにはゆかぬ。お前が客となったかのギリシャ人が、自身でこの地に参り持ち帰ろうというまで、彼のために予が預かっておく。お前と連れの者共は、三日の内にわが国を退散し他の国へ移るように申し付ける。もし命に背けば、敵として扱われるであろうぞ。」(ヘロドトス『歴史』(上)松平千秋訳 岩波文庫)

 つまり、ヘレネと奪った財宝はエジプトにあるのであって、トロイにはない!

 ヘロドトスが言うには、ギリシャ軍がトロイに着き、ヘレネと奪った財宝の返還を要求すると、トロイ軍側は「それらはエジプトのプロテウス王の許にあって、ここにはない。」との答えだった。ギリシャ軍はトロイ軍に愚弄されていると思い込み、トロイを包囲攻撃し、ついには占領した。しかし、占領してみてもヘレネは現れず、相変わらず前と同じ話を聞かされるに及んで、ようやくはじめの話を信じ、スパルタ王のメネラオスをエジプト王のプロテウスの許へやった。メネラオスはプロテウスから非常な歓待を受け、無事のままのヘレネと財宝を返してもらった。・・・

 ヘロドトスはホメロスも知っていたはずだと述べているのですが、それが事実だとしたら、トロイ戦争とはいったい何だったのでしょうか。戦争の大義であった奪われたヘレネと財宝はトロイに無かったのです。それでもトロイは滅びなければならない運命だったというのでしょうか。

 トロイ戦争は紀元前1200年に起きたのですが、それから約3200年が経った今日、私たちは相変わらず同じような戦争を繰り返しています。

 2003年3月20日、イラク戦争が勃発。この戦争の大義は大量破壊兵器にあったのですが、結局、それは見つかりませんでした。

 人類は歴史から何を学んでいるのでしょうか。「歴史は繰り返す」というどうしようもない人間の性を未来も見続けなければいけないのでしょうか。当時、虚しさだけが残るなかで、クライマーの皆さんの協力を得てひとつの作品を作りました。

『No War』
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=13


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「Homer sometimes ... - Climbing in Kalymnos -」(後編)
制作 Original CV
作品時間 59分

 「折角、ギリシャまで行くのです。クライミングをしただけで帰って来るのはあまりにもったいない。」というAご夫妻のご意見で、カリムノス島から移動して、アテネに1週間弱滞在しました。

 実を言うと、それまで私はクライミング以外の目的で、そんなに長く海外に滞在したことはなかったのです。

 Aさん曰く、「ヨーロッパ各地の遺跡や文化施設を回ってそのひとつひとつを見ながら、その原点を追っていくと、それらはすべてギリシャに繋がり、ヨーロッパ最古の叙事詩を書いたホメロスにたどりつく。」

 だからこそ、アテネをじっくりと見ていた方が良いということなのでしょう。

 パルテノン神殿のあるアクロポリス、国立考古学博物館、ペルシャ戦争の舞台となったサラミス島など毎日、毎日、歩き回りました。クライミングよりもこちらの方が疲れましたが、百聞は一見に如かずの言葉通り、これまで本を読んで想像していた以上にはるかにスケールの大きい世界がそこに広がっていました。

 その中でも最も心を揺さぶられたのはミケーネ遺跡でした。

 ミケーネ遺跡はペロポネソス半島の中にありますので、私たちだけでは簡単に行けません。そこで、ミケーネ遺跡のバスツアーに申し込んだのです。朝、バスに乗り込むと女性のバスガイドがマイクを持って英語で話し始めました。

 「皆さん、こんにちは。ギリシャ語で『こんにちは』は『カリメラ』。『カラマリ』じゃないわよ。」(『カラマリ』はイカのリング揚げ。)

 笑ってやった方がいいんだろうなと思いつつも・・・。そうやって、バスツアーは始まりました。

 アテネから出発して、両側が切り立った深い崖になっているコリントス運河を通り、ペロポネソス半島に入りました。エピダヴロス野外劇場を見た後、何とも美しいナフプリオンの港を通過。時間があるなら、ぜひとも一泊したい場所。そして、アルゴス平野に出て、いよいよミケーネ遺跡のある小高い丘に入っていきました。

 バスが駐車場に停まると、そこから丘の頂上を目指して、歩いて登ります。遺跡の入り口には獅子の門があり、大きな三角石に2頭の獅子が彫られています。威厳という言葉が相応しい。その門を通って右手に、アガメムノン王の黄金のマスクが発掘された円形墓地があり、トロイを攻めたギリシャ軍総大将のアガメムノン王が居住していた王宮を通りました。そして、一番高いところにあるメガロンに出ると、アルゴス平野が下方に一面に広がっていました。丘の上からの絶景です。そのはるか向こうは海です。

 「あの海からトロイに向けて、ギリシャ軍は出発していったんだ。ホメロスがヨーロッパ最古の叙事詩として書き、それを神話ではないと信じて発掘したシュリーマン。その事実がここにある。」

 そう思うと膝ががくがくと震えて来ました。

 「ここがヨーロッパ文化の出発点なんだ!」

No. 179 2018-07-01 [撮影四方山話] ネコ客動員数

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 今、世界の話題はワールドカップのみ。オーレオレオレオレ―!

-------------------------------
<目次>
1.[撮影四方山話] ネコ客動員数
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「Homer sometimes ... - Climbing in Kalymnos -」(中編)
-------------------------------

1.[撮影四方山話] ネコ客動員数

 毎朝のジョギングは15年以上続く、私にとっては欠かせない日課となっています。横浜から北九州へ引っ越してからもそれは変わることはありません。

 しかし、横浜と北九州では同じ日本の中とはいえ、環境が違います。横浜では毎朝のジョギング中に、私と同様に走っているジョガーに2-3人は会いました。一方、ここ北九州に移ってから、毎朝のジョギング中にジョガーに会うことは滅多にありません。もちろん、こちらもメキシコオリンピックで銀メダルを取った君原健二さんが走っていたという、ジョガーの集まるコースやエリアなどがあるにはあるのです。その付近を私が走っていないということもあるでしょうが、それにしても会わないものです。

 ところが、こちらで毎朝のジョギングで必ず会う観客がいます。それはネコです。

 いつも定位置にじっとしていて、こちらを見ています。
 「なんで、朝からそんなにフーフーハーハー言いながら、走っているの? もっと世の中、楽に暮らせばいいのに。」
と言われているようで・・・。さすがに時代は明治ではないので、「吾輩は猫である」と気取っている輩はいないようです。

 日によっては10匹以上のネコ客動員数があり、横浜の5倍以上はいると思います。

 そうそう、福岡県にはネコ島と呼ばれている島がいくつもあり、玄界灘に浮かぶ相島、そして、響灘に浮かぶ藍島、馬島は有名です。ネコ島という意味はその島に住む人間の数とネコの数を比較して、ネコの数の方が多いとき、そのように呼ぶとのこと。藍島、馬島は日本書紀にも名前が出て来ますので、由緒があるところです。

 福岡県のあまり知られていない一面でした。ネコ好きな方はお越しくださいませ。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「Homer sometimes ... - Climbing in Kalymnos -」(中編)
制作 Original CV
作品時間 59分

 ギリシャ・カリムノス島はエーゲ海の東南方面、それもトルコの海岸線に近いところに位置しています。

 私が訪れた2006年頃はカリムノス島の空港はオープンしたばかり。私たちは従来通り、アテネからコス島までローカル線の飛行機で行き、そこから船に乗り継いでカリムノス島へ入りました。

 コス島は医学の祖ヒポクラテスの出身地ですので、それに関する遺跡もあります。お医者さんならば興味津々というところでしょうが、私が興味を持ったのはその気候でした。それはカリムノス島との比較という意味でです。カリムノス島とコス島は船で40分ぐらいしか離れていないのですが、気候がとても違うのです。特に感じたのは湿度。カリムノス島は乾燥しているのですが、コス島はそれに比べて湿度が高い。

 だから、コス島は草が育つので牛を飼えるそうですが、カリムノス島は乾燥し過ぎていて、棘状の植物しか育ちません。よって、ここでは牛を育てられずに、ヤギしか飼えないのです。目と鼻の先のように近いのに、気候が全く違い、動植物体系も違うとは不思議なものです。

 カリムノス島の港町に入ると、そこからマスーリまでタクシーで行きました。マスーリこそがクライミングの拠点となる小さな町です。私たちはその中にあるひとつのスタジオに部屋を借りました。窓を開けると正面にテレンドス島が見え、実に美しい。海はきれいなコバルトブルー。そして、空気は乾燥して本当に清々しい。

 毎朝、陽が差し込んでくると朝食を始めるのですが、これは「郷に入れば郷に従え」の通り、隣の部屋のドイツ人クライマーと同じように、陽が差し込む側のドアを開け、テーブルを外に出して、陽を浴びながら食事をします。部屋で食事をするのとは違い、実に開放的で気持ちがよいのです。別に豪華なものを食べているわけではなく、パンとコーヒーというだけのことなのですが、気持ちは豪華になれるということでしょうか。

 ある日、SINPLIGADESという標高300メートル程のクライミング・エリアに行くことにしました。そこのエリアに行く途中に、家を建てている老夫婦にお会いしたのです。まだ基礎工事中なので、セメントを捏ねていました。慣れないのでしょうか、そのおじさんの顔いっぱいに飛び散ったセメントの粒が付いていました。

 こちらに気付くとセメントの粒の顔に満面の笑みを浮かべて、
 「日本から来たのかい? わしは昔、船乗りとして、八幡、広島、神戸へ行ったことがあるよ。よく来たね。この美しいカリムノス島を楽しんでいってくれよ。」
と、英語で話かけて来ました。その柔和な笑みが本当に印象的でした。自分が老いたとき、あのように人を包み込むような、柔和な笑みを浮かべることが出来るのだろうか。その日から、あのおじさんの笑みは私の目標となりましたが、とてもその境地に達するまでには至りません。

 カリメラ(こんにちは)、エフハリスト(ありがとう)、というふたつのギリシャ語と共に、今でもあのおじさんの笑顔は心の中にずっと残っています。

 さて、カリムノス島には途方もないクライミング・ルートが開拓されていました。2006年の段階で、エリア数は43、開拓されているクライミング・ルートは853。2週間やそこらの滞在でとても回り切れるものではありません。

 その中で、興味を持った2つのクライミング・エリアの名前は、ILIADA、ODYSSEY。どちらもホメロスが書いた2つの叙事詩イーリアス、オデュッセイアにちなんでいます。そして、そのエリアで設定されているクライミング・ルート名はその2つの詩に登場する人物が中心。

 例えば、ILIADAエリアのクライミング・ルート名は次の通り。

 Paris, Beautiful Helen, Menelaos ・・・ トロイ戦争を起こした3人の張本人。トロイの王子パリスはスパルタ王のメネラオスから、その妻ヘレネを連れてトロイに逃げ帰りました。トロイ戦争はヘレネを取り戻すための戦争だったのです。

 Ektor ・・・ ヘクトールはパリスの兄であり、トロイ最強の戦士。ギリシャ側に勝利目前まで追い詰めるも、最後はギリシャ最強の戦士アキレスに討たれてしまいます。

 Priamos ・・・ プリアモスはトロイの王。ヘクトール、パリスの父でもあります。アキレスに討たれたヘクトールの亡骸は野ざらしにされたまま。見るに耐えかねたプリアモス王は危険を覚悟の上で、夜中に単独でヘクトールの亡骸を捜しに出かけました。

 このPriamosという名前を付けられたクライミング・ルートは高さ31メートルの長いルートでした。グレードは6b+なのですが、その淡々としたルートにプリアモス王の苦悩が滲み出ているように感じたのです。トロイ王でありながら、その最愛の息子ヘクトールの亡骸を求めてさ迷い歩く父の姿。

 このクライミング・ルートの名前を付けたクライマーはこのルートのどこかに、私が感じたものと同質の何かを感じていたのではないでしょうか。

 ギリシャ・カリムノス島までやって来てクライミングをした価値は十分過ぎるほどにありました。それは自分にとってはひとつの大切な宝だと言えるものです。

<1分10秒ほどの映像>
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=21

No. 178 2018-06-01 [撮影四方山話] 終わりの始まり

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 近くの公園に花の苗をたくさん植えました。花は人を明るくします。

-------------------------------
<目次>
1.[撮影四方山話] 終わりの始まり
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「Homer sometimes ... - Climbing in Kalymnos -」(前編)
-------------------------------

1.[撮影四方山話] 終わりの始まり

 突然ですが、このメルマガは今回を含めて残り12回の発行をもって終了します。

 その理由は、メルマガの当初の目的であった個人向けビデオ作品市場の裾野の拡大という点において、十分に達成し、役目を終えたと思うからです。

 このメルマガの発行を始めた2003年当時の市販用ビデオカメラはHi8からMiniDVに代わり始めた頃。つまり、漸くアナログの時代に終止符を打って、デジタルの時代に移行してきたときでした。しかし、市販用ビデオカメラの各社のカタログを見ると、購入の動機付けとしては相変わらず、結婚式や子供の運動会の撮影といったものばかり。

 市販用ビデオカメラの用途はもっと広いはず。それを使った個人向けビデオ作品市場の潜在力はもっともっと大きいはずであり、その大きさをどうにかして広めたいと思っていました。

 そこで思いついたのが、このメルマガの発行。「先月のイチオシ!! ビデオ作品」として、毎月初めにひとつずつビデオ作品を紹介し始めました。いろいろなジャンルのビデオ作品を紹介することにより、その潜在力の大きさを示すことができるのではないかと思ったからです。

 それをこの15年間続けてきたわけですが、紹介したビデオ作品の数はもう知らぬ間に180近くに達しているのですね。

 ジャンル別として、10のカテゴリーに分けました。「クライミング・登山」、「結婚式・披露宴」、「音楽ダンス発表会」、「家族」、「旅」、「卒園式・卒業式」、「お祭り」、「講演会」、「同窓会」、「ヨット」です。
https://www.originalcv.com/jisseki/sakuhinShoukai/

 カテゴリーの分け方があまりにバラバラで適切でないとは思いましたが、逆に、それだけ個人向けビデオ作品の用途は裾野が広いということを物語っているのではないかとも思いました。また、紹介したビデオ作品の中には、上の10のカテゴリーのどこに入れたらよいのかわからないものもありましたが、強引にそのどこかに入れてしまったものもありました。

 こうやって振り返ってみると、よくこれだけ紹介して来たなと感慨深いものがあります。まさに世界中、日本中を駆け回って撮影したものもたくさん含まれていますから・・・。

 そして、今や個人向けビデオ作品制作の市場には大手のテレビ会社までが参入してきており、15年前に比べてそのポテンシャルがいかに拡大し、様変わりして来たのかがわかります。

 もちろん、ビデオカメラの記憶方式はテープからハードディスクへ、そして、今ではSDカードになっており、ビデオ編集自体も安価なソフトが普及して、格段に簡単に出来るように変わって来ました。そして、YouTubeの登場により、アマチュア動画の市場認知が一気に進みました。

 このように世界は大きく変わって来ましたが、だからと言って、ひとつのビデオ作品がもつ価値は古今東西変わらないと思います。それは人の心に沁み込む素晴らしいアートです。

 メルマガの発行は残り12回をもって終わりにしますが、オリジナル・シー・ヴイの個人向けビデオ作品制作が終了するわけではありません。皆様からビデオ作品制作を依頼され続ける限り、これまでと同様にオリジナル・シー・ヴイを続けていきます。それが私のライフワークなのですから・・・。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「Homer sometimes ... - Climbing in Kalymnos -」(前編)
制作 Original CV
作品時間 59分

 エーゲ海に浮かぶ島、ギリシャ・カリムノス島で本格的なクライミング・ルートの開拓が行われていると聞いたのは2002年頃だったと思います。

 雑誌などのマスメディア情報ではなく、クライミング仲間からの口コミ情報でした。そのとき、現地で撮影された複数枚の写真も見せられたのです。コバルト・ブルーの海に浮かぶ真っ白な島。タイ・プラナンのエメラルドグリーンの海とは対照的でした。その美しさにいっぺんで魅せられました。

 早速、情報収集を始めました。

 ギリシャ・カリムノス島で本格的なクライミング・ルートの開拓が始まったのは2000年前後。開拓を始めた人たちはそれを2000年プロジェクトと呼んでいたようです。もともとカリムノス島は夏のオン・シーズンに訪れる観光客のためのリゾート地だったのですが、冬のオフ・シーズンは観光客が寄り付きません。リゾート施設も観光客が来ないのではどうしようもありません。

 現地の住民は、冬はカリムノス島を離れて、ギリシャ本土やロードス島などの大きな島に移って、出稼ぎをしなければいけませんでした。本当は美しいカリムノス島で1年を通して住んでいたかったのです。

 そこで冬でも観光客を集める方法がないかと目を付けたのが、カリムノス島のあちらこちらにある大きな石灰岩の岩場。冬のシーズンはここにクライマーを招き入れることが出来ないかと・・・。

 ここでもタイ・プラナンと同じようにクライマーと現地住民との間に協力関係が出来上がったのです。

 まず、クライミング・ルートを開拓するには大量のクライミング・ボルトが必要になります。それをすべて現地住民側が準備し、クライミング・ルートを開拓するクライマーに無償提供しました。

 地元住民は開拓するクライマーに対して、
 「クライミング・ボルトを無償提供するから、クライミング・ルートをたくさん開拓して欲しい。そして、開拓したクライミング・ルートの場所や難易度などの情報は地元住民側に知らせて欲しい。」
という具合です。そして、その情報を基に、カリムノス島のクライミング・ガイドブックを作成し、カリムノス島の素晴らしさを世界中のクライマーに向けて発信しました。

 そして、クライミング・コンペを開き、著名なクライマーを招待したりして、その知名度は瞬く間に世界中のクライマーに広まっていったのです。

 一方、私の方は現地のクライマーにEメールを入れ、クライミング・エリアや宿泊施設の具体的な情報を入手していました。あとは行くだけという状態になっていたのですが、同行するパートナーが見つかりませんでした。企画する段階では深く考えていなかったのですが、滞在期間がネックになっていました。

 私としては折角ギリシャまで行くのだから、少なくてもクライミングで2週間、アテネなどでの観光で1週間、計3週間の旅行日程を組んだのです。ヨーロッパではバカンスの考え方が定着していますので、3週間の休みと言っても驚きません。しかし、日本の場合、サラリーマンで3週間休める人なんて、まったくの皆無に近い・・・。

 企画はそのまま棚上げされて、数年が経ちました。

 そして、あるとき、たまたま、Aご夫妻に出会ったのです。

 「今年、ギリシャ・カリムノス島へ行って来たよ。ひと月ぐらい滞在したかなあ。帰ってきたらギリシャボケしていたよ。来年も行くけど一緒に行く?」

 「はい、行きます!」

 人の運命なんて、どこでどのように変わるかわかりません。そして、Aご夫妻に出会えたことはまったくの幸運でした。Aご夫妻はヨーロッパの文化に深い造詣をもたれていたのです。

 まず、これを読んでみたらと一冊の本を手渡されました。シェイクスピアの問題作「トロイラスとクレシダ」でした。トロイ戦争を題材にしているのです。これを皮切りにまずは原点となるホメロスのイーリアスとオディッセイア、アイスキュロスのアガメムノーン、ペルシャ戦争を描いたヘロドトスの歴史と読破していきました。

 このことが翌年、ギリシャを旅したとき、どれほど役に立ったか。というよりは、旅というものをどれほど奥深いものにして行ったのか。クライミングだけではない人生の深さを感じるようになっていったと思います。

No. 177 2018-05-01 [撮影四方山話] 虜(とりこ)

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 ああ、花粉症・・・。

-------------------------------
<目次>
1.[撮影四方山話] 虜(とりこ)
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「HOT CLIMBING(シリーズ)」
-------------------------------

1.[撮影四方山話] 虜(とりこ)

 タイ・プラナンの話題も4回連続となっては、皆さんも飽きられることでしょう。まだまだ書きたいことはありますが、今回でタイ・プラナンの話題については一旦、筆を置きます。

 最後にタイ・プラナンの虜になっていった理由について、私なりの意見を述べておきたいと思います。

 私は計6回タイ・プラナンへ行きました。それほどタイ・プラナンに魅せられていたのです。ロサンゼルスに住む私の友人は当時、私と同じように毎年のようにタイ・プラナンへ行き、「タイ・プラナンは第2の故郷だ」と公言していました。また、私に同行した日本人クライマーのひとりはその後もタイ・プラナンに通い続け、タイ・プラナンで知り合った女性と結婚し、今ではそこのインストラクターのような仕事をしています。まさに彼の人生はタイ・プラナンそのものになってしまったと言っても過言ではありません。

 20年前、世界中のクライマーを魅了し、タイ・プラナンに彼らを集結させた魅力とは一体、何だったのでしょうか。

 それは世界でも類を見ない「Climbing & Resort」に成功したからです。つまり、クライマーによるクライミングルート開拓と地元住民による宿泊施設などのリゾート開発が車の両輪となってがっちりと噛み合ったからです。

 世界中に良い岩場はたくさんあります。しかし、その良い岩場に集まってくるクライマー達はその岩場の近くのキャンプ場でテント生活を送るのが普通であり、リゾート地で悠々自適に生活していたわけではありませんでした。彼らはクライミングだけに没頭し、必要最低限のお金しか使いません。よって、地元住民にとってはありがたいわけではなく、トイレの問題や駐車場の問題でトラブルを起こし、なおかつ、墜落事故などが生じてしまっては迷惑以外の何者でもありませんでした。

 「クライマー VS 地元住民」という構図は世界中至る所でありましたが、この両者が手を取り合って協力をするという姿は見たことがありませんでした。タイ・プラナンの場合、それが実現したのです。

 だから、初めてタイ・プラナンに行ったとき、いつも毛嫌いされているはずのクライマーが暖かく迎え入れられたということが新鮮な喜びでした。居心地がいいのです。そして、すべてのものが安いので、お金でカリカリする必要はありません。日本での生活を考えれば、そこの生活は王様になったような気分です。

 日本から来る私でさえ、そのように思ったのですから、北欧や北米からクリスマスの寒い時期に来るクライマーにとってはアジアのエキゾチックな魅力と共に、その地がパラダイスに見えたのも当然のことです。

 昼間はクライミングで狂喜し、夕方、美しく澄んだエメラルドグリーンの海で汗を流す。そして、夜はバーで世界中から集まって来たクライミング仲間と共にビールを片手に語り明かす。旅で気持ちが大きくなっていますから、話は輪をかけて大きくなっていきます。世界中から集まって来たクライマー仲間と共有できるゴージャスな時間。

 楽しい。楽し過ぎる。これを体験するとタイ・プラナンの虜になっていくのです。

 しかし一方で忘れてならないのは、リゾート開発というものは大きな自然破壊を伴うということです。美しかった海は毎年白濁化が進み、もう元に戻ることは決してありませんでした。

 すべてがうまくいくことなんてあり得ません。常に何かの犠牲を伴いながら進んでいくものですが、昔のタイ・プラナンを知っている人たちは自然とそこから足が遠ざかっていきました。過去の良い想い出を胸に秘めながら・・・。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「HOT CLIMBING(シリーズ)」
制作 末次浩


 「HOT CLIMBING」 (2001)
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=7
 「HOT CLIMBING2」 (2002)
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=9

 この2作品こそが、情報の少なかったタイ・プラナンを日本の多くのクライマーに紹介する決定的なものとなりました。

 これらの映像情報がどれほど大きな存在であったかは当時の環境を見ればわかります。

 登山用品販売店に出かけて行って、そこで販売されているものと言えば、欧米の著名人クライマーのVHSテープが主流であり、著名な日本人クライマーのビデオは数本しかありませんでした。

 インターネットはまだ黎明期であり、個人のホームページが漸く広がっていったような時代。回線速度は256k-IMbps程度なので、インターネット上で配信する動画もマッチ箱のようなサイズのものが紙芝居でできる程度。それでも通信料が増えてしまうので、動画配信するには専用線を引いて、自宅でサーバーを立ち上げなければなりませんでした。もちろん、YouTubeなんてあるわけではありません。

 「HOT CLIMBING2」の制作においては、私自身がまだサラリーマン生活でしたので、映像編集にかける時間は会社へ行く前の1-2時間程度。パソコンの性能だって今の比ではありません。また、この作品は現地で知り合ったドイツ人や香港人クライマーにも配布するため、英語のテロップを入れなければなりませんでした。よって、このひとつの作品を完成させるのに2か月ぐらいはかかりました。

 一人の限られた時間でビデオ作品を制作するということがどういうことであるのかが、身に染みた時でした。そして、この映像情報の配布はVHSテープから代わって、当時出始めたDVDを媒体にして、郵送で送りました。ひとつの作品のインターネット上での動画配信なんて、夢のまた夢。

 そして、この映像情報を欲しいと希望する日本各地のクライマーに配布され、そして、それはその地域の多くのクライマーに回覧されていったのです。

 私にとって、タイ・プラナンとは世界各地のクライマーに出会えるきっかけであり、そして、その映像情報を配布することによって日本各地のクライマーと知り合えるきっかけでもありました。そして、その映像のもつ力(ちから)を実際に肌で感じた時でもありましたから、その後の自分の人生の時間を映像制作に携わることにかけてみたいとも思ったのです。

 その後、いくつかのきっかけが重なって、サラリーマン生活に終止符を打ち、翌年、個人向け映像制作サービスとして、オリジナル・シー・ヴイを立ち上げました。

 一方、リゾート開発が進み、ますます一般観光客が増えるタイ・プラナンに対する興味は次第に薄れて来ました。それに代わって、エーゲ海上の小さな島で大規模なクライミングルートの開拓が進めらているという情報がいち早く入って来ました。その数枚の写真を見ただけで、ここは行かなければならないと直感したのです。現地のクライマーにEメールを送り、いろいろな情報を取り寄せて企画を進めたのですが、その実現は容易ではありませんでした。

 次回はその話から始めたいと思います。乞うご期待。

No. 176 2018-04-01 [撮影四方山話] 両生類感覚

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 お彼岸過ぎて、いよいよ春本番です。

-------------------------------
<目次>
1.[撮影四方山話] 両生類感覚
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「PHRA NANG 2000」
-------------------------------

1.[撮影四方山話] 両生類感覚

 川や海の撮影のとき、映像カメラクレーンを使って、陸上から水中に入っていくシーンをご覧になられている方も多いのではないかと思います。なんとも不思議な感覚を持つシーンです。

 映像カメラが陸上にあるときは鳥が飛んでいたり、木が風で揺れていたりするのですが、映像カメラがザブンと水中に入るとそこにはたくさんの魚が泳いでいます。

 スクーバ・ダイビングを体験すると、この感覚が実際に味わえます。両生類になった気分ですね。

 タイ・ピーピー島で”体験ダイビング”をした私は翌年のタイ・プラナン行きを目指して、初心者向けのスクーバ・ダイビングのライセンスを取得することにしました。つまり、PADIのオープンウォーターコースを受講したのです。

 このコースは本当によく考えられていて、スクーバ・ダイビングの知識と経験を積むには最善の方法だと思います。1日はプールで、2日間は海に入っての実習だったと思いますが、受講者をいきなり潜らせたりはしません。徐々に徐々に水に馴染ませて、少しずつ少しずつ深く潜っていくようにカリキュラムが組まれています。ですから、耳抜きが苦手な人も徐々に対応出来るようになります。

 私が受講した初日、驚きました。

 受講者はたくさんいたのです。まず、インストラクターが声をかけました。

 「皆さん、どのような方法でもよいので、このプールの向こうまで泳いで行ってください。泳げない方は歩いていってもいいです。」

 私は平泳ぎなり、クロールなどで25メートルのプールを泳いでいったのですが、なんとまったく泳げない女性も複数受講していたのです。泳げないのに、スクーバ・ダイビングのライセンスを取得しても大丈夫なの? 結果的には受講者全員がライセンスを取得しましたからOKなのでしょう。

 それにしても違う世界というのは面白い。普段、陸上で生活している私たちが水中に入ると、まったく予想していないシーンに出会うことがあります。

 あの泳げない女性がレギュレータのマウスを加えて潜っていたのですが、海上に頭を出した時、もどしてしまいました。余程気分が悪かったのでしょう。陸上では「あーあーあーあ」となるところですが、海では違います。小魚が彼女のところにたくさん寄って来て、彼女が出したものをものの見事に全部食べてしまいました。あっという間のことです。海の浄化作用というのでしょうか・・・。

 そして、私が最も気に入っていた浮遊感覚。手足をバタバタさせずに水中に留まっているだけのことなのですが、これがなんとも気持ちがよいのです。アクアラングから肺に酸素を吸い込みますが、肺は浮袋と同じなんです。息を吸うと浮上しますし、息を吐くと自然と潜っていきます。数メートル程度なら呼吸だけで潜ったり浮いたり出来ます。

 茶の間のテレビしか見ていないのに、世界中のことを全部知っていると思っているあなた。両生類体験のような未知との出会いは驚きと共に、あなたの気持ちをリフレッシュしてくれるはず。閉じ込められた世界から抜け出して、新しい息吹を感じてみませんか。「百聞は一見に如かず」ですよ。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「PHRA NANG 2000」
制作 末次浩
時間 37分

 昨年の”体験ダイビング”で懲りた私はPADIのオープンウォーターのライセンスを取得し、今年こそは満足の出来るスクーバ・ダイビングをしようと意気込んでいました。

 今年(西暦2000年)のタイ・プラナン行きも、昨年と同様にメンバーはAさんと私の二人だけ。珍道中コンビは相変わらず健在でした。

 プラナンに滞在を始めて、最初のクライミングのレスト日に、いよいよスクーバ・ダイビングをすることにしました。ライレイビーチではフランス人のインストラクターがダイビング・スクールを開いていましたので、そこに参加することにしました。

 その日、器具一式を載せてボートに乗り込んだのはインストラクターであるフランス人夫妻、アドバンスドコースを受講しているドイツ人カップル、そして、初級コースを楽しむ日本人のAさんと私の計6人でした。会話は英語で行いました。なんだか不思議ですね。

 ライレイビーチを出発して、沖合いの小さな島の岸壁沿いにボートを留めました。しかし、そこは入り江ではなく外洋なので、ボートは波間に揺られ、そしてまた、揺られます。1本目のダイビングを終えたAさんと私は、アドバンスドコースを受講しているドイツ人が上がってくるのを待っていたのですが、その間に完ぺきに船酔いしてしまいました。二人の顔は青白いというよりも土色をしていました。

 持参した昼食を見る気もしない。2本目のダイビングなんてしなくてよいから、さっさとライレイビーチに引き返して欲しい。

 そこに1本目のダイビングを終えたドイツ人たちが上がって来たのですが、「こんな美しい海は見たことがない」と目を輝かせ、楽しさではち切れないというように興奮していました。私ら二人とまったく対照的でした。

 その後も、2本目のドイツ人たちのダイビングが終わるのをボートの上で待ち続けるこの苦しみ。どうも私にとって、タイでのダイビングは相性が悪いという一言に尽きました。

 そして2回目のタイ・プラナンの旅も最終日を向えるという日、タイワンドウォールというクライミングエリアのマルチピッチを登ることにしました。6A+ 25m, 6B+ 25m, 7A 45m, 6B 28mという薄かぶりの前傾壁が100m以上続く、日本では見ることが出来ない豪快なルートです。登り切った後は40m,40m,55mの3回の懸垂下降で降りて来ます。最後の55mは完全に空中に飛び出る空中懸垂となります。

 が、しかし、この年に持参したロープ2本の長さは60mと50mだったのです。

 すぐに、「最後の空中懸垂はロープの長さが5m足りなくなるね」と分かりそうなもの。「そんなこと考えなくたってわかるよ」とクライミング仲間からお叱りを受けるのはごもっとも。

 私たち二人はプラナン・ボケをしていたんでしょう。何の不安も持たずにこのルートにトライし、登り切ったのです。1回目40m、2回目40mの懸垂下降を終え、最後の3回目55mの懸垂下降に入ろうと私が先に降りようとしたときでした。

 50mロープの末端が空中でゆらゆらと揺れているんです。

 「Aさん、ロープが下に着いてないよ。」

 あっと、その瞬間始めて、55mの懸垂下降で50mのロープを使ったら、5m足りなくなるということに気付いたのです。

 「馬鹿だね~。どうすんの?」

 目を凝らして下方の壁を観察していると、豪快な空中懸垂が始まるその直前のところに、他のルートの下降ポイントがあることに気付きました。そこまで10m程です。

 「あそこまで降りて、懸垂支点を作り直せば、無事に降りられる。助かった~。」

 クライミング事故の約半分は懸垂下降時に発生しており、そのほとんどが死亡に繋がる大事故になっています。このような大チョンボがあって以来、私は懸垂下降時には2重にも3重にも4重にも注意をする習慣が身に付きました。

 ヒューマンエラーは必ず起きる。だからこそ、ダブルの安全確保が必要。わかり切っていることを確実にやる習慣こそが身を守る秘訣なのかもしれません。


 3分ほどの映像です。プラナンのクリスマスの夜。そして、タイワンドウォールのクライミングと懸垂下降のシーンも見れます。
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=4

No. 175 2018-03-01 [撮影四方山話] Clothing is optional.

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 春。この響きが魅力的です。

-------------------------------
<目次>
1.[撮影四方山話] Clothing is optional.
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「Climbing and Diving in Thailand」(後編)
-------------------------------

1.[撮影四方山話] Clothing is optional.

 前回に引き続き、タイ・プラナンの話から進めます。
 20年前のタイ・プラナンは、現在ほど豪華なバンガローが多数乱立していたわけではなく、質素なバンガローの数が両手で指折って数えてもまだ余るぐらいのものでした。今では信じられないでしょうが、貸しテントがたくさん張っているような状態でした。ということは観光客全体でみても、20年前の数は現在の十分の一以下だったのではないかと思います。

 また、ここに訪れる一般観光客とクライマーの比率は現在は7対3ぐらいだと思いますが、20年前ではこの比率は逆転していて、3対7ぐらいでした。つまり、圧倒的に一般観光客が少なかったのです。

 では、オーバーハングの岩場に囲まれたビーチで、クライマーでない一般観光客とはどのような人達だったかというと、もちろん暖かい南国で余生を過ごしたいという年配の方もいらっしゃいましたが、なんと、ヨーロッパから来た若いヌーディストもあちらこちらで見かけました。

 最初、私はヌーディストを発見したとき、面食らいました。また、依りによってビーチで彼女らとすれ違うこともあったのですが、動揺しました。彼女らは堂々としていますが、こちらは上を向いたり、下を向いたり、目線のやり場に困り、別に悪いことをしているわけではないのですが、気持ち的に恥じ入ってしまいます。堂々としている人間の方が明らかに強い。「負けたー」という感じです。

 その後、私は地中海沿岸を点々と旅したとき、人の少ないビーチや有料のプライベートビーチでヌーディストをよく見かけましたので、ヨーロッパでは特別なことではないんだと思い、驚かなくなりました。

 そうそう、カナダ・バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学の広大なキャンパスを訪れたときのことです。この大学を母校とする女性クライマーに案内してもらったのですが、ここは新渡戸稲造記念庭園もあり、天皇陛下、皇后陛下もカナダご訪問時に、ここにお立ち寄りになられたと聞きましたので、カナダでも名門大学です。

 この大学のキャンパス内にビーチがあるので、そこに行こうということになりました。ビーチに降りる細い階段のところに看板があり、次のように書かれていました。

"Clothing is Optional at Beach ahead."

「ヒロシ、この意味、わかる?」

「???」

 ビーチに降りていくと、ヌーディストがあちらこちらにいました。

 (あ、なるほど。服を着るのはオプションね。服を着ても着なくても、どちらでもよいというわけだ。)

 そして、ビーチから階段を登って帰るとき、先ほどの看板の裏に次のように書かれていました。

"Clothing is Required."

 (ここから先はちゃんと服を着て下さいよ、ということでしょう。)

 それにしても、ヨーロッパや北米のこのおおらかさに驚かされます。もし、東京大学のキャンパス内にこのようなビーチがあったとしたら、日本のマスコミからも世間からも「勉学に励まなければならない身において恥ずべき・・・」なんて袋叩きにされるのは目に見えています。

 ヨーロッパや北米では太陽光の強度は弱く、日照時間も少ない。だから、全身で太陽の光を浴びたいということが背景にあるのかもしれませんが、ヨーロッパ・北米とアジアの間にはっきりとした文化の違いがあるとつくづく思います。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「Climbing and Diving in Thailand」(後編)
制作 末次浩
時間 44分

 「この世ハ夢のごとくに候」 (足利尊氏が清水寺に奉納した願文の冒頭)

 まるで夢のようだったタイ・プラナンの一週間は瞬く間に過ぎていきました。この旅に残された時間はあと3日。最終日はプーケットから飛行機に乗って帰りますので、実質残された時間はあと2日。この2日間をダイビングの拠点として有名なピーピー島で過ごすことにしました。

 プーケットから多くの観光客を乗せた大型ボートがライレイビーチに立ち寄りました。私たちもここで乗船。一時間ほどでピーピー島に到着しました。乗船中、嫌な予感がしてたのです。

 これだけ多くの観光客がいるということはこの観光客を泊めるだけの施設が必要になるということ。つまり、それだけ多くのバンガローやホテルはこれから到着する小さな島にあるのでしょうか。

 大型ボートがピーピー島の桟橋に到着すると、私も含めて観光客は一斉に走り出しました。Aさんは桟橋で私たちの荷物の見張り。私がバンガローの予約という段取りです。
 まずは正面の細い道の両側にバンガローが密集していますので、片っ端からバンガローの受付に飛び込んで行きました。

 フル(満室)、フル、フル、フル、フル、・・・。ひとつも空いていません。

 一旦、桟橋に戻って、Aさんに状況を説明すると、

 「空いてなければ、このビーチで星でも見ながら寝ればいいよ。」

 今度は右方面に向かい、バンガローの空き部屋を捜しに行きましたが、こちらもダメ。また、桟橋に戻って、最後に左方面へ向かいました。こちらはバンガローはあまり無く、民家が多くあるようなところでした。

 ハ~ッ、空いているバンガローはひとつもないと落胆していたら、後ろから声がかかりました。

 「あんた、部屋を捜してるんだろ。この部屋が空いてるから、ここで良ければ泊っていけばいい。」

 民家のおじさんがこちらを見て、ニッコリと笑っているんです。

 それにしても悟り人Aさんの「どうにかなるよ」という言葉通り、必死にもがいていればどうにかなってるんです。必死にもがかなければどうにもなりませんけど・・・。

 その間、Aさんはビーチで何をしていたかというと、現地の女の子を掴まえてはツーショットで写真を撮ってたんです。もう・・・。

 宿泊できる部屋が決まり、一安心したところで、二人して賑やかな通りにくり出したところ、バッタリと若い日本人女性Bさんに出会いました。多分、この時この瞬間、ピーピー島にいる日本人はこの三人だけだったと思います。Bさんはここでスクーバダイビングのインストラクターをやっているということでした。Bさんは久しぶりに使える日本語が嬉しかったのでしょう。三人の中で話しは盛り上がりました。

Bさん 「折角、美しいダイビング・スポットのあるこのピーピー島に来たんだったら、スクーバダイビングをしていけば・・・」

私 「スクーバダイビングしたことないんだけど。」

Aさん 「俺はPADIのオープンウォーターのライセンスを持ってるよ。」

Bさん 「それじゃ決まりね。Aさんはライセンスありで問題なし。末次さんは”体験ダイビング”をしていけばいいのよ。」

 トントン拍子でことが決まり、小さなボートに乗って波の穏やかな入り江に入り、停泊しました。アクアラングなど一式の装備を付けて三人とも海に飛び込みました。もちろん、Bさんのコントロールの下で潜ります。AさんはBさんから10メートル以上は離れない。私は常にBさんと一緒に行動する。

 ところで、ライセンスを取得している人のダイビングと”体験ダイビング”では何が違うかというと、潜るということに関してはまったく同じ。予め潜ることに対してどれだけ心の準備をして来たかということが違うのです。はっきり言えば、”体験ダイビング”とは心の準備をしていない人を強引に潜らせるということなんです。

Bさん 「ハイ、これがマスククリアね。わかる。ハイ、では潜って・・・。」

私 「・・・」

 Bさんは私が装着しているアクアラングの首根っこのところをいきなり掴み、私を海底に引き込もうとしました。もちろん、潜ることが目的なのですから、その行為は当然のことなんですが・・・。

 でも、数メートルも潜らないうちに、私は前頭部がガンガンに痛くなりました。耳抜きが出来てないんです。深く潜れば潜るほど痛みが増します。痛みに耐えられなくなって、Bさんに水面に上がりたいと伝えたいのですが、レギュレータのマウスピースを口に加えていますので話しが出来るわけではありません。身振りで上がりたいとポーズを作ろうとしますが、Bさんには伝わりません。

 一方、Bさんはこの美しい海のサンゴやお魚を見せたいと一生懸命、私を深く潜らせようととします。彼女の小さな体でどうしてそんな強い力があるのかと思えるほど私の首根っこを掴んでグイグイと引き込んでいくのです。

 こちらは手足をバタバタさせて、「サンゴや魚なんてどうでもいいから、水面に上がりたい。助けてくれ~」って叫んでるんですが・・・。

 つまり、これは市中引き回しの刑ならぬ、海中引き回しの刑だったのです、私にとっては。

 海から上がってボートに乗り込むと、Aさんはニタニタと笑ってました。私がこのようになると初めからわかっていたのかも・・・。クソーッ。

No. 174 2018-02-01 [撮影四方山話] タイ・プラナン

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 寒いです。皆さん、お体にお気をつけて。

-----------------------------ーー
<目次>
1.[撮影四方山話] タイ・プラナン
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「Climbing and Diving in Thailand」(前編)
-----------------------------ーー

1.[撮影四方山話] タイ・プラナン

 前回、前々回の記事が好評のようなので、しばらくこの路線で書いてみたいと思います。

 2度の旅行会社によるトレッキングツアーに参加した後、もう旅行会社に依存する旅は卒業かなと思いました。下手なリにも片言の英語が話せないわけではないので、後は自分で企画して仲間たちとの旅を切り開いていけばいいわけです。

 そして、山歩きのトレッキングも卒業して、これからは岩登りのクライミングの話になります。

 次に目指すはタイのプラナンでした。ここの岩質は石灰岩になります。

 クライマーに岩質の話をすると、それだけでそのエリアがどのような形状であるのか、すぐにわかります。ここら辺のニュアンスが一般の人達とかなりかけ離れているわけで、このギャップを多少なりとも埋めておかなければなりません。

 日本で石灰岩というとまず、鍾乳洞を思い起こすのではないでしょうか。
 天井からつらら状に伸びて来る石をつらら石といい、その真下で地上からニョキニョキと伸びて来る石を石筍と言います。

 さて、タイ・プラナンではこれが洞窟の中ではなく、海岸の岩壁で起こるのです。亜熱帯の雨の多いこの地域ではつらら石が化け物のように大きくなり、石筍は海で洗われますのでそこに何も残りません。

 つまり、高さ100メートル以上、長さ数キロメートルにわたる東西の海岸線に巨大なつらら石が延々と続いているのです。

 その少し南に小さな石灰岩の島があると想像して下さい。海岸線と島の間に洲ができ、それが次第に大きくなって陸地となり平坦な砂浜が出来ます。そして、島が岬となって、小さな半島の完成です。

 その半島全体をプラナンと言い、平坦な砂浜をライレイと言っています。このライレイに掘っ立て小屋を作って住み始めたのがクライマーなのです。

 ところがそのライレイに行くためには海岸線が岩壁で道路を作ることができませんので、ボートで行くしかないのです。東の町クラビからは40分、西の町アオナンからは10分ほどの船旅です。

 現在のように開発が進んでいなかった当時は本当に自然の美しいところでした。

 朝は東の海から陽が昇り、夕方は西の海に陽が沈みます。海はエメラルドグリーンで澄んでおり、サンゴがいっぱいでした。潜るとクマノミに到るところで出会いました。ガラパゴス諸島で見るような大きなトカゲもときどき出て来ますし、サルもいっぱいいます。

 クライミング最高! ダイビング最高! 食事は安くてうまい。 タイ・マッサージに行って1時間もんでもらっても料金は800円。こんな世界、どこにあります。これをパラダイスと言わずして何と言うのでしょう。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「Climbing and Diving in Thailand」(前編)
制作 末次浩
時間 44分

 1998年当時はまだインターネットの黎明期。タイ・プラナンの情報を検索しても何も出て来ません。私たちが行こうとしているところは辺鄙なところなので、「地球の歩き方」に載っているわけでもないのです。

 ある情報と言えば、タイ・プラナンに行ったことがあるというクライマーの話とその人からコピーしてもらった数枚の紙の情報だけ。

 事前に宿泊先を予約出来るはずもなく、すべては現地についてからの交渉次第。ワイルド、そして、いかにもワイルドそのものなのです。

 今回の旅はAさんと私の二人だけ。

 当初はインドを一人で放浪していたという旅慣れたBさんと二人で行く予定でした。そこに年配のAさんも行きたいというのでメンバーに加わりました。ところが、出発前にBさんが怪我をして行けなくなり、再び二人になったのです。

 旅に不慣れな二人だけでは不安でしたが、Aさんの行きたいという強い意志で、この旅が実現することになったのです。

 それはそれはあまりにも珍道中過ぎて、一生、私の記憶から消えることはないでしょう。つまり、これによって本当の旅の醍醐味を知ることになったのです。

 成田を出発して飛行機の中でたらふくビールを飲んだ後、夕方5時頃にタイ・プーケットに到着しました。空港のロビーを出て、すぐにアオナンまで行ける白タクを捜すのですが、これも交渉事。

 決まった値段があるようで無いのと同じ。安さと安全さのシーソーゲームをドライバーの目や仕草で信用できるかどうか判断します。そして、ドライバーを決めて、いざ出発。

 情報によるとアオナンまで2時間ほど。白タクに乗ったのは陽が暮れる頃。街中を抜けて、周りがヤシの木のジャングルのようなところをひた走ります。そして、陽が完全に沈んで真っ暗となった中でも車は暗闇を突っ切って延々と進んで行くのです。

 ”このドライバー、本当に無事に連れて行ってくれるのだろうか。もし、こんなところで降ろされでもしたら、決して生きて帰ることなんてできない。”

 Aさんも私と同じようなことを考えていたようで、二人でビビッていたのです。

 2時間後、真っ暗な暗闇の中から、突如、ネオンが輝く街に入りました。
 アオナンに到着です。でも、これで終わったわけではありません。泊ることの出来るバンガローを捜さないといけないのですが、私たちには何もわかりません。ドライバーに頼んで、捜してもらうことにしました。

 1軒目、2軒目、3軒目・・・。クリスマス前のこの時期、一番混む頃なのでどこのバンガローも空いていないんです。ドライバーの機転で、アオナンを諦めて、もうひとつの町クラビに行くことにしました。そして、クラビの小さなホテルに空室があることを知り、そこに漸く泊ることが出来たのです。

 次の朝、ここから船に乗ってライレイへ向かいますが、その前にライレイのバンガローの予約をどうしても取っておきたかったのです。昨日、アオナンのバンガローが泊れなかったこともありますし、ライレイに行ってからバンガローに宿泊出来ないとなればみじめ過ぎます。

 ある旅行代理店に入ると、当時日本では毒カレー事件の話題で騒がれていましたが、その容疑者の顔とそっくりなオバサンがそこに座っていました。

 「ライレイのバンガローの予約をしたいんですけど・・・。」

 面倒くさそうにこちらをじっと見て、
 「今頃来ても空いてないよ。空いてるのは1泊2000バーツのホテルだけさ。」

 「エッ。」

 紙切れの情報によると1泊600-800バーツぐらいと聞いていたので、それぐらいのお金しか持ち合わせていません。

(注: 現在、ライレイはリゾート地に変貌していますので、バンガローといえど2000バーツを下回る部屋はないと思います。1バーツ=4円程度。)

 どうしようかと悩んでいると、Aさんが来て、

 「まず、メシでも食おうや。」

 その旅行代理店から出て、コーヒーショップに入り椅子に腰かけました。
Aさんは私をなだめて、

 「末さん、どうにかなるよ。」

 私はトーンを半分上げ、声を裏返らせて
 「どうにもならないよ。」

 この瞬間、おっとりしたAさんと心配性の私の二人の名コンビが出来上がったのかもしれません。

 コーヒーショップから周りを見渡すと、他にも旅行代理店がいくつかありました。気を取り直して、もうひとつの旅行代理店に入ると、

 「ライレイのバンガローの予約をしたいんですけど・・・。」

 二つ返事で、
 「いいよ。7日間ならば1泊750バーツの部屋があるよ。」

 「はい、予約します!」

 空いてるじゃん。これまで暗かった顔が突如、満面の笑みに変わりました。滞在する予定は10日間でしたので、3日間ほど足りませんが、それは現地へ行けばなんとかなるでしょう。急に希望が湧いて来てすべてが明るく輝く世界に見えて来ました。

 人間なんて、そんなもんでしょう。ちょっとしたことで天と地の差が出てしまうんです。

 そして、ボートに40分乗って、ライレイの南にあるプラナン・ビーチに上陸しました。

 そり立つようなオーバーハング。お化けのようなコルネ(つらら石)。そして、透き通ったエメラルドグリーンの海。

 想像をはるかに超えた美しい世界がそこに展開していたのです。

 ”ここに1週間も滞在できるなんて・・・”

<< 次回につづく・・・ >>

 20年前のプラナンの映像(1分30秒ほど)。
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=1

No. 173 2018-01-01 [撮影四方山話] パタゴニア・パイネ

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 新年、明けましておめでとうございます。本年も皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

-----------------------------ーー
<目次>
1.[撮影四方山話] パタゴニア・パイネ
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「地の果て -パタゴニア・パイネ トレッ
キング-」
-----------------------------ーー

1.[撮影四方山話] パタゴニア・パイネ

 前回のメルマガでキリマンジャロに関する記事の反響が大きかったですので、続けてその翌年のことについて書くことにします。

 キリマンジャロの経験は自分の見方・考え方を一新しました。それまで仕事上で世界のいろいろな地域を回っていると思っていましたが、それはあくまで都市と都市の点を結んでいることだけでした。
 地球上で起こっている大自然の100万分の1も知っているわけではないことに気付かされましたし、もっと多くの大自然に触れたいと思いました。

 そこで次に目を付けたのが、パタゴニア・パイネです。誰でもその写真を一目見たら、決して忘れないはずです。

 天に向かってニョキニョキと突き出た悪魔のような怪異な岩峰。

 赤道直下の美しい秀峰・キリマンジャロとは真逆の世界。これを見ずして何をか語らんです。

 山に詳しくない方のために、パタゴニアについて少し説明しましょう。

 パタゴニアは南アメリカ大陸の南端にあります。南アメリカ大陸の西側には北から南にアンデス山脈が続いていますが、それが途切れたところ辺りから南の地域を指します。

 国としてはアルゼンチンとチリにまたがりますが、ニュージーランドよりも緯度が高く、南極大陸に最も近い地域です。

 パイネ山群はそのパタゴニアの中でも、より南に位置しています。怪異に乱立する岩峰の中でも、パイネ・グランデ(3,050m)、パイネ・クエルノ(2,100m)、3本のパイネ・タワー(2,500m, 2,460m, 2,260m)が中心となります。

 特に、パイネの角と呼ばれるパイネ・クエルノの地層ははっきりと3段に分かれ、下層が黒色、中層がクリーム色、上層が黒色となり、その角の形状と相まって悪魔のように感じます。

 そして、このパタゴニアの自然を代表するものと言えば、烈風と呼んでいいのでしょうか、強烈な偏西風です。アンデス山脈に遮られた偏西風は南に下ってこの地域を通り抜けますから、西から東に向かって一方的に吹きます。

 木々の枝は常に西から東に向かって風を浴びていますので、まっすぐに伸びることはなく、西から東に曲がって伸びるのです。ですから、風が一瞬止んでも曲がった枝の状態は変わりません。それほど強烈なのです。

 また、雲がちぎれるように激しく流れますので、天候は不安定でコロコロと変わります。まず一日中晴れていることなど期待しない方が無難です。

 さて、そのトレッキングの模様を次に紹介しましょう。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「地の果て -パタゴニア・パイネ トレッキング-」
制作 末次浩
時間 39分

 1997年12月24日 成田空港の集合場所に着き、他のツアー参加者と初めて対面しました。昨年、キリマンジャロでお世話になった同じ旅行会社のツアーに申し込んでいたのです。そのとき、

 ”しまった。場違いのところに来てしまった。”

と後悔しました。

 ツアー参加者の8割は女性。それも皆さん、私よりもご高齢な方たちばかり。昨年は全員が強者の男性登山者ばかりだったのに、この違いは何?

 そうやって、このトレッキングのツアーが始まったのです。

 今はもう無くなってしまったヴァリグ・ブラジル航空に乗りました。

 成田 → 米国・ロサンゼルス → ブラジル・サンパウロ → チリ・サンチャゴ。
そこで1泊し、ローカル線に乗り換えて、サンチャゴ → プンタ・アレーナス。

 フライト時間だけでまるまる24時間は乗っていたと思います。何と遠いところか。本当に、日本から見れば、「地の果て」です。

 時間はたっぷりとありますので、他の参加者の方たちと話をしますと、
 「ヨーロッパ・アルプス、ヒマラヤ、カナディアン・ロッキーのトレッキング・ツアーには何度も参加したのよ。もう行くところがなくなったのよね。だから、このツアーに参加したというわけ。今回は珍しい高山植物が楽しみかな。」
ってな感じです。

 つまり、皆さん、お金も時間もたっぷりとある海外トレッキング熟練者ばかりだったのです。それはそれですごいなーと敬服しました。

12月28日 プンタアレーナス → 公園管理事務所

 最南の町 プンタアレーナスの空港に降り立つと、その寒さに身震いしました。こちらは南半球なので、今は真夏のはず。それなのに、この寒さ。セーターをもう一枚追加しないといけないかな。

 チャーターしていたミニバスに乗り込み出発。パナマ運河が開通するまでは船の往来が頻繁だったというマゼラン海峡を見ながら、進んで行きました。

 ダチョウ、マゼランペンギン、コンドル、グアナコなどの動物たちに出会いながらパイネ国立公園の公園管理事務所に到達。とうとうパイネ山群の山容が姿を現しました。

12月29日 公園管理事務所 → ペオエ湖畔

 トレッキング開始。これから先はバンガローのような宿泊施設はないので、すべてテント泊まりとなります。テント、食料などの運搬は現地ポーター6-7人で10頭ほどの馬で運びました。

 トレッキングが目的で来ているので、歩くのは仕方がないのですが、彼らと同じように馬に乗っていけば、なんと楽なことか・・・。

 私は雄大な山容を見ながら草原を歩いていましたが、女性陣は「ここにもある、あそこにもある」と珍しい高山植物に歓喜。私には名前のわからないものばかりでしたが、黄色い袋を持った”レディーススリッパ”と、せせらぎのそばにたたずむ”小川の涙”という赤い花の名前を教えていただきました。ロマンチックです。

 私は上を、彼女らは下を見ながら歩くという構図。興味の対象が違うんです。

 言うまでもなく、この草原には始終、強烈な風が吹き荒れていました。

12月30日 ペオエ湖畔 → グレイ湖畔

 グレイ川をたどりながら登っていき、グレイ湖全体が見える高台に立つと誰もが「すごい」と叫んでいました。

 グレイ湖には直径10-30mぐらいはあろうかという巨大な氷塊が無数に浮かんでいたのです。

 そして、さらに進んで行くとグレイ氷河が現れました。氷河というよりも氷原と言った方がよいのかもしれません。はるか向かうに見える地平線上の山と山の鞍部から壮大なスケールで流れて来るのです。

 そして、その末端がグレイ湖に入るとグレイ氷河の氷塊が崩れてグレイ湖に浮かぶのです。氷塊が崩れる頻度は1時間に1回程度。それが崩れるとき震度3程度の地響きがします。

 その夜、グレイ湖畔に泊りましたが、真っ暗なテントの中で1時間置きにドーン、ドーンと鳴り響く音と振動に心安らかにしていろと言う方が無理な話しです。

12月31日 グレイ湖畔 → フランセス谷

 フランセス谷はパイネ・グランデ(3,050m)とパイネ・クエルノ(2,100m)の間にあります。いよいよパイネ山群の核心に入って来ました。明日はこのフランセス谷を登り、パイネの懐と言える円形劇場に到達するこのトレッキング最大の山場です。

 その前に、祝杯をやろうというのです。ポーター達はこの日を楽しみにしていたようです。日本ではありえませんが、国立公園内にあるそこら辺の木を切ってきて、きれいにナイフで削って丸焼きのセットを作りました。そして、持ってきた巨大な肉の塊を串刺しにして焚き木の上で丸焼きをしました。大量のワインももちろんありました。言うまでもなく美味なチリ・ワイン。

 現地ガイドのAさんは私に「美味しいものを食べさせてあげるよ」と言ってたまねぎ1個を持って来ました。

 なんということはなく、彼はそれをそのまま焚き木の中に放り込んだのです。しばらくして、真っ黒に焼けたたまねぎを取り出しました。その焦げた周りの皮を器用に剥いて、中の白い実を取り出して「食べろ」と言います。

 食べてみると、とろけるように甘くて美味しいのです。山の中で食べるものは何でも美味しいといいますが、これもそのひとつでしょうか。

1月1日 フランセス谷 → 円形劇場

 朝から清々しい穏やかな天気。フランセス谷を登り始めると、珍しいことに普段、馬にばかり乗って歩くことがないポーター達も歩いて登って来ました。

 「こんなに穏やかで素晴らしい天気はパイネではめったにない。自分も一目、円形劇場の中を見たい。」というのです。

 パイネは青という意味です。緯度が高い地域の空の色は青の中でも深い青です。紺碧。
 左手に見えるパイネ・グランデの山の上に、そのパイネの色がありました。

 珍しく風が吹かない静寂な世界の中で、パイネ・グランデの山の中からカランコロンと落石の音がこだまします。その瞬間、雪崩が発生し、岩壁を滝のように流れていきます。雄大そのもの。

 そして、とうとう円形劇場の中に入って来ました。ぐるっと回りを見渡すと巨大な岩峰が何本もそそりたっています。どうやったらこのようなものが出来上がるのでしょうか。

 パイネの空の下に、その全容を見せて下さった神様に感謝しないわけにはいきませんでした。

 円形劇場の中を撮影した2分ほどの映像があります。
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=74
 当時のビデオカメラはアナログのHi8。現在の4K、8Kと言われるビデオカメラで撮影できていればなあ・・・。

No. 172 2017-12-01 [撮影四方山話] たかが・・・されど・・・

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 北西風が響灘に白波を立てます。九州と言えど寒いです。

-----------------------------ーー
<目次>
1.[撮影四方山話] たかが・・・されど・・・
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「KILIMANJARO」
-----------------------------ーー

1.[撮影四方山話] たかが・・・されど・・・

 メールマガジンNo.167 <2017/7/1>に、「新たな日課」として、近くの公園のゴミ拾いを始めた記事を書きました。その後の経過です。

 ゴミ拾いを始めた当初はゴミを拾っても、ゴミを拾っても毎日のようにゴミが捨てられていました。

 何の因果で始めたゴミ拾いかわかりませんが、こう毎日続くとウンザリします。これも自分の業の深さがなせるものと半ば諦め、一生続けなければと覚悟しました。

 ところが、2か月ほど経つと、ゴミを拾うペースが2-3日に一度ぐらいに減って来たのです。

 さらに2か月ほど経つと、ゴミを拾うペースが4-5日に一度に減りました。

 そして、最近はゴミを拾うペースは1週間に一度ぐらいなのです。

 なんで???

 いやいや、ゴミを捨てて欲しいと言ってるわけでは無いのです。現状通り、ゴミを捨てないことを続けて欲しいのですが、これまでゴミを捨てていた人は、なぜ、捨てなくなったのだろう?

 これも集団心理というものなのでしょうか。

 何かわかったような、わからないような・・・。

 たかがゴミ拾い、されどゴミ拾い。社会学の実験をする結果になったとは・・・。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「KILIMANJARO」
制作 末次浩
時間 26分

 表彰状とか、感謝状などというものに全く縁の無い私ですが、ひとつだけ額に入れて飾っているものがあります。

"This is to Certify that Mr. HIROSHI SUETSUGU has successfully climbed Mount Kilimanjaro, the highest peak in Africa, right to the Summit - Uhuru Peak - 5895m.
Date 4/1/1997 Time 8:50 AM"

 20年前にもらった、ありがたいとも思えなかった紙切れが、今、こんなに大切になるとは・・・。

 この登頂を境にして、私の人生は大きく変わっていくのですが、未だに、なぜ、その時、キリマンジャロ登山を思いついたのか、わかりません。パッと閃いたというしかないんです。

 それまで、海外の山など一度も登ったことはありませんし、それよりも、会社のお金ではなく、自分の懐のお金を使って、初めて出かけた海外の旅なのです。まあ、思い切ったというか・・・。

12月29日 成田発。エア・インディアでインドのムンバイへ向かう。

12月30日 インド・ムンバイ着。大阪発の参加者と合流。旅行会社が企画したこのツアーの全員14名が揃う。すべて男性。かなり登り込んでいると思われる連中ばかり。

12月31日 インド・ムンバイ発、ケニア・ナイロビに到着。ミニバスに乗って、国境を越え、タンザニアへ。国境付近にはマサイ族がたむろしていた。
 キリマンジャロ山麓アルーシャ国立公園内のモメラロッジ泊。本当に美しいところ。

1月1日 モメラロッジ発、ミニバスにて、マラングゲート(標高1550m)に到着。 
 現地ガイド4人、ポーター約50名ほど雇って、いよいよ登山開始。
約4時間歩いて、マンダラハット(標高2727m)に到着。標高的には八ヶ岳に登っている感覚。

1月2日 マンダラハット発、ホロンボハット(標高3780m)着。
 キリマンジャロの裾野を歩いているので、急登はなく、だらだらと平坦な道を歩いている感じ。私はここに来るまで、トレーニングらしいことはほとんどやっていないので、出来る限りゆっくりと歩いて、体をなじませようとした。標高的には富士山山頂。

 ここでもう1日停滞して高度順応をすれば、登頂率は80%を越えると聞いた。しかし、私たちのツアーは最短日程で登頂する企画。それでも11日間はかかる。会社をそれ以上長くは休めないのだ。高山病にかかることは覚悟の上で参加しているのである。

1月3日 ホロンボハット発、キボハット(標高4703m)着。
 植物限界を越えて、砂礫帯に入って来た。標高4200m辺りから頭痛が始まり吐き気を催して来た。高山病の始まりだ。しかし、意識して深呼吸をすれば気分の悪さが幾分弱まった。

 キボハットに着くと、参加者2人が真っ青な顔をしていた。ガモウバッグに入れて臨時の処置をしたが、2人はこれ以上登ることを禁じられた。

 明日は午前1時に出発。それまで仮眠なのだが、寝付けない。
 ウトウトして来ると、呼吸が浅くなり、気分が悪くなって目覚めてしまう。そこで、深呼吸をすると回復するのだが、またウトウトすると呼吸が浅くなり、気分が悪くなる。この繰り返しだ。

1月4日 キボハット発、キリマンジャロ登頂
 キリマンジャロは富士山と同じ火山である。まず火口であるお鉢のところまで登り(ギルマンズ・ポイント 標高5690m)、それからお鉢を回って最高点(ウフル・ピーク 標高5895m)に到達する。

 午前1時出発。氷点下なので冬用の衣服に着替えている。
 出発前に通達があり、ギルマンズ・ポイントを7時30分までに通過しなければ先には進めないと決められた。

 昨日まではハイキングと同じで、最後尾辺りをのんびり歩いていた。しかし、今日は明らかに登山であり、この1日だけが勝負なのだ。先頭を行くガイドのすぐ後ろ2-3番手から遅れないようにした。

 マラソンレースや自転車レースと同じで、第1グループに残った者だけが、ウフル・ピークにまで達することが出来ると思ったから。

 途中のハンス・メイヤーズ・ケーブに到達すると、参加者の1人が吐いてうずくまってしまった。彼は昨年も参加したのだが、ギルマンズ・ポイントにまでしか行けなかったので、今年はぜひともウフル・ピークに達したいと言っていたのに・・・。

 先頭のガイドの歩行ペースはほぼ一定であるが、時々、速くなる。
その時に、列が延びてグループに分かれてしまう。第1グループ、第2グループ、第3グループ・・・。その差は高度が上がるほど広がっていった。

 私は第1グループから落ちこぼれないように必死に登っていた。

 頭はガンガンと痛いし、吐き気は止まらない。それよりも何よりも心臓の動悸がすごいのだ。心臓が喉から飛び出してしまうような、いや、破裂してしまうのではないかと思えるほど、体全体がひとつの心臓になったような感覚なのだ。

 そして、とうとうギルマンズ・ポイントに到着したとき、第1グループに残っていたのは4人だけだった。第2グループは見えないほどにはるか後方だった。

 10分程休んで、第1グループだけで、火口のお鉢を回ってウフル・ピークに向かった。

 私は千鳥足状態で真っ直ぐに歩けなかった。ほんのちょっとなのになんと遠いことか・・・。左手には壮大なディケン氷河の氷壁が見える。そして、見渡すはるか下方には延々とサバンナが続いている。

 ここは赤道直下なのだ。ここに来た人だけにしかわからない天国の憧憬だった。 


 ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークで撮影した2分ほどの映像です。ボロボロだけど、私にとっては宝です。
https://www.originalcv.com/climbing/1606videoWorks/aWork/index.php?wnum=73

No. 171 2017-11-01 [撮影四方山話] 「末*」という名

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 ”希望”は人間の典型的な妄想。最大の強さであり、弱さの源でもある。
(Hope, it is the quintessetial human delusion, simultaneously the source of your greatest strength, and your greatest weakness.)
--- 映画『マトリックス リローディッド』より

-----------------------------ーー
<目次>
1.[撮影四方山話] 「末*」という名
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「(仮称)糸島のお土産」(未完成)
-----------------------------ーー

1.[撮影四方山話] 「末*」という名

 私の小中高校のときの朝のホームルームの出欠シーンです。
 「安倍君」、「はい」 ・・・
 「小池さん」、「はい」 ・・・

 そして、さ行に入り、「す」の欄になると、

 「末田さん」、「はい」
 「末次くん」、「はい」
 「末永さん」、「はい」
 「末松さん」、「はい」
 「末光さん」、「はい」
 「末吉さん」、「はい」 ・・・

 やたらと「末」の付く名字が多かったのです。

 その後、就職して関東方面に行くと、「末」の付く名字の方にあまり出会いません。たまに、出会って、出身地を伺ってみると九州北部という方がほとんどでした。

 こうなると「末」という文字の起点になるものが九州北部にあるに違いないのです。

 例えば、藤原氏が京から下向し、伊勢に行くと伊藤氏、近江に行くと近藤氏、加賀に行くと加藤氏となります。「藤」という名を一字残しながら出自の高貴さを物語っていると言えます。

 では、それと同じようなことが「末」という文字に対して言えるのどうかが問題です。

 そこで、以前から目を付けていたのが魏志倭人伝にある「末盧国」です。

 末盧国の出身者が他国に移住するとき、「末」という一字を取って名字を名乗ったのではないかと・・・。そして、「末」という一字を残すだけの何かしら誇れるような理由がそこにあったのではないかと・・・。

 では、末盧国とはどのような国なのでしょうか。

 末盧国は魏志倭人伝の中で、邪馬台国へ行くまでの途中の国として記録されています。

 帯方郡 → 狗邪韓国 → 対馬国 → 一支国 → 末盧国 →伊都国 → 奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国

 4番目の一支国の一支は「いき」と読み、現在の壱岐です。そして、5番目の末盧国の末盧は「まつら」と読み、松浦のことです。

 松浦は現在、長崎県松浦市、北松浦郡、南松浦郡、そして、佐賀県東松浦郡、西松浦郡にまたがる広い地域です。

 ここは言うまでもなく、日本本島の最西端。地形的には山が海岸まで迫っていて、米が豊富に取れるような広い平野はありません。一方、鷹島などの島々に囲まれた伊万里湾があり、天然の良港ですので、自然と水稲耕作よりも漁猟の方が盛んだったでしょう。

 それよりも何よりも、ここは朝鮮半島に一番近く、当時の倭の交易の玄関口です。ここから三韓や中国の各地に出かけて行ったに違いないのです。

 それはあたかもギリシャ人がエーゲ海を、フェニキア人が地中海を海の民として駆け回ったように、末盧(松浦)の人々も日本海、黄海、東シナ海を駆け回っていたのではないでしょうか。

 その海の民としてのプライドが、末盧国出身者に「末」という一字をその名字に残させた理由ではないかと思うのです。

 それをどのように証明するかということは難しいことですが、名字がそのまま地名になるという慣習もありますので、古い地図を出して来て松浦市を円の中心に置き、その円を徐々に外に広げるようにして、「末」の名の付く地名を捜していけば、何かしらの手がかりが見つかるのではないかと思いました。

 これを思いついた当時、平成の大合併で地名はどんどん変わっていくし、古い地図を引っ張り出して来るのも面倒なので、そのまま放置しているうちにトンと忘れていたのでした。


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「(仮称)糸島のお土産」(未完成)
制作 オリジナル・シー・ヴイ
撮影 5分

 朝7時過ぎ、ピックアップにいらして下さった車に乗り込みました。私が最後ですので、参加者5人全員揃い踏みです。

 「おはようございます。あいにくの雨ですね。」

 この日は九重に山登りに行くことになっていたのですが、天気は雨。宿泊先のコテージはすでに予約しているので、キャンセルするわけにもいきません。

 このような時、5人の中には暗黙の了解が出来ていて、ドライバーのAさんにその日の行き先を一任しているのです。Aさんが機転を利かせ、山登りから観光モードに切り替えて、どこかに連れて行って下さるというわけ。

 行く先はAさんの頭の中にだけあり、同乗している4人にはわかりません。

 さて、本日はどこへ行くのでしょうか?

 北九州都市高速に乗り、その後、九州自動車に乗り継いで西へ。さらに、福岡都市高速に入って行きました。西へ西へと進みます。九重は南にあるんですけど・・・。

 いよいよ海岸線に出て来ました。右手に博多湾があり、能古島が間近に見えます。そして、左手は背振山地の山並みが連なっています。

 元寇防塁の史跡を越え、生の松原を通り過ぎました。松林の海岸線がなんとも美しい。

 そして、とうとうたどり着いた先は、伊都国歴史博物館!

 田んぼの真ん中にドンとある感じ。瑞梅寺川と雷山川に挟まれた実り多き水田地帯の中です。
 博物館の中は立派な展示室になっていて、説明員の方が懇切丁寧に案内して下さりました。

 まず、地区全体を知るために、この地区の地形モデルがあるところへ行き、それを指さしながらの説明です。

 「ここが三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡です。伊都国の中心と考えられるところです。そして、ここが平原(ひらばる)遺跡です。日本最大の直径46.5cmの銅鏡が出たところです。・・・

 ここら辺一帯を伊都国と呼び、そして、その北側のこちら一帯を志摩国と呼びます。伊都と志摩ですので、現在はその漢字を置き換えて、福岡県糸島郡と言ってるんです。」

 「あっ、なるほど。」

 この伊都国の地図をじっと見ていると、あるところで目が釘付けになりました。末永という地名があるのです。
 そして、今度は志摩国の地図を見ていると、末松という地名を見つけました。

 「末」の名の付く地名が近くに2箇所もあるのです。松浦市からは直線で約50kmの距離です。

 これはひょっとして・・・。

 帰宅した後、早速、父が使っていた昭和50年代の地図帳を引っ張り出して来て、松浦市を中心に「末」の付く地名がないかを捜し始めました。

 世の中、そんなに甘くはないので、なかなか簡単に見つけられませんが・・・。

 あった! 佐賀県佐賀市の佐賀大学の西に末広、そして、南東に末次という地名があります。ここも松浦市からは直線で約50kmの距離です。

 さらに、あった! 福岡県小郡市の西鉄大牟田線の端間駅と鰺坂駅の間の東にも末次という地名があります。ここは松浦市からは直線で約70kmの距離です。

 なんと、このふたつの末次を直線で結ぶとその真ん中辺りに、邪馬台国の遺跡ではないかと空前の一大ブームになり、全国から100万人以上の歴史ファンが訪れた吉野ケ里遺跡があるのです。

 卑弥呼と末次に何らかの繋がりがあるのでしょうか?

 そして、九州全県と山口県を調べますと、「末」の名の付く地名は全部で23か所ありました。

 その内、海岸線から5km以内にあるところが13か所、そして、川を河口から遡航して行けるところが5か所でした。

 つまり、船を使えば容易にたどり着くところが約80%なのです。

 これはギリシャ人やフェニキア人が海岸線沿いの各地に植民都市を建設していった構図と変わらないのではないでしょうか。

 いよいよ、「末」の名字をもつ人々が末盧国出身者であるという確信が深まって来ました。

No. 170 2017-10-01 [撮影四方山話] 豊前・宇都宮氏

 オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。

 秋分の日の夜明け前、獅子座は東の地平線に、オリオン座は南の上空に輝きました。
 エジプト・ギザのスフィンクスとピラミッド。それらが暗示する時期と合致しているのならば、Xデーは近い?

-----------------------------ーー
<目次>
1.[撮影四方山話] 豊前・宇都宮氏
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「民宿『***』」(未完成)
-----------------------------ーー


1.[撮影四方山話] 豊前・宇都宮氏

 1185年、壇ノ浦の戦いで、平氏が滅亡した後、源頼朝は諸国に守護・地頭を置きました。

 特に、九州は平氏の力が強かったところですので、有力御家人として筑前に武藤氏、豊後に大友氏、薩摩に島津氏を守護として配置しました。

 と同時に、宇都宮大明神(二荒山神社)の座主を務めたこともあり、頼朝に信望の篤かった宇都宮氏(初代、宇都宮信房)を豊前の地頭として派遣しました。

 それ以降、宇都宮氏は鎌倉、南北朝、室町の各時代を通して、民心を掌握し、豊前に根を張った活動を続けました。

 そして、戦国時代。豊臣秀吉は九州平定に乗り出し、豊前に黒田如水・長政の親子を送り出しました。如水は降伏を促す文書を国人(在地領主)に向けて通達し、降伏しない国人は巨大な遠征軍の圧倒的なパワーでねじ伏せました。

 一旦は平定したかに見えた豊前ですが、太閤検地が始まると国人が蜂起。国人一揆が勃発しました。それもそのはず、太閤検地とは土地所有の領地権を国人から奪い、全国規模で直接に管理するのが狙いだからです。

 このとき、豊前で最大の国人・宇都宮鎮房は黒田長政と直接対決することになりました。

 初戦の岩丸山合戦では黒田長政は九死に一生を得る大敗北。なんとか城井谷の西側の尾根に向城を構築し、宇都宮鎮房の動きを封じました。

 黒田長政は宇都宮鎮房を牽制しながら、他の一揆衆の鎮圧を先に進める策に出ました。観音原合戦を制し、次々に一揆を鎮圧し、長岩城、犬丸城を落として、最後に残るは宇都宮鎮房の大平城のみ。

 ここで黒田長政は山岳戦が得意な宇都宮鎮房に真っ向勝負を挑めばたとえ制圧することが出来たとしても大きな兵力の消耗を来すと判断し、宇都宮鎮房に講和を呼びかけます。

 宇都宮鎮房はこの講和に応じ、降伏の形を取りました。嫡子・朝房と娘の鶴姫を人質として差し出し、豊前国人一揆はすべて平定されました。

 その翌年、黒田長政は宇都宮鎮房を中津城に呼び出し、酒宴の席上で謀殺。嫡子・朝房も殺され、娘・鶴姫は磔にされました。

 この謀略に、豊前の民衆は憤り、黒田氏を呪ったと言います。黒田長政が後に福岡藩主となっても、怪火や悪病が起こっては宇都宮氏のたたりのせいだとされました。

<参考文献> 松山護著「豊前・宇都宮氏」、松山護著「城井・宇都宮氏の滅亡」


2.先月のイチオシ!! ビデオ作品

作品名 「民宿『***』」(未完成)
制作 オリジナル・シー・ヴイ
撮影 5分

 今年の春先、兄夫婦から誘われました。

 「民宿『***』。泊るところは離れになっているし、とても広いわよ。パンも自作出来るし、楽しいよ。何と言っても民宿を経営してるご夫婦自ら作った野菜で食べきれないほどたくさんの料理が出るの。
 あっ、そうそう、近くにオートポリスがあるわ。」

 「何、それ。オートポリスって? 自動警察???」

 「ノンノンノンノンノーン! 鈴鹿サーキットのような九州におけるモータースポーツの聖地よ。」

 「へぇ~~~。そんじゃ、行ってみますか。」

 向かうは大分県日田市。ところが途中から急な山道になり、車がすれ違えないほど狭い道が延々と続きます。

 「本当にこんな山ん中に民宿があるの?」

 と言ってる内に少し開けた山間に出て左に曲がり、少し進むと右手にありました。主屋と離れ、それにパン工房の3棟の家が建っており、民宿を経営しているご夫婦は主屋に、私たちのような客は離れに泊ることになります。

 早速、主屋のご夫婦にあいさつに行きました。

 「今回もお世話になります。宜しくお願いします。」

 「こちらこそ。着くのが少し早かったわね。すぐにパンを自作してみる?」
と奥様から声をかけて下さったのですが、最近、大怪我をされたそうで足を引きずっているお姿が痛々しい。

 でも、背筋がピンと伸びていて立ち姿がきれいです。後で地元で発行された新聞の記事を読むと、お茶や陶芸、お謡いに弓道など多彩な趣味をもっておられ、しかもすべて師範級の腕前とか・・・。

 なんだか頷けるのです。

 「まだ着いたばかりですので、離れで少し休みます。パン工房でのパン作りは少し後で・・・。」

 その間に、私は一人で周りを散歩してみました。畑から山の傾斜部分にタラの木がたくさん植えてありました。
 後で聞くと、タラを千本も植えてるとか・・・。半端な数ではありません。

 そして、主屋の方に回り、庭を少し見させて頂いたのですが、なんだか違う・・・。垢抜けているのです。何でもかんでも木を植えて、ごちゃごちゃして作っているのではありません。

 バランス良く配置された庭石があり、その間に程よく木が育てられています。小さな庭の中に大きな広い空間を感じるのです。普通の農家とは少し違う・・・。

 その後、パン工房で奥様のパン作り教室が開かれ、私たちは自ら作った出来立てのパンを頂きました。素人が作ったとは思えないほど、ちまたの店に出してもおかしくない出来栄えです。

 陽が沈むとご夫婦は食材をもって離れの方にやって来られました。ここで奥様のご自慢の手料理が披露されました。次から次へと、工夫された美味しい手料理の皿が山のように出されます。

 それらを前にして、ご主人とはお酒を酌み交わしながら、お話しを聞かせて頂きました。

 「庭がとてもきれいですね。普通の農家とは違うような・・・。」

 「10年以上前に、北九州の門司からこちらに引っ越して来て、農業を始めたんです。この地域の皆さんには大変お世話になったので、その御恩返しと思って、少しでも多くの人にこの地域の良さを知ってもらいたいと、民宿を始めたんです。」

 私はふと、最近、父の蔵書の中から読んだ本を想い出しながら尋ねました。

 「表札を拝見すると『宇都宮』さんとなっていますが、豊前・城井谷の宇都宮氏と何か関係があるのでしょうか。」

 「ええ、そうなんです。家系図を見るとところどころ途切れていますが、先祖はそうだと言われています。」

 なんとご主人は豊前・宇都宮氏の末裔でいらしたわけです。世の中、何が起こるかわかりません。この山の中でこんな出会いがあるとは・・・。