作品名 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(後編)
制作 Original CV
作品時間 52分- リグリア海沿岸のフィナーレ・リグレから山を越えて、ポー川沿いのロンバルディア平原に入ってくると気温が10度ぐらい下がったように感じました。
今回の旅の最終目的地ラベンナはイタリア半島の長い靴の東の付け根にあり、西ローマ帝国滅亡時の首都でした。ここでも様々な歴史が展開されますが、そのひとつを紹介しましょう。
時代の中で人生が大きく翻弄される女性たちがいます。
織田信長の妹であるお市の方や、その子であるお茶々の運命は日本人でなくても悲哀を感じるでしょう。そして、ヨーロッパでは5世紀という時代を生きたガッラ・プラチディアもその一人でしょう。
ガッラ・プラチディアはテオドシウス帝の子として生まれましたが、二人の兄がいました。
アルカディウスとホノリウスです。テオドシウス帝は亡くなる前に、軍総司令官のスティリコにこの二人の兄弟を託しました。18歳のアルカディウスはローマ帝国の東側を、10歳のホノリウスはローマ帝国の西側を治めることになりました。
しかし、23歳になったホノリウスは嫌気が差して軍総司令官のスティリコを処刑してしまいます。無防備となった西ローマ帝国を西ゴート族のアラリックが攻めます。そして、ローマ劫掠が行われました。つまり、ローマは徹底的に略奪されたのです。そのときに、ガッラ・プラチディアは捕囚されました。
そして、アラリックの後継であるアタウルフと結婚することになりました。得意満面であったアタウルフですが、イベリア半島に移ってから他の諸部族と対立し窮してしまいました。
これを打開しようと次の族長となるヴァリアはローマと関係改善を謀りました。その条件とはアタウルフの殺害、ガッラ・プラチディアの返還、そして、食糧援助です。こうやって、北アフリカから送られた大量の小麦と引き換えに、ガッラ・プラチディアは5年ぶりにイタリアへ戻って来たのでした。
間も無く、ガッラ・プラチディアはホノリウス帝の承認の下に、貧農の生まれの将軍コンスタンティウスと結婚させられました。この二人の間にヴァレンティニアヌスという男子が生まれます。
2年後、子のいないホノリウス帝が亡くなると、ヴァレンティニアヌスが西ローマ帝国の後継となりました。まだ6歳のヴァレンティニアヌス帝は母であるガッラ・プラチディアの後見を必要としました。ここに来て、ガッラ・プラチディアは西ローマ帝国を統治することになったのです。このとき彼女は30歳代の半ばであったといいます。
何という波乱の人生!!
現在、ラベンナの『ガッラ・プラチディアの廟』に彼女の亡骸はなく、他に埋葬されていると聞きました。貧農の出であるコンスタンティウスと一緒に埋葬されることは、彼女の中にあるテオドシウス帝の娘としてのプライドが許さなかったのでしょう。 - メールマガジン No. 188 2019-04-01